島日和<ひょうたん島後記>

         10-2023   池田良


「君って、呼吸がかなり浅いですよねえ」
そう言ってキツネは、斜めに僕を見て薄ら笑い。

十三夜のお月見の宴に、僕は招待されて、キツネの家へと出かけて行った。
手土産は、酔えないクラフトビール。

巣穴の入り口のような野趣のある可愛らしい玄関から、くねくねと長く続く外廊下には、おもむきのある屋根があって、両側には朱塗りの低い欄干も付いている。
「以前に伺った時は、妹さんのお嫁入りの時だったかしら。もう何年も昔」
僕がそう言うと、キツネはクククと笑って、手に持っていた蝋燭の燭台も小さく揺れた。

お月見の宴の夜、キツネは黒い着物を着て、家中の明かりをすべて蝋燭の明かりにしていた。
その不安定にゆらゆらと揺れる儚い光は、古い家具や置物の艶やかな表面に鈍く反射し、物体の持つなまめかしさを妖しく醸しだす。
キツネの家は島の中でもかなり古い家で、黒光りのする太い柱や梁が、薄暗い明りの下で重厚な存在感を放っている。

廊下の奥の広間は思っていたよりもこじんまりとしていたが、その突き当りの全面が大きく開かれたガラス戸の先は広い月見台になっていて、ほの明るい庭の向こうに、美しい月がくっきりと見えている。
・・前に来た時には、もっとずっと広い大広間だった気がするけれど・・
月見台には、大きな花壺の中にススキや秋草が美しく飾られていて、黒く光る食台の上には、月見団子やお菓子や果物などが供えられている。
広間には四組の食膳がゆったりと置かれていて、四つの背の高い燭台の上に赤い蝋燭がゆれている。
心が澄み渡るような、きれいなお月見のしつらえだ。

その席に着くと、僕とキツネは黙って、しばらく月を見ていた。

やがて、宴の料理が運ばれてくると、すぐにキツネの妹が入ってきて席に着いた。
「ずいぶん久しぶり。その後はいかがですか。今はどこに住んでいるの?」
僕がそう言うと、彼女はクククときつね笑い。
「今はここに戻って来ています。別れてしまったんですよ。疫病が流行り始めた頃に」
そして彼女は、艶っぽい切れ長の目で僕をチロリと見る。
「我儘者同士って、難しいわね。私は寛容じゃないから、寛容な人じゃないとだめみたい。まして無神経な人は」
ひとり言のようにそう言いながら、彼女はやわらかく微笑んでいる。
「でも楽しかったわ。あの人、森の中で古いダンスを踊って見せてくれたりして」
そして僕たちは、月を見ながらゆっくりと食事を始めた。
僕のとなりのお膳にはまだ誰も現れない。

「こちらのお席の方を、待たなくていいのかしら」
僕がそうたずねると、キツネはすました顔で首を90度傾けた。
「そのお席は、気配のためのものですよ。誰かの気配を待つ心が、あなたの心の奥の奥にも、いつも揺れているでしょう?」
僕の心の奥の奥が、キツネには見えるのだろうか。
僕には、はっきり見えないのに。

僕はこの頃、僕が一番会いたい人の夢をよく見る。でも夢の中では、僕もその人もとてもそっけなくて、ただ、日常の日々の暮らしの凡庸に埋もれているだけだ。
もし、本当に会えたら、あまりのその歓喜に息が出来なくなって、死んでしまうかもしれないとさえ、思っているのに。
月が、空の中でゆったりと体をふるわせている。

料理はどれも、いい匂いのする優しい静かなきつね御飯。
丁寧な魚介のだしがしっかりからみ付いて、とてもおいしい。
食べるのが遅い僕には、その美味しさは、時間をかけてゆっくり食べるほどに深みを増してくる。

薄い雲が、微かな風に乗って流れてきて、月にほのかな陰影ができると、蝋燭の光が少し強くなって、部屋の奥の屏風に描かれた金の雲がゆらゆらとただようように揺れる。
金をふんだんに使った古い屏風や衝立の絵は、ほの明るい蝋燭の光で見るとその夢幻がわき上がる様に描かれているのだろう。

食事が終わった後、キツネが月見台で「釣り狐」の舞を踊った。黒い着物の袖口から出ているキツネの手の切なさがとてもいとしくて、僕は涙が止まらなかった。
そこには、まるで乗り移ったかのように、僕がいつも待っている誰かの気配が色濃く出ていた。

やがて、月が大きく傾いて、海の上にぽちゃりと着水すると、月光の水輪がきらきらと広がり、あたり一面がうっすらと青く輝きだした。
空の大気も、月見台や広間の空気も、青ざめたような灰青色に発光し、ゆっくり海岸に近づいてくる月はどんどん大きさを増し、青白く輝きながらクレーターもはっきりと見えている。

月見台の上に立ちつくして、巨大な月を見ている僕たちは、まなざしも呼吸も青く染まって、細胞の奥の奥のミトコンドリアにまで、青が染み渡る。

音のない青の世界の、大音量の静寂