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柳をめぐるタイムトラベルー長野県中野市、杞柳産業のその後ー

序 中野市の杞柳産業とは

江戸期から20世紀半ばまで、日本人の暮らしに寄り添い、広く使われていた日用品があった。土から育てた柳を加工し、素朴な道具と人の手で編み上げたかごである(1)。

私が暮らす長野県中野市には、40年ほど前まで杞柳(以下柳)を栽培・加工する人や、柳を用いて行李やかごなどを制作する人がいた。柳の栽培は明治期に導入され、信濃川に隣接する延徳地区の水害地対策として、加工は農家の冬仕事として普及し、一産業として地域経済を潤わせた。しかし、昭和40年代(1965〜74年)以降、農閑期の副業として他の農産物が振興していったこと、そして、東南アジアからの輸入品とプラスチックの代替品が増えたことなどから、柳の生産業や加工業は廃れてしまった(2)。

柳行李(右)と柳や竹でできた椅子。40年以上前に制作されたもの(徳竹孝之さん所蔵)

2016年、私は中野市の柳に関わりがある方3人に偶然お会いする機会を得た(3)。それがきっかけとなり「中野市の杞柳産業に関わっていた方にまだ話を聞けるのでは」と人伝に情報を集めていたところ(4)、2021年、ついに杞柳産業にゆかりのある方にお会いする機会を得た。

第1章 杞柳産業ゆかりの人を訪ねて

「戦後から1990年代の思い出」旧肥田商店 肥田まさ江さん

中野市経済部商工観光課(当時)パンフレット「中野市の特産 杞柳製品」

肥田まさ江さんを訪ねたのは2021年4月、桜冷えの日だった。肥田さん宅での取材はこたつのある居間で始まった。

「延徳田んぼは柳でいっぱいで……。というのは、(延徳地区)新保が柳の生産地だったんですよ。村に入るとふわっと柳の匂いがするんです。そのくらいどこのうちも(柳を)作っていたからね」

中野市では明治末期に柳の栽培が始まり、大正時代半ばには軍需産業の一環として多くの柳行李を製造・出荷した。弾力のある柳で頑丈な行李を編むのは、もっぱら男性の仕事だった。

肥田さんは1929年、中野市東山で生まれた。かご編みには1946年、17歳頃から携わっていた。かご編みを習ったのは森本家。第二次世界大戦時に東京から疎開し、杞柳の製造・卸業をやっていた家だ。

「終戦直後はこの仕事しかなくて、近所でやっていた人に『どうだい?』なんて言われてやり始めたんですよ。女だってやらされたから。遊んでいてもしょうがないからっていうわけで、やり始めたんですよ」

柳行李は徐々に生活の中で使われる機会を失い、昭和40年代には柳から手を引く生産者・事業者も増えていった。東南アジアから輸入した素材や国内の他の産地の柳を使い、さまざまな日用品を編む機会が増えていったのも、その頃だ。肥田さんは、ひとつ年上のご主人に見染められ、中野市中央の肥田商店へ嫁いだ。当時は屑かごや洗濯かごなどを多く製造していたと言う。

「初めはよかったんですけど、そのうち輸入ものが入ってきたんですよ。輸入ものは安いし、だんだん品物がよくなってきてね。これじゃもう勝てないから辞めた方がいいっていうわけで。一番最後ぐらいまでやっていたけどね。その時分やっていた人は、もうみんな旅立っちゃっていないんですよ」

肥田商店のあった中野市中央の西町通り。かつてはこの200メートルほどの通りに4軒の加工業者があった。近隣の家々の蔵は、かごを保管する倉庫として貸し出されたという

肥田商店を閉めたのは1990年代の初め。その後も肥田さんは、隣町の山ノ内町へ修学旅行に来る学生たちに、かご編み体験の指導を続けた。

「修学旅行の受け入れは10年やったかな。辞めてからもそういうのだけは受けてね。だめだって言うんだけど、『ぜひお願いするわ』って言われると、材料もあるから、じゃあやるかって。そういうことをやってみるとね、作るということに対しては、人間て本当に素直になるんだなと思いましたね。やんちゃな子もいたり、相当人間の勉強になったよね」

肥田まさ江さんが作っていた洗濯かごや買い物かごなども掲載されている(パンフレット「中野市の特産 杞柳製品」)

数年前までは野菜作りや陶芸が趣味だった肥田さん。今はパッチワークをやっているとバッグを見せてくれた。そのどれもがカラフルで繊細な模様だ。肥田さんが腕利きの作り手であることはもちろん、喜びを感じながら丁寧に作っていることが、それらの器やバッグから伝わってきた。

「(森本家では)『男だったらな、東京連れてって、もっと仕込んでやるんだけどな。もったいないな』って言われてね(笑)」

都会の取引先(5)に、女だから、田舎者だからと見下されていると感じたこともあったと話してくれた。抜きん出た技術がありながら、女性であり下請けであるという立場から、複雑な思いを抱えながら杞柳産業の末期を生き抜いたのだと想像できた。

