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柳のまちのタイムトラベル#2〜りんご、杞柳、エノキタケ〜

中野市で手編みの靴下や手紡ぎ糸などを制作している吉家公代さん。次女の杏子さんのご紹介で、公代さんが子どもの頃に杞柳(コリヤナギとも呼ばれる。以下、柳)の皮むきをやっていたとお聞きし、お話を伺いました。

公代さんのご実家は、2013年頃まで中野市三ツ和(大熊地区)でエノキタケやアスパラガスの栽培を行っていましたが、その前は柳やりんごを栽培していたそうです。大熊地区は中野市南部に位置し、水害常襲地であった延徳たんぼの山沿いに位置します。延徳田んぼは昭和40年代(1965〜74年)まで、中野市の杞柳栽培の中心地でした。

「まっさらな生成。きれいだった」

ーー子どもの頃に皮むきをやっていたとお聞きして、インタビューのお声がけをさせていただきました。ご実家の酒井家では杞柳の栽培もされていたのですか。

吉家:子どもだったから、そんなには詳しく覚えていないんですが、栽培もやっていたと思います。畑の方で柳をやって、それを秋に採るのかな。1回刈ったものを田んぼに挿していたんです。それを春に抜きにいって皮をむいていたような気がします。水がない田んぼに、いっぱい挿してあって、それを皮をむく前に抜いていました。

庭で柳の皮むきをする酒井さん一家と叔母さま。右端が吉家さん

吉家:覚えがあるのは中学生ぐらいまでの頃です。昭和40年代(1964〜1973年)くらいなのではないかしら。私が高校の時は、もう柳はやっていなかった気がします。はっきり覚えているのは、家庭訪問があった頃に皮むきをしていたこと。4月か5月くらいかな。寒かった覚えはないので。

ーー小学校の頃は?

吉家:小学校の時もやっていたと思います。わりと小さい頃から、できるようになったら、やっていたような気がします。

ーーご家族以外の人も手伝いに来ていたのですか?

吉家:やっていたのはうちの家族と親戚の叔母さん。父の弟の奥さんが一緒にやっていました。皮むきを手伝うとお小遣いがもらえるの。柳は丈(長さ)に合わせて束ねてあって、1束でいくらと決まっているから、自分の柳と札(ふだ)を預かって、皮をむく。全部むき終わった時に札を出して、交換でお小遣いをもらうんです。1束5円か10円だったと思います(註1)。

ーー具体的にどんな道具を使っていたか教えてください。

吉家:ここに長い棒が張ってあって、そこに鉄の金具が留まっている。鉄のしっかりしたところに柳の上の方を1回かけて、先に枝の両側をむいて、ひっくり返して、むけたところを持ちながらギューってやるとむけるんです。引っ張ればきれいにむけました。

ーー子どもがやるにしては相当な長さがありますね。

吉家:長さはいろいろありました。大人が長いのをやっていて、子どもはちょっと短めのを。短いのは自分の身長ぐらい(150〜160cm)だったかな。

ーー難しくなかったですか?

吉家:力はいるけど難しくはなかったです。でも、疲れます。人の手だものね。でも、皮をむかないまま乾かすと、外側がポロポロ取れてきたような気がします。むくと本当にきれい。まっさらな生成で。

ーー子どもだったら1日1束?

吉家:いやいや。もっともっと。昔の子は学校から帰ってきたらお手伝いしていたのですよ(笑)。

ーー皮むき以外の作業でも、洗う作業だったり、他に手伝っていたことはありましたか?

吉家:家でやっていたのは皮むきだけでした。むいた後の柳を池で洗う作業があったのですが、それは父親がやっていました。

ーー柳を洗うための池みたいなものが集落にあったのでしょうか?

吉池:いえ、普通の、庭の池です。割と深い池があったので、そこで洗っていましたね。池で洗う作業をやるのは男の人だったと思います。結構重いんです。それから乾燥させたのをまとめて、どこかに持っていってたのだと思います。今でいう共選所みたいな、そういうところで集めていたのかもしれないですね。

「編むのが面白くてずっと眺めていた」

ーー編む方はやっていましたか?

吉家:うちではしていなかったですが、うちの近所に編んでいる家がありました。同じ大熊地区で、そこの家は1年中編む仕事をしていたと思います。私の叔母がそこに手伝いにいっていました。

私は小学生でしたが、その家に遊びにいって、編んでいるところを見ていました。編むのが面白くて。柳の椅子みたいなものを作っていたと思います。かご状のものとか、他にもいろいろやっていたのかもしれませんが、スツールみたいな、鼓型の椅子が印象に残っています。柳の椅子は板と違って弾力があるから、座り心地もやわらかい感じがしていいですよね。

ーー同級生の家や近隣の家でも柳に関わる仕事をやっている方が、たくさんいたのでしょうか?

