島日和<ひょうたん島後記>

              11-2020

遠くに見えている海の上を、鳥が、水平にゆっくり飛びながら、空間をスウーッと、まるで鋭い刃物のように切り裂いていく。

ぱっくり開いてしまった空間のその中に、ぎっしり見えているものは、たぶん、虹やら雲やら雪やらの気象用品。そして島に住んでいたはずなのに、今は消えてしまった人々の足跡。それからかすかに、僕の過去と未来。

僕はびっくりして、慌てて家を飛び出し、その切れ目からこぼれ落ちそうなものたちを、なるべく見ないようにしながら押し込んで、その裂け目をジッパーを閉じるように閉めていく。

「ふふふ。危うくこの世界の仕掛けが見えてしまうところでしたね」
そんな声がして、振り向くと、見たことのないウサギが、なぜか懐かしそうな目をして僕を見ている。

「ずいぶんお久しぶりだけど、ずっと会っていたような、ずっと会っていないような」
そう言って、ウサギはゆっくり近づいてくる。
僕はドキドキしながら思い出をかき集めてみたけれど、このウサギが誰なのか、まるで思い出せない。
ウサギは、そんな僕を見透かすように一人でしゃべり続ける。
「ウサギ漢方堂は、あれからすぐ引っ越しをしましてね、隣町で開業していたんですよ。ですからあなたとは一度しかお会いしていないけれど、私はあなたを見てすぐ分かりましたよ。あなたのことはよく憶えていたから。お店に来た時の、素足にサンダルを履いたあなたの足の指が美しくて、天使のようだったから」

ウサギ漢方堂。僕が昔住んでいた町に、ある日開店した小さな漢方薬局。
通りすがりに店の中を何度か覗き込んで、僕は一度だけ中に入ったことがあった。興味本位で。
「ああ。ウサギ漢方堂」
その名前だけで懐かしい。
でも今はもう、その町の思い出は、楽しいような、悲しいような。
今はもう。その町で共に暮らした人々は、こっそりと何処かへ消えていってしまったから。
僕に残されたものは、小さな迷子札と、フリーズドライの笑