「もうじき30年になるね、(肥田商店を)辞めて。『未練あるでしょ』って人は言うんですよね。『全然ないです。もうたくさんです』っていうわけで、辞めることに対しては全然未練なかったね」

今でも作ることを楽しみ続けている肥田さん。自分の手で作ったかごや器などの日用品に囲まれた暮らしは、彩りと温かさに満ちていた。

第2章 現代のかご作家を訪ねて

「かご編みから柳栽培へ」かご作家・有泉真治さん・紗矢佳さん 

有泉真治さん・紗矢佳さんと愛息の「たけちゃん」

冒頭で書いた杞柳産業に関わりのあった方のうちのふたりが、山梨県甲斐市のかご作家・有泉真治さん・紗矢佳さん夫妻だ(6)。有泉夫妻とはSNSで知り合い、ふたりが中野市に来るタイミングで初めてお会いしたのは2016年。紗矢佳さんは「中野市で柳を栽培している方に会いにきた。自分たちでも柳を栽培してかごを作りたい」という話をしてくれた。私は「幻の杞柳産業」が急に今の自分とつながったことに驚き、有泉夫妻から手作りの日用品やかご作りについて話を聞くうちに「柳の歴史を地元でつないでいきたい」という思いを抱いていった。

肥田さんから聞いた杞柳産業や手仕事の話を今に結びつけ、その上で自分自身ができることは何かを確かめるため、2022年12月、有泉夫妻が暮らす甲斐市を訪れた。

有泉夫妻は2010年にラトビアで出会った柳のかごに魅了され、そのかごを修理することをきっかけに柳のかごを編む技を身につけた。活動を始めてすぐ、「素材こそが大切」という考えにいたったふたり。身近なところで柳を育て、その柳でかごを編みたいという思いから柳栽培について調べるなかで、2016年にようやく中野市新野の生産者Nさんに出会うことができた(7)。

有泉夫妻がNさんから譲り受けた柳のかご(一部に籐が使われている)

「Nさんにお会いできなかったら、ここまでできなかった。私たちの最初の希望という感じでした」(紗矢佳さん)

その後、真治さんはラトビアでのかご編みの修行などを経て、2022年からは柳栽培とかご作りに専念している(8)。真治さんの柳のかごは、大地で柳を育てるところから始まり、加工に数ヶ月を要し、手間暇かけて編み上げられる。「農業からかご作りをするのは大変ですね」という私に、真治さんは言った。「こうやって一から柳に関わっていくと、柳を育てることは毎年毎年同じじゃないということがわかる。柳のことをもっと知って(お客様に)全部伝えられるようにして、(柳のかごの)付加価値を高めていく必要が、僕らにはあるんだと思っています」と。

真治さんにとって柳の栽培は、かご編みを生業として生きていくために必要不可欠なことであり、また、ひとつのかごが生まれる工程をすべて知ることで初めて伝えられる価値を、時間をかけて生み出すことなのだろう。

有泉夫妻の自宅兼工房前にあるコリヤナギの畑

後記 柳をめぐる物語を編む

昨今はSNSなどを用いて、ひとりの作家の取り組みを多くの人と手軽に共有することが可能となった。また、オンラインで作品を手に入れることも容易になった。一方で、素材そのものを扱って自分の手で何かを生み出し、暮らしの中で生かすという実体験は少なくなってしまっている。しかし、ものの背景にある物語を知るという文化的な営みは、私たち一人ひとりの暮らしにとってかけがえのないことであり、今後、ますますそういった体験が貴重なものになるのではないだろうかということを、肥田さんや有泉夫妻の取材で改めて感じた(9)。

筆者が中野市中央で採取した街路樹のシダレヤナギ

2021年の師走、私は有泉夫妻に倣って中野市にある街路樹のシダレヤナギを採取していた。今回(2022年12月)、真治さんに枝を見てもらい、この枝を使ったかごのワークショップができそうだと返事をもらえた。今後、柳をめぐってやってみたいことは3つある。1つ目は有泉夫妻を招いて中野市の柳でかご編みのワークショップを行うこと。2つ目は杞柳産業ゆかりの方に引き続き話を聞いて記録すること。3つ目は中野市立博物館所蔵の杞柳細工の資料に光を当てる企画展を考えることである。

私にとって柳は、過去と未来を結ぶ不思議な魅力を持つ存在だ。何千年もの間、人々の暮らしとともにあった柳は、この先どんなタイムトラベルに誘ってくれるだろうか。

「一つひとつ手で編み仕上げるかごには、それぞれに異なる美しさがあります。
かたちも大きさも様々で用途は多彩。
工夫とアイデアしだいで信頼できる日用品となれるでしょう」

Basket Moon編『Basket Moon』Basket Moon、2022年、P1


■本文註
(1)豊岡杞柳細工(国の伝統的工芸品)が有名な兵庫県豊岡市の豊岡鞄協会Webサイトによると、「但馬国産柳箱」という作品が東大寺の正倉院に保管されていることから、9世紀頃には杞柳細工が確立されていたと考えることができる。江戸時代には豊岡藩の奨励によって「豊岡の柳行李」が日本各地へ伝播し、旅行道具入れとして大名から町民にまで用いられるようになった。杞柳はコリヤナギとも呼ばれる。
https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/toyookakiryuzaiku/(2023年1月28日閲覧)

