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たまにはブラックなお話

40代以上のおばさまから
おばあちゃんには絶大な人気。後川です笑

今回は腹黒い意味のブラックではなく、
ブラック企業的な過去を振り返ろうかと思います。

僕が4年と8ヶ月おりました中堅住宅メーカーY社。

面接で受けた時の会社名から入社式の時には買収されて社名が変わり、社長、営業本部長、支店長クラスが競合他社の上層部にガラッと変わり、これから会社を担う30代の有望な先輩方がごそっと退社し、面接時に車営業と聞いていたのが、『君達、家が一棟売れるまでは自転車で回ってもらうから』という先輩営業社員の一言に一瞬で新入社員全員が凍りつき、その日で2人辞めるなど、開始早々なかなかに色んな物語がありました。

良くも悪くも鈍感でありながら、
まぁ覚悟して入ったしやるしかないと思っていた僕は、支店長の仮初めの親心(?らしい)により、大阪支店の新人全員あえて家から一番遠い展示場に通わされても堪え。
住宅営業で入ったはずが、親会社の家電量販店に立たされ、粗品で客引きをしてガラガラ抽選した人に住宅アンケートを取り、そこから電話と訪問を繰り返し、アンケート取得数などを競ったりして、頑張りが認められれば展示場営業にしてもらえ、代わりに同期が1人電気屋に戻されるなんて事を、交代の度に同期が泣きながら電話してきたりなどして、励まし合い、成果を上げることを誓っていました。

毎日大阪の堺市全域から、和泉市、高石市、松原市、大阪市、狭山市、富田林市など…
1日平均20〜30㎞移動、訪問件数ノルマ25件、アポ2件をこなし、

『こんな非効率で苦しい思いして意味あるのか⁉︎』と自転車のハンドルを握り拳で何度も叩きながら、

汗をかきすぎてスーツのズボンが塩で真っ白になる夏の日も、手がかじかみ過ぎてラーメン食べてあったまってはまた走ってた冬の日も、走り続けました。

1日のスケジュールは大体、
8時半出社→掃除&訪問準備→朝礼→ロープレ→10時訪問出発→19時帰社→21時まで電話→
顧客情報整理→ロープレ→上司に成果報告→資料作成→0時終電で1時間かけて帰宅。

といった感じでした。

肉体疲労と精神疲労、寝不足が重なって、
休もうとしたら『俺は23年間休んだ事がない』と自慢する上司に説教食らい、
出続けてたら車に乗ってからは居眠り事故
何度か…。

熱が出て休もうとした時は『営業マンならいつも通り這ってでも出てこい!そこで初めてしんどそうやなと判断されたら、帰れって上司に言ってもらって帰れるねん』と怒鳴られ。

この人達はもっとキツイ想いしてきたんだもんな…こんな事で弱音を上げるからゆとり世代だと言われるんだよな…と、しまいに感覚が麻痺してきて、もうワケがわからずやるしかないという状態でした。

僕は幸い誰より真面目に訪問して、運良くお客様に恵まれたこともあり、4月から11月まで契約が無くホントに苦しかったのですが、
12月に1件、1月に1件、2月に2件契約という大逆転劇を起こし、なんと125人の中で新人王になれたのでした。

住宅営業は契約時点では頭金とも言える1割の金額しか入っておらず、契約取れてからが本番なので、まぁ打ち合わせ準備やら『らしい』仕事が増えて楽しかったのですが、3ヶ月4件はさすがに詰め込みすぎてまぁハードでした。

2年が過ぎる頃、12名いた大阪支店の新人はわずか3人になっており、4年が過ぎる頃には127名いた同期が20名になっていました。
結果が出なくて自主退職した子もいれば、
いじめられて辞めた子や鬱になった子など様々でした。

まぁ、ちゃんと訪問してるかGPSを携帯に付けて見張られ、訪問中コンビニにコーヒーを買いに入っただけで支店長から『サボってんちゃうぞー』と脅しの電話が入り、営業会議で詰められ…なんてしてたら辞めますよね。

まだこれで高収入なら耐えられたかもしれませんが、当時営業車は会社で用意が無く、リッター15㎞以上の燃費の車を自腹購入。月々2.5万円と約束されていた私有車手当と、
ボーナスが2年目から全社員無くなりました。
建築技術が高く、素晴らしいものを多く建てている会社ではあったのですが、そもそもライスワークとして成立しなければ元も子もないので、ごく一部の方を除いては生活が成立せず、
暗い話ばかりでした。
(VOLVOに乗ってた先輩が VOLVO売ってアルトエコー(軽)に乗ったりとかね…。)

