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人生あとは登るだけ

まずはじめに

僕は人より先に何かを習得したり、人より先に活躍したりすることはできないかもしれない。

でも人より何でも遅れを取る分、自分にしか見てこれなかった景色があると信じ、落ち込む方や自信を無くしている人がいれば、その人に共感し、前を向くキッカケになれたらと思う今日この頃。
その所以となる過去を自分なりに振り返ってみようと思う。長いですがよろしければお付き合い下さい。

まず始めに言い訳っぽく聞こえるかもしれないが、僕が劣等感を感じているのが以下↓

手先も不器用、物覚えも悪い、元々コミュニケーションも下手、空気も読めない、運動神経もからっきしダメだし、柔軟性も70代レベル(10代にしてじいちゃんばあちゃんより固かった)。祖母・母のいる環境でぬくぬくと育てられたので兄妹共に家事なんかやったことないまま大人になった。(結婚してすぐ、嫁に頭下げて『ごめん!米研いだこと無くて悪いけど教えて!!』と言ったのは今では良い思い出w)要領も人一倍悪いし、朝も壊滅的に弱いくせに超夜型。(阪神大震災の時5歳だったがお腹にテレビが落ちてきても熟睡。)時間にもルーズ。何をやっても続かないし、中途半端。集中力も無い。加えて花粉症も人一倍キツイ←

まぁ色々書いたが習慣的に直せる部分も多いのでそこは直していっている。

勉強だって、スポーツだって、ゲームだって、やっと覚えようかというぐらいにはもうみんな別のことをやっていることもしょっちゅうだった。

今までの人生で何度自己嫌悪に陥り、絶望し、明日なんて来なければ良いのにと思ったり、それこそリスカとかはしなかったが、
育ててくれた親に申し訳なくなって泣きながら自殺を考えたこともあった。(死ぬ勇気なんてなかったけど。)
もうとにかく努力する気も起こらないほど、なんでこんなに何をしても人並み以下なんだろうと思う事ばかりだったのだ。

幼少期〜小学生時代

小さい頃のことを親に聞くと、親戚の結婚式に連れて行ってもお菓子さえ与えれば声も上げずずっと大人しくしていてくれる子だったという。2個下の妹が生まれるまでは1人で静かにジグソーパズルをしていた。
(4歳にしてはあまりに早く、わかりにくい箇所から完成させるので、この子パズルのプロになれるんじゃないかと祖母と母は思ったと言う)
妹ができてからはお互い男女それぞれの遊びに合わせて一緒に遊んでいた。
後に女友達から色々相談されたり、買い物に付き合わされるようになるのだが、この頃から素質が形成されていたのかもしれない。

あと余談だが、我が家は父がとにかく怖く、妹が出来た頃から、妹を泣かしたり、親の言いつけを守らないと「お前はもう明日から寺に入れる。そこで丸坊主にして親元離れて修行して暮らせ」と謎の脅しを何度も父から怒鳴られながらされていた…。
宿題を教える時も間違った答えの一文字目を書くだけで怒鳴りながら後頭部をど突かれ、答えを書くのが怖くなって泣きながら手がガタガタ震えるというスパルタ教育を受けていた。(あの頃涙が枯渇したのではないかと思っている。)
妹が悪い喧嘩だとしても、妹が泣いたら理由も聞かずに血相変えた親父にど突かれるので、小3ぐらいからバカバカしくて妹を大事にするようになった。なので今も2人でカラオケに行くぐらいとても仲が良い。

小学校ではとにかく1人じゃ何も出来ないし、いつも友達に助けてもらっていた。
何も出来ないくせに可愛い女子から手伝ってもらってたことに嫉妬されたのか、一部の男子からいじめられたりもした。

小5から塾に通わせてもらって勉強できるようになったが、低学年は勉強もダメで、小1の頃は時計を見ても時間がわからないほど酷かった。
ボーッとしてて忘れ物も多く、「殿〜!お母ちゃんや先生が言わんと何もできひんの?」と丸めた連絡帳で担任に頭をポカンと毎日叩かれていた。