吉家:あまり覚えていないんです。私の友だちでやっていたという家は、その頃はなかったと思います。やっていた人もいたのだろうけど、まだ子どもだったから、そんなに周りを気にしていなかったですね。田んぼの方に行くと、柳が挿してあったのをよく目にしていた気がするので、やっていた人はいたのだろうなと思います。春になると皮むきをやるのは当たり前、というふうには思っていました。

ーー家で柳のかごなどを使っていた記憶はありますか?

吉家:脱衣場に籠があったので、今考えると、あれ柳でしたよね、きっと。柳行李というのもありますよね。あれもありました。私は高校を出てから東京に行っていたのですが、そのときに親が、柳行李の中に荷物を入れて送ってくれたような気がします。周りで使っている人はあまりいなかったような気がするけど。もしかしたら、実家にまだあるかもしれないです。

この写真に写っているおばさんはまだいるんですよ。もう全部忘れちゃっているかもしれないけど、今度聞いてみます。このころ大人でやってた人というのがみんな、だんだんいなくなってしまっているから。

横になっている柳が皮付き。母屋に立てかけてある束が皮むき後の「白柳(しろ)」

ーーこの写真は誰が撮ってくれたのですか?

吉家:弟が撮りました。長野市に住んでいた叔母が買ってくれたカメラで。買ってもらえたのがうれしくて、いっぱい撮っていたのだと思います。

どのくらいの程度のカメラかは知らないけど、値段も知らないで、ねだって買ってもらって。あとで親に怒られていました(笑)。

柳からエノキタケへ

ーー酒井さんの家では柳をメインに栽培されていたのでしょうか?

吉家:普通の畑をやったり、りんごをやりながら柳もやっていました(註2)。春、りんごの作業が始まらない頃に柳をやっていたのかな。うちは、りんごもやって、モモもやっている時にきのこを始めて。エノキタケを栽培していました。昔の家だから大きい物置があって、そういういところを使って家族でやっていました。中学、高校の頃にはきのこも始めていたような気がします(註3)。

大熊区公民館周辺

吉家:でも、果樹もきのこも柳もやったのは、ほんの少しの間だけかもしれません。きのこを始めた頃は、もう柳はメインではやっていなかったと思いますし、そのうちだんだんきのこがメインになって。

そんな感じでみんなどんどん変わっていってしまって、柳の写真の時はまだありませんが、後々、庭はきのこの小屋になりました。周りにも柳を続ける人はいなかったですね。長くやっていた人も一気に辞めちゃったのではないでしょうか。

ーー同級生の家も農家さんが多かったですか?

吉家:そうですね、大体農家かなと思います。大熊地区はあまりりんごが合わなかったのか、私が小さい頃はあちこちの畑がりんごだったけど、結局みんな辞めちゃって、きのこに変わっちゃいました。畑はアスパラガスをやっていて、アスパラガスときのこが多い印象でした。

ーーご実家のエノキタケはいつぐらいまで?

吉家:うちの父親が亡くなるちょっと前くらいまでやっていたから10年くらい前(2012、3年ぐらい)まではやっていました。JAに出していて。私もよく手伝いにいっていました。きのこだと土地は関係ない、場所さえあればできる。だからきのこになったのかなと思います。最初のうちは、きのこも冬だけだったから。

春から秋にかけては畑をやって、冬の間だけきのこをやるというような。冬は農作業が何もできないから、きのこが始まったのかもしれないですね。そのうち、きのこが1年中になりました。

ーーエノキタケをやっていた方も近所にたくさんいましたか?

吉家:あちこちでやっていましたね。始めた頃は家族単位でやっている方がたくさんいましたが、そのうち規模を大きくしないとやりづらくなってしまって、家族でやっている人はだんだんと辞めていってしまいました。きのこは生き物じゃないですか。毎日だから大変そうでした。

きのことアスパラガスは、一緒にやっていました。アスパラガスはそんなに手がかからなくて、春だけ。アスパラガスも毎日のことで大変そうでしたけど、収穫だけしたら家で荷造りができるのがいいですよね。(註4)

西に開いた坂道の集落

ーー今、ご実家に住んでいる方は?

吉家:もう誰もいないので空き家になっています。建物は母屋と土蔵だけ残っていて。きのこの建物は劣化が酷くなって危ないというので、一昨年(2021年)全部壊しました。そのうち母屋や土蔵もちゃんと片付けないといけないんだけど。

かつては庭が柳でいっぱいだった酒井さん宅。柳から手をひいてからは、手前の空き地部分にきのこ小屋が立った。現在はコンクリートの土台のみが残る

ーー昔使っていた道具などは残っていますか。

吉家:土蔵にそのままあると思うのですが、誰も開けていないからわからないんです。土蔵の一部分はきのこ用にも使っていたので、柳関連のものは捨てちゃっている可能性もあります。

ーー延徳小学校の少し上にあるcafeTecoさんのあたりはよく行きますが、坂を上ると北信五岳がきれいに見えて、眺めがよい地域だなと思います。

吉家:cafeTecoさんのあたりは北大熊、延徳小学校を挟んでその南側の坂あたりが大熊なんです。実家のまわりもどんどん人がいなくなっていて、いても年配の方が1人でいるとか、そういう家だけになっています。どうしても坂が不便だから、若い世代は下へ降りて家をつくって、おじいちゃんおばあちゃんだけが残っていて。cafeTecoさんみたいに移住者の方が入ればよいけど、全然そんなふうにはならないから。そのうち空き家がいっぱいになりますよ、きっと。

