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要約 Holford, M.L., 'War, Lordship, and Community in the Liberty of Norhamshire', Liberties and Identities in the Medieval British Isles, ed. M. Prestwich (Woodbridge, 2008), pp. 77-97.

 ノラムシャー特権領(Liberty of Norhamshire)とは、イングランド北東に位置する「王の令状が無効な」いわゆるroyal libertiesの一つである。Bedlingtonshireと同じく、ノラムシャーはタイン川-ティーズ川間を主体とするダラム特権領(liberty of Durham)の一部をなしている。著者は1350年までの英蘇戦争がノラムシャーに与えた影響について焦点を当てる。


ダラム司教の所領
https://twitter.com/Englands_NE/status/1529550255351529473?s=20


 
 英蘇戦争が始まる前の1217年から1296年の間は、王権がノラムシャーに干渉することはほとんどなく、その社会・政治生活はダラム司教の領主権と行政機構によって形作られていた。ノラムシャーの所領の大半は、Gray家に代表されるナイト層家系や地名を姓とする裕福な地元の家系によって保有されていた。ノラムシャーの行政機構は、ダラムに密接に結びついたBedlingtonshireと異なり、それ自体の権利で一つの行政単位、'comitatus'であった。土地没収官(escheator)とノラム城代(constable)を兼任する独自のシェリフ職、独自のコロナー、独自の特権裁判所(liberty court)を有していた。ただしそれでも、タイン南のダラムとはかなりの土地保有・社会・行政のつながりが存在した。ノラムシャーの土地は司教だけでなく、Kepier hospitalやダラム修道院によっても所有されていた。ノラム城代とシェリフの大半は、ダラム州に利権をもっている司教の奉仕者(servant)であった。このように13世紀後半では、ノラムシャーに対する王権の介入はきわめてわずかで、ノラムシャーはダラム特権領の一部であるとみてよいだろう。しかしこの状況は1296年に勃発した英蘇戦争によって大きく変わることになる。

 国境地帯においてノラム城は戦略的に重要な拠点であったため、王は自身の奉仕者をその城代にしようと画策した。司教Richard Kellaweとエドワード2世の数年にわたる争いがいい例である。司教は王に対してノラム城を期限付きで貸しているが、その際の王の権限を制限するように要求している。司教Lewis Beaumontの時代には、王権によるノラム城支配がより強くなったが、城自体の支配は特権領全体の支配を意味しなかった。司教が「辺境の人びとの安全と、王、その民、その土地の防衛の重要性」を認める代わりに、王は「聖カスバート教会の主張」を認めることとなった。それでも14世紀前半は、特権領、特にノラム城に対する王権の支配力が著しく増した時代であった。
 
 特権領に対する王権の支配力は、王と特権領の土地保有者の奉仕関係が強まった結果としても大きくなった。戦争は、王への奉仕という出世の機会を多くの者に与えることとなった。そのような者として、William RidellやPeter Ordeらが挙げられる。またRobert Horncliff of Thorntonのように特権領外で出世の機会をつかむものもいた。

 このように、戦争14世紀の特権領の特権と自治は、直接的な王権の介入や領主権と寵遇(patronage)のつながり(特権領の住民が王に奉仕し、王に寵遇と援助を求める)によって脅かされた。しかし、以上のことは事実の半分を語っているにすぎない。戦争によって特権領に対する王の影響力が増大するとともに、ダラム司教の力と重要性もまた増大した。

 1310年までは、ノラムの城代とシェリフはノラムシャーと強いつながりがない司教のfamiliaresであった。しかし1310年以後は、ノラムシャーの出身者が城代とシェリフを務めるようになっていく。William Ridellは王の圧力によって城代兼シェリフに任命されたかもしれないが、彼はまた直接に司教から召し抱えられていた。戦争は特権領の住民と王権の結びつきを強めたと同時に、地域社会とダラム司教の結びつきを強めた。上述した王への奉仕と同じように、司教の寵遇も出世の機会を与えた。没収所領、城代職、シェリフ職などである。特にシェリフ職は土地没収官を兼ね、裁判員団のトップであり、14世紀後半には特権領における司教の荘執事(steward)であった。この例として、Grays of HeatonやSir Robert Mannersらがいる。彼らにとって司教は唯一の領主(lord)ではなかったが、13世紀にはみられなかった強いつながりが両者の間に結ばれたのは確かである。

 王権や司教とのつながりだけでなく、ノーサンバランドとのつながりも考慮すべきである。例えば、William Ridellはノーサンバランド州のシェリフを務め、スコットランドとの戦争における奉仕の中で、ノーサンバランドの大貴族と係わりを持つようになり、州騎士(knight of the shire)としても選出された。王や大貴族への奉仕を通じて、ノラムシャーの土地保有者はノーサンバランド州への帰属意識を増していった。

 特権領は地域社会にとって重要なものではなくなっていったということなのか?実際、住民が自身をノラムシャーの人間であると考えていたという分かりやすい証拠はほぼない。その理由として、一つには、ダラムの、聖カスバートと結びついた強い文化的アイデンティティを持っていなかったからということが挙げられる。Haliwerfolkはほぼつねに、聖カスバートの聖体が安置されているタイン川とティーズ川の間のダラムに結びついていた。「タイン-ティーズ間のダラム司教領」は特有の特権地域として確固としたアイデンティティを持っていたが、ノラムシャーにそれはなかった。それが最もわかるのが、ノラム城代であったThomas Gray IIのScalacronicaで、その作品中にノラムへの言及はない。また、嘆願(petitions)において、特権領はタイン-ティーズ間の特権領とともにしか現れてこないし、ノラムシャーにおける集団的行動の証拠も少ない。

 嘆願や集団的行動がないことは、ノラムシャーの人びとにとって不満の種がそもそもなかったためとも読み取れる。まず司教の直営地は限定されていたし、御料林(forest)はなかった。司教の後見権(wardship)も制限されていた。司教の寵遇も少数者に制限されていたわけではない。また代々の司教による王権からの特権の死守からも、地域共同体は利益を得ていた。王の税金からの免除はノラムシャーにも適用された。ノラムシャーはノーサンバランドのような無法状態にならなかった。特権領の住民たちは、司教の裁判所を使い続けた。

 特権領において王権は制限されていたし、唯一の公的機関ではなかった。特権領の正当性は単純に王権による権限の委任ではなかった。特権の保有者は自らのroyal rightsやroyal powerを「大昔から(from time out of mind)」から保持していると主張した。ダラムの場合は、これらの特権領と教会および聖カスバートの結びつきが、王権から独立した強力な正当性を保証する力であった。この正当性により、司教や地域共同体は、特権領の慣習を支持し、王権の侵略に対して、特権領を防衛した。
 14世紀において特権領の特権が維持されたことは、王権の黙認や慣例や伝統の尊重の結果だけではなく、王権とその奉仕者が司教の反対によって自らの要求を押しつけることができなかった結果でもあり、また、おそらくより重要なのは、地域社会が王権とは別の領主権(司教)と正統性(聖カスバート)に強く傾倒していたことの結果でもある。

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