このままじゃいかんとクラス代表の代表委員になり、その後生徒会にも立候補し、
なぜか当選。
クラスのみんなの前にも立てない奴が、1000人の全校生徒の前に立ってガクブルしながら話すという無謀な挑戦に出たのである。

中学時代

生まれてこの方優越感に浸ったことといえば、中1からずっと英語だけは塾でも学校でも学年トップクラスだった事ぐらいだろうか。
勉強はしていたが、初めて苦労せずとも人以上に出来るものに出会った。
中3レベルという英検3級をみんなと同じく中3で受けようとしたら塾の先生から、『お前もう1個上やってみろ。』と言われ、準2級を受け、学年で唯一合格。父もこの時だけは誇らしかったと語ってくれた。
ただ、あの時ピークだっただけで、それで調子に乗って高校受験失敗し、公立高校に入学。(他校の生徒もいるのに井の中の蛙だったなーと。)次こそはと奮起する受験失敗組もいる中、勉強もせず腐りに腐った。高校に入ったらTOEICも英検も周りに抜かれたので自慢できるものでもなくなった。

部活は野球が好きだった為、自分だけ未経験者にも関わらず入部。いきなり激しく運動した為、体が絞られた代わり、尿から淡白が。
この野球部、先輩達が顧問のいない間悪ふざけしかせず、唯一の未経験者の僕には特に当たりが強かった。そんなことしてるから地方大会の1回戦でいつも負けるんだ…と内心思っていた。
エラーしたら部員全員でダッシュするというボール回しで、わざと取れないボールを投げられ、反省と称して丸坊主にさせられ…。
制球力が絶望的だった僕は朝練で指を骨折したことで更にノーコンになり、「後川とキャッチボールできたら賞金払う」などと言われるほどだった。次第に消去法で部内一の嫌われ者のある1人としかキャッチボール出来なくなった…。
この頃から練習に行きたくなくて夏休みも家のトイレに篭るようになり、練習疲れで塾の勉強もままならなかったので、塾の先生に冗談で「部活辞めたら?」と言われたのを機に1年半で退部。同期に襟ぐり掴まれて「ここで辞めて悔しくないのかよ⁉︎」と怒鳴られ、
「俺の気持ちがお前にわかんのかよ⁉︎」
とドラマみたいな喧嘩をして後味悪い去り方をした。こんなにも元野球部と言いたくない元野球部員はいないと自信を持って言い切れる。キャッチボールすらできないからね。

辞めたおかげで成績は爆上がりした。

そーいえばこの頃からほっといても担任に
委員長やってくれとせがまれるようになった。
成績優秀、クラスの全員を敵に回そうと先生の教えに忠実で、ルール遵守な人間だったからだろう。

しかし

委員長=優秀

みたいな固定概念が、小学生までの劣等感しかない素の自分をさらけ出しにくくする障壁となり、どう生きていいのかかなり苦しんだ。

高校時代

公立なんて頭の悪いやつばっかだと思って友達以外は見下してたし、中学が頭も良くて可愛い女子が多くレベルが高かったので、
高校の女子には目もくれず、私立受験の学力貯金が枯渇するまで勉強せずに二次元に没頭し、隠キャヲタクとばかり絡む毎日。
主な会話は昨日見た深夜アニメか徹夜でやったゲーム。女子ウケは最悪。
元受験組の優秀な自分から、成績普通かそれ以下まで落ち込み、周りから色々言われたが、自尊心はこの時代に捨て去ってきた。

一応ストリングオーケストラ部という部活があり、バイオリンを過去に2年やってたということもあって、またやり始めて3年間はやり遂げた。コンサートマスターもやった…と言えば聞こえはいいけど、指導者に恵まれずレベルも低い部活だったし、それ以降弾いてないので、もう人前では弾けない。

(だがいつか嫁が僕に飽きてきたと感じることがあった時、盛り返しを図る特技として、密かに練習して披露し、惚れ直させてやろうかと今もバイオリンを家に置いている笑)

