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コラボレーションの力

もうひと昔も前の2009年に出版された本なのだが、今も時折読み返すのが、経営コンサルタントでワシントン大学の心理学・教育学部教授キース・ソーヤーが書いた「凡才の集団は孤高の天才に勝る~『グループ・ジーニアス』が生み出すものすごいアイデア」(金子宣子訳)である。
いわゆるビジネス書として読み始めたのだが、クリエーションに関する多くの示唆を得ることのできる本である。

その中で著者は、かつては一人の天才が創造したと信じられていた各種のイノベーションや歴史的に名高い発明や発見が、実際には目に見えないコラボレーションから生み出されているということを実証的に述べている。
シグムント・フロイトは精神分析学の創始者とされているが、その数々のアイデアは、同僚たちの幅広いネットワークから誕生したものだ。
クロード・モネやオーギュスト・ルノワールに代表されるフランス印象派の理論は、パリの画家たちの深い結びつきから生まれた。
近代物理学におけるアルバート・アインシュタインの貢献は、多くの研究所や学者チームの国際的なコラボレーションが母体となったものである。
偉大な発明はすべて、小さな閃きの長い連鎖、様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機として生まれたものなのだ。
著者は、ポスト・イット(付せん)がどう生まれたか、ATMやモールス信号がどのように発明されたかについても順次述べていく。当初のアイデアは、コラボレーションの助けを得て、やがて次のアイデアを導き出し、それとともに当初のアイデアは思いもかけないような意味を帯びてくる。このようにコラボレーションは、小さな閃きを互いに結び合わせ、画期的なイノベーションを生み出すのである。

当時書かれたこの本の書評で、法政大学教授(当時)で江戸学研究者の田中優子氏は、このコラボレーションを江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」になぞらえている。
「連」は少人数の創造グループで、江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれたのだ。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたものだったという。
もっとも革新的なものが、もっとも伝統的で日本的なものと呼応していると感じることは、なんと私たちを勇気づけ、鼓舞してくれることか、と感銘を受けたことを覚えている。

その「座」「組」の顕著な事例が演劇活動を行う「劇団」の創作過程であるだろう。
キース・ソーヤーのこの著作の中でも、ある即興演劇を行う劇団の公演の様子を記述しながら、一人の俳優のアイデアが次々に他の俳優のひらめきを誘発し、連鎖しながら思いもかけない展開を生み出す様子が紹介されている。
演劇はあらゆるクリエーションの現場ばかりでなくビジネスにおけるコラボレーションのあり方のロールモデルにもなり得るものなのだ。

ここで一つの問いが生まれる。
いま、創造の煮えたぎる坩堝はどこにあるのだろうか。

昨年から引き続くコロナ禍によって、いま表現者たちのネットワークは分断され、コラボレーションの輪も引きちぎられようとしている。
もちろん離れた場所にいたとしてもコラボレーションは可能なのである。むしろアイデア出しは一人がいいという人もいるだろうし、作品制作の時は誰にも干渉されたくないという人や、それに適した分野のあることも確かである。

しかし、創造の神は密なることを好むのである。
ヒトや動物、車が速く走ったり、火を熾したりするのに摩擦が必要であるように、ただ心地よいだけの何の抵抗もないところからは何も生まれない。独りよがりにならず、自己模倣や自己撞着に陥らないためにも、適切な批判やアイデア・思考を止揚するための徹底した議論は必要なのである。
ところが、世界を覆いつくしたコロナ禍によって、密であることが悪とされ、口角泡を飛ばして延々と議論したり、同じ現場で試行錯誤の作業を繰り返したりすることが忌避されるようになってしまった。
いま創造の煮えたぎる坩堝はどこにあるのだろうか……。

すでにリモートワークを駆使した創造のプロセスを経て制作した作品をネット配信するような試みがすでに演劇、音楽をはじめ様々な分野で行われている。
その成果がどう評価されるかは数年後あるいは10年後、幅広いスパンで表現活動の歴史を俯瞰した批評が行われるだろうが、こうした現状を打開するためのアイデアを生み出す取り組みにおいても多くの表現者、創造者たちのコラボレーションが力を発揮するものと信じたい。

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