(2)中野市で収穫された杞柳は、初期は兵庫県豊岡市に原料として出荷するにとどまっていたが、大正3(1914)年には豊岡市から杞柳細工の講師を招いて講習会を行い、加工も行われるようになった。昭和10(1935)年頃には、行李を専門に製作する加工業者や問屋も現れ、第二次世界大戦の軍事品としての需要もあったことから、中野市の他の地域にも栽培や加工が広がった。昭和40(1965)年頃にはアジアから籐を輸入して加工した籐製の日用品が増えていった。中野市で編まれた籐のごみ箱や衣類かごは、1977年生まれの筆者にとっては、子どもの頃から生活空間に馴染んでいた身近な存在だった。

(3)最初に出会ったのは山梨県甲斐市のかご作家・有泉真治さん・紗矢佳さん夫妻。3人目は中野市在住の徳竹孝之さんといい、ご両親(故人)が杞柳細工に携わっていた。徳竹さんに話を聞くと、ご両親が使っていた道具は中野市歴史民俗資料館(現中野市立博物館)に寄贈したとのことだった。中野市立博物館の学芸員・細野夏未さんによると、中野市立博物館では、1980年代以降に何人かの方から寄贈された杞柳細工の道具や製品、約35点を所蔵しているとのことだった。

(4)「高齢のために話を聞くのは難しい」「すでに亡くなっている」と言われることが何度もあった。

(5)最盛期は製品を輸出したり、首都圏のデパートで販売していたため、東京や大阪から来る取引先の人が肥田商店に出入りしていた。

(6)真治さんはBasket Moonという屋号で活動しており、紗矢佳さんは、かごをはじめとした手仕事の品を扱う店「tapiiri」を運営し、紐織り(バンドウィービング)などのワークショップを行っている。

(7)花卉生産者のNさんは木炭用の柳を育てていたほか、どの種類の柳が育てやすいかをひとりで研究していた。2019年頃には柳栽培から手をひいた。Nさんとは現在コンタクトが取れず、お話をお聞きできないことが残念である。

(8)真治さんがかご編みに使う柳は、Nさんの知り合いでもある石川県の花木生産者が育てたもの(花材として育てている柳の規格外のものを有泉さんは採取して使っている)、山梨県昭和町で共同栽培しているもの、山梨県内の街路樹のシダレヤナギなどで、3分の2を制作、残りをワークショップの材料としている(状況に応じてはラトビアから柳を仕入れることもある)。クラフトフェアへの出展やギャラリーでの個展といったBasket Moonの活動範囲は首都圏や中部地方と幅広い。兵庫県豊岡市の伝統工芸士やその修行を行っているかご職人を除くと、日本で柳のかごを作っている作家は有泉さんだけだと思われる。

(9)筆者は、地域における芸術文化活動の運営や支援に日常的に関わっている。それらの活動をとおして、作家たちの才能・技芸と地域資源を活かしたワークショップや作品制作から、他者との共同作業による思いやりや、それぞれの言葉を共有することで生まれる自他を認める気持ちなどのソーシャルキャピタル(社会関係資本)の力が生まれる可能性を感じている。ソーシャルキャピタルは、人々の間の協調的な行動を促す「信頼」「互酬性の規範」「ネットワーク(絆)」のこと(参考:稲葉陽二著『ソーシャルキャピタル入門 孤立から絆へ』中央公論新社、2011年)。

■参考文献

「柳栽培 柳製品の盛衰」北信ローカル、2017年4月14日、P3

中野市誌編纂委員会編『中野市史 歴史編(後編)』中野市、1981年、P389、P413、P785、P802

中野市立延徳小学校編『延徳学校と地域の沿革』ほおずき書籍、1988年、P550

武田富夫著『中野地方の戦後農業の歩み』ほおずき書籍、2008年、P78

中野市経済部商工観光課(当時)パンフレット「中野市の特産 杞柳製品」

「日本の屋根 昭和42年11月号 92 」所収「中野の杞柳細工」信越放送、1967年、P16

細井雄次郎著「地域探訪『千曲川』その8〜延徳の杞柳産業〜」長野市立博物館「博物館だより 第47号」、1999年、https://www.city.nagano.nagano.jp/museum/pdf/dayori/47.pdf(2023年1月28日閲覧)

Basket Moon編『Basket Moon』Basket Moon、2022年

アリソン・サイム著、駒木令訳『柳の文化誌』原書房、2021年

久野恵一監修、萩原健太郎著『民藝の教科書④ かごとざる』グラフィック社、2013年

佐々木麗子著『1本のヤナギから―ヤナギで編むバスケットワーク』文化出版局、2000年

柳宗悦著『手仕事の日本(岩波文庫)』岩波書店、1985年

写真・文:水橋絵美

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