一番あってもなくても良い時期が高校時代だったのだが、高一で今の嫁と出逢い、社会人で再会して結婚してるので皮肉にも無かったことにはできないのだった。

大学時代

大学は高校で行けなかった関西学院大学にリトライするも失敗。浪人でもすれば僕は確実にニートになると睨んだ親は浪人拒絶。
(『お前がニートになるなら俺はお前を刺し殺して俺も死ぬ!』と父に衝撃の一言を浴びせられ、少し考え改める。)

反抗する子でもないので家出するわけでもなく、滑り止めで受かっていた私立に入学。

彼女も19になるまでできなかったし、
もう自己否定感がハンパじゃなくて、
あーあ、どんなつまらない人生が待ってるんだろう。もうどうでもいーやと自暴自棄になっていた。

そんな折、当時流行っていたmixiで昔好きだった子に再開。ずっと好きだったんだぜ〜的な斉藤和義風の告白をするも、昔してくれたら付き合ってたのに…今彼氏いるから…と撃沈。その時言われた『思い立ったらすぐ行動やな』という言葉を胸に刻み、まずは彼女作るか、と不順な動機で一念発起する。

自分から友達作ったことなんてないんじゃないかぐらいの人見知りを克服しようと、入学式で後ろの席の知らない人に、ええいままよの勢いで話しかけ友達になる。

そこから割と順調に友達の輪を広げていき、
10人ぐらいのグループになった。
男ばっかりだったがこのまま楽しいキャンパスライフが送れそうだな…と思ったのも束の間…。

当時運動神経も無いくせに人見知りを直しつつ身体を鍛えようとフィットネスクラブのインストラクターのバイトをやっていたこともあり、部活みたいなもんだから部活にもサークルにも入らなかった。

すると友達はみるみるサークルに所属していき、何にも属してないのは僕だけになった。
各々新しい環境で友達を作り、打ち込むものができ、僕が入る隙は無くなっていた。
気付けばまた食堂の窓際で1人飯を食っていた。

失恋も重なってこの頃またやばかった。

唯一ゼミに救いを求め、いざ始まってみると、おじいちゃん先生で、生徒20人が自分のパソコンに向かって戦後の経済成長の古いNHK番組を見せられ、ワードで感想を打ってフォルダにほりこみ、先生は質問する間も無く先に退室という、ゼミ生同士の絡みが一切無いゼミだった。結局1年半1人も友達できず。

焦りを感じた僕は、2年の新ゼミ選択時期に
校内1番人気の面接があるほどのリア充ゼミを受けることにした。(思えば小学生の時の生徒会といい、ちょいちょい思い切った挑戦をしてるなと。)

母親が買ってくるユニクロの服で満足するのをやめ、自分でオシャレを覚え出していた僕は、バイトで人見知りが緩和されていたこともありなんとか倍率5倍ぐらい?の面接をクリア。(ここでハキハキ喋りさえすれば自分は第一印象が結構良くできることに気付く。)

そこで今も付き合いのある友人達と出会えたことで人生が好転し始める。

経済学部だが、労働法など法律に少し興味を持ち、法と経済コースに進む。
経済より法律科目の履修が多かったので、
経済のことが全然話せない為経済学部とあまり言わないのはここだけの話…。

大学は浪人もせず卒業したものの、必要な単位を取って、グループワークとプレゼンの多いゼミで協調性と人前で話すことを磨くことに注力する以外は、5限目の授業はカードをかざして出席扱いにし、試験だけ点を取ることにしてカラオケに行くというのを週3回もやっていた。
今思えば親の金でもっと勉強しておけばよかったと懺悔の気持ちが強いが、その頃「勉強しに行くだけが大学じゃないから。留年だけはすんなよ。」という教育方針に変わっていた親は、以前死にかけてた僕を知るだけに、とても明るく、充実した生活を送っている様子に安心してくれていたようだった。

