島日和<ひょうたん島後記>

       4-2023   池田良

電子レンジが壊れてしまってから、もう何か月。
掃除機もあまりの吸い込みの悪さに使っていない。ケイタイも、「そんなに電話に出ないなら必要ないでしょ」と、ネコに契約を解除されてからそのままだし・・・。
それでも僕は困らないのだ。持っているのが当然のようなものたちが僕にはなくても。僕は楽しく暮らせている。
蒸し器からはいい匂いの湯気がしゅわしゅわと上がって台所をやさしく包み込み、かわいい刺繍の箒は音もなく部屋を清める。ケイタイがなくて待ち合わせに迷うのも、それは運。それほど苦にはならない。

「世界中の全員があなただったら、人類は今頃石器時代のままだね」
昔、そう言われたことがある。そう。世界中こんな人ばかりだったら、・・・どんな景色の世界になるのだろう。
そしてひとり、ふふふと笑って、僕は夢見鳥。

今日は風がとても強くて、花吹雪が島じゅうを狂喜乱舞。
遠い昔に、あのコが空色に塗ってくれた小さな自転車に乗って、僕は桜のトンネルの下を走り回る。降りそそぐ花吹雪のうれしさに息もたえだえになりながら。
花吹雪や紙吹雪、ニュートリノやナノ原子、空間を突き抜け舞い上がり、美しく浮遊しているものが大好きで、昔、ケイタイが繋がっていた頃には、「おめでとう」とメールすると、画面に紙吹雪が舞うのがうれしくて、意味もなく「おめでとう」を送ったりもらったりして、遊んでいた。

花の盛りの花祭り。
レンゲの花を丸く編んで作った花飾りを持って、空色の自転車に乗り、花吹雪の桜トンネルの下を通って、僕は灌仏会に出かけて行く。
山の中の小さなお寺の庭には、かわいらしい花御堂が美しく飾られ、遠い昔に会ったことのある人々も少し集まっていて、誕生仏に五種の香水の甘茶を注いだり、小さなグラスに入れて飲んだりしている。皆、思い出にほてった様な、美しい顔だ。
僕は、庭中に響き渡る五人僧の声明に脳髄が共鳴して、うっとりと夢心地。ごくりと飲み干した香水の甘茶も体中に沁み渡って、すべての臓器からやさしい匂いが立ち上ってくる。

そんないい気持ちのまま、甘く匂うレンゲの花飾りを供えて、横目でちらりと誕生仏を見ると、小さな彼と目が合って、半眼微笑のまなじりからぐさりと冷たい無関心の眼差し。
気を取り直して、僕は一人境内のお庭をひとめぐり。
そんなに広くはない小さな庭なのに、なぜかいつも、つまずいたり迷ったり。
そして、大きなビンにいっぱい甘茶を注いでもらって、それを背中に背負い、重い重いと言いながら自転車のペダルを踏んで家へ帰る。

背中のビンの中でぴちゃぴちゃ音を立てている甘茶から、五種の香水の幽玄な香りが仄かに染み出て、春のおぼろな空気にとろけて僕を包み込む。
―それにしても重いなあー
草原の、草の海の真ん中で、自転車を止めてふと後ろを見ると、荷台の上に後ろを向いて、ネコがちょこんと乗っていた。
「いつのまに?」
僕が思わずつぶやくと、ネコは後ろを向いたままでひとり言のように言った。
「甘茶の匂いがする。花祭りに行ったのかしら。いいなあ」
誘わなかったことを怒っているのかな。僕はそう思いながらも自転車をこぎ出して、まっすぐネコの家へと向かった。
僕は、ひとりで出かけたいことがよくあるのだ。特に花吹雪の季節には。

家に着くといつも通り、ネコはけろっとして何事もなかったようにはしゃいでいる。
ネコには、恨みも記憶も、後悔も反省も、ないのだ。
「なんでもソーダ水にする魔法の道具を買ったのですよ」
奥のキッチンから銀色に光る小さな容器を、ネコは大事そうに運んできた。
なんでもソーダ水。それは素敵。
僕の周りの空気が急に、極彩色の粒子になってキラキラとはじける。
「甘茶をソーダにしましょうよ」
そう言ってネコは、テーブルに置いた大きなビンから銀色の容器の中へ甘茶を注ぎ、パチンとスイッチを入れた。
プチプチプチプチと音がして、ゴトンとスイッチが切れると、透明なガラスコップの中に琥珀色の液体が注ぎ入れられ、部屋中が美しい香りに満たされる。
「ああいい気分。素敵な匂い」
ネコはうっとりと笑っている。

その液体を一口飲むと、体中の細胞がちくちく震えて、僕は、花御堂の中に天と地を指さして一人立っていた、小さなあの子の、半眼微笑の眼差しを思い出した。

天上天下唯我独尊
無限の宇宙の中の、無限の孤独