設計さん、インテリアコーディネーターさんもプライドが高く、なんでも相談に乗ってくれるという感じではなかったので、『それさ、やるのはいいけど決まるの?』と突き返されることもしょっちゅうで、僕も例外ではなく、人間関係の悩みも多くありました。

なんとかこの体制の時はまだ真面目で嘘つかないという点を評価され、いじめのマークから外れていたのですが、本当のブラックになったのはこの体制が崩れ、余所者が全て排除され、虐げられていた生え抜きベテランが一斉に返り咲いた後でした。

まぁ極限までいじめ抜かれた緊張状態からの
緩和がこんなに組織を堕落させてしまうのかというのを目の当たりにしたような心地でした。

一旦おかえり〜ただいま〜みたいな平穏が訪れたかと思えばその後、全本部長や支店長が上司をいじめて新人にはまだ優しかったこともあり、それの反動ともいうように若手社員への
“自己流”の押し付けが始まりました…。

僕が3年目の時に支店長になったOさんという方がまぁ最悪でして。

僕の好きだった課長代理に聞くと、
その課長代理が新人時代、上長だったOさんは
毎晩2時に『夜礼』というのをするそうで、
そこから始まり、終わるのが朝5時…。
当時の部下達はみんなそれがあるのをわかってるので、訪問に行ったフリをしてそれに備えて車で寝ていたそうです。

なんとバカげた話でしょう…
身の毛がよだちました。

そのままOさんは帰って犬の散歩して、息子とキャッチボールしてまた出社。

そんなの頭おかしいやろ…と言いたくなる生活リズムを部下にも強要してしまう人なのでした。

O支店長は当時の感覚そのままに、
夜礼こそ無いものの、すでに退社した社員達に
『明日聞けよ…』と言いたくなるような、顧客管理状況や、今月の営業目標などを聞き→説教という流れを長ければ1人1時間かけ、夜中3時ぐらいまで毎日それが続きました。

何度か職場満足度調査で異動願いや、
ありのままの事実を書こうかと思いましたが、
上司に内容を見られ、『お前余計なこと書こうと思ってんちゃうやろな?』と言われるとまぁ書けませんよね。
何のための調査なんやろ…人事部はこんな現場経験してないから何もわかってないんやろな…と思い鉛筆を置いていました。

ある日のこと、僕は疲れ切って寝てしまい、
0時半過ぎの電話に出れず、翌朝お詫びの電話をすると無視され、出社すると支店全員の前で大声で、『昨夜電話に出なかったな。お前にはもう会社携帯は必要無い。自分の携帯で経費を払え。それが嫌ならもう二度と電話を取り逃がさないことを誓う誓約書を書いて拇印を押せ。
今ここでみんなの前で。』と、まるで犯罪者のような屈辱的な扱いを受けました。

さすがにあの時は設計、積算の後輩達から
『後川さん…あれはさすがに訴えていいと思いますよ…』と言われましたが、
まぁみんな見て見ぬ振りをする恐怖政治っぷりでした。

タイミング良くそんな環境から脱却する理由を作ってくれた父には感謝しています。

多分その選択肢が無かったらまだ会社にいてたと思いますから。

僕も相当病んでましたが、僕以上に職場で部下を庇ったりして精神安定剤と睡眠薬を飲んでいた当時の彼女(今の嫁)と支え合い、乗り越えられ、今こうして幸せな生活を送れていることが本当に奇跡のように思います。

仕事自体はお客さんの人生のお手伝いを任せてもらえるわけですから、そりゃあお引渡しの際なんかに得られる感動は格別でした。

別に愚痴るつもりで書いたわけではなく、
こんなこともあったなーと今だから多少笑い話にしながら淡々と語れる事実かなと。

当時で60年以上と業界最長の歴史とプライドがあり、外部との交流がほぼ無いクローズな環境だったので、狭い世界の中でやってるとこんな負のスパイラルに陥ってくのかというある意味良い例だったと思います。

思い出すだけで少し疲れますね笑
ある意味いい疲労感でいい眠りにつけそうです笑

最後まで読んで下さった方ありがとうございました。
皆様のブラック日記もお待ちしております笑

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