ーー暮らすとなると、やっぱり違うのですね。

吉家:違いますよ。どうしてもね、冬は…。半端ではない坂だから。中野市の北部に比べると雪は少ないですけど、大変だったような気がします。私の子どもの頃は上のお宮(大熊神社)の方でスキー教室をやって、そこからの道を、ずっとそのままスキーで家に帰ったり(笑)。

ーー道路でスキー! 今では考えられないけど、楽しそうですね。もし、土蔵を整理する機会がありましたら、杞柳に関する資料が見つけるかもしれないので、お声がけいただけたらうれしいです。本日は貴重なお話をありがとうございました。

新しい事業を生み出す地域性

吉家公代さん。手紡ぎの毛糸を自然素材で染めて編み物をすることも

現在は靴下やストールを編む作家さんでもある吉家さん。子どもの頃に見た柳を編む光景が、ものづくりの原点になっているのかもしれないな。いつか柳を編んでくださる日が来たらいいな、と無責任に思ったりもしてしまいました。

大熊神社から集落を望む

吉家さんのお話を聞いて、「スキーの練習をした坂道」が気になり、大熊地区に行ってみました。延徳小学校のあたりから、ずっと坂道。途中、「はぁはぁ」と肩で息をしながら走っていく小学生に出逢いました。

集落の一番上には大熊神社と大円寺が、道路を挟んで向かい合うように立っていて、雪化粧した斑尾山や妙高山が美しく見えました。

大円寺のあたりから延徳田んぼと北信五岳を望む

大円寺の上には、車が通れるか通れないかぐらいの細い道が続いていました。雪の日だったので、その先には進みませんでしたが、帰宅後に調べてみました。その先の道を進むと、地元の人に親しまれてきた「大熊の名水」と呼ばれる湧水や、昭和初期まで使われていた峠道(高山村と中野市・山ノ内町をつなぐ)があるとのこと。暖かくなったらお花見がてら、大熊地区にまた出掛けてみたいと思います。大円寺にあった立派な桜の木も気になります。

曹洞宗の寺院大円寺

10代の頃の吉家さんの思い出をとおして、第二次世界大戦後の中野市における農業の変遷を肌で感じることができました。文献などと照らし合わせて驚いたのは、りんごも、柳も、エノキタケも、延徳地区が何らかのきっかけになって中野市に広がっているということ。こちらの地区には、新しいことに、ひたむきにチャレンジできる人たちが多かったんだ、という印象を持ちました。

延徳地区の方は、なぜこれほどに新しい分野に挑戦し続けてきたのでしょうか。

次回は、郷土の歴史家であり教育者でもある新保地区の方のお話をとおして、新たな挑戦をし続けてきた背景をご紹介できればと思います。

吉家さんが紡いだ毛糸と柳の写真

(註1)柳の皮むきのお駄賃を小学校の修学旅行の費用として積み立てていた子どももいた。(参考:中野市立延徳小学校『延徳学校と地域の沿革』1988年、P560)

(註2)中野市のりんご栽培の歴史は、1904(明治37)年に延徳地区で始まった。第二次世界大戦後にりんご栽培が広く普及し、1960年代前半は栽培面積(1,442ha)、収穫量(40,000t弱)が最も多かった。それ以降、病気の発生や価格低下などによって収穫量が減少するも、1970年代後半には品種更新などが行われ、再び増加傾向となった。1990年以降、栽培面積は減少しているが、中野市は県下4番目の収穫量となっている。(参考:内山幸久「長野県中野市における主要商品作物生産と農協の役割」『新地理』第37巻 第2号、日本地理教育学会 、1989年)

(註3)中野市ではエノキタケの瓶栽培が1955年頃に始まり、1964年には中野市農協えのき茸部会が発足した。現在はきのこ生産量日本一を誇る。(参考:広報なかの No.164「特集 ナカノノキノコの進化論」2018年11月ほか)

(註4)中野式半促成栽培という生産方法が考案されたことでアスパラガスの早期出荷が可能となり、1970〜80年代にかけて収穫量が爆上がりした(栽培面積26ha→720ha、収穫量125t→3,190t)。その他、アスパラガス生産が中野市で盛んになった理由として、リンゴ市場価格の低迷とふらん病の発生、アスパラガスの需要拡大と収益性の良さ、エノキタケなどとの複合経営が可能だったことなどが考えられる。(参考:内山幸久「長野県中野市における主要商品作物生産と農協の役割」『新地理』第37巻 第2号、日本地理教育学会 、1989年)

参考文献:
中野市誌編纂委員会編『中野市誌歴史編(後編)』、中野市、 1981年

文:水橋絵美
写真:吉家杏子(手紡ぎ糸)、水橋絵美

※本事業は中野市中野のチカラ応援事業補助金を活用しています。

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