恋愛の方はというと、失恋もそれはそれは沢山したが、どうしても付き合いたい子とは2〜3回会えばほぼ100%付き合えるようになっていた。

お陰様で19歳まで彼女ができなかったのが嘘かのように、隙間なく19〜24までで6人の女性とお付き合いさせて頂き、その6人目となる今の妻と1年半の交際を経て結婚。

しかし嫁との結婚前、嫁が部下を庇って精神的に攻撃を受けたりなど、職場環境のせいで、職場の最寄駅に降り立つだけで気分が悪くなるほど、精神的に病んでいた。
精神安定剤と睡眠薬を服用し、本当にヤバかった。僕も会社で結果が出ず、支店長のパワハラの1番の標的になっていたので自分も大概キツかったが、なんとかその時期を支え合い、乗り越えて症状も治り今に至る。
(僕の会社員時代は先日のブラック日記と重複するので割愛致します笑)

継承経営

4年8ヶ月のウルトラブラック企業経験を経て、父がやっていた2社の内、1社を引き継ぐこととなった。
本当は前職の次にもう1業種自分で選んだフィールドでもう一度挑戦してみて、天職を探したいと思っていたのだが、如何せん目に見えて父がしんどそうだったので、微力ながら手助けが出来ればと思い継ぐことにした。

1年目は嫁が手伝っていてくれていたこともあり、今でこそ各社1人で雑務・経理・物件管理までこなすと少し大変なのだが、3人だと逆に時間に余裕がありすぎ、セミナーに行ったり、町内会の手伝いをしていた。

父が町会長を継ぐ決意をした辺りから、町のことに意識を向け始める。
70歳以上の方20人で「若い人をどうやったら呼び込めるか」みたいな話をしていても進展しないと思い、若手の地域活性化コミュニティを結成。

これは業務に余裕があった時に南船場のお店に足繁く通って店員さんと仲良くなって、横の繋がりを作り、お互いのお店でお客さんを回しあい、半日潰してもらえる街になればいいと思って交流会にお誘いして、というのを繰り返した結果だった。

経営学を勉強することも大事だが、
日々多様性が尊重されていく中、
松下幸之助さんの好きな名言

『今が最善だと思っても、それは今日の最善であり、明日の最善ではない。
物事は日々進歩している。』

という言葉の通り、マネジメントの仕方も日々事情が変わっていくのではないかと思い、会社に1人で篭っててはいかん!
ということで仕事のつもりでこのボランティアに真剣に打ち込むことにした。

色んな業種の方と、楽しい雑談をしながらも
現場の生の声を、仕事仲間目線と顧客目線の両方で聞けることがとても勉強になると感じた。

そしてこれは僕個人を見つめ直し、
『自分は“何者”で、どんな能力に長けていて、何ができるのか』
という問いをし続けるいいキッカケだとも
思った。

嬉しい悲鳴…と言ったらいいのか、
社内では経験できない、コミュニティ内での人間関係の悩みがあるわけだが、
それを愚痴るわけではなく、前進するためプラスに変換できるような、“知”を“共有”できるコミュニティが僕の得意なオンラインで無いかと探していたところ、佐々木さんの紹介でジャイキリコミュニティに巡り合った。

“今の自分”だからこそ出来るということもあるだろうが、間違い無く、“後川 茂紀”
だからこそ出来るということが必ずあるはず。
色んな方の手助けなくては今の規模になっていないはずだし、感謝が尽きない。
しかしなぜここまでできてるのかの理由を自分の中に探していきたいと思っている。

またゼロからのスタートのつもりで、
自分探しの旅をしつつ、
自分の黒歴史を塗り替える
僕なりの“GIANT KILLING”をここから
始めるのだ。

最後に、ここまで外界の危険を寄せ付けず、
真っ直ぐに僕を育ててくれ、生活が苦しい時もあっただろうに、やりたいことはやらせてくれた親に深く感謝したい。
娘が今年3歳になるが、親が自分にしてくれたことを子にも還元し、なるべくやりたいことはやらせてあげたいと思えているのは親の教育の賜物である。
小さい頃は裕福な家庭であることをいじめの材料にされることも多かったが、今ではそういった環境に守られていたことを実感している。
ご先祖様の築いてくれた土台の上に今僕があり、こうして素敵な人々に出会える環境に巡り会えたことを幸せに思う。

長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。
大した内容は詰まってませんが、こんな反省・開示の企画を下さったカズマさんに深く御礼申し上げます。
皆さま今後共よろしくお願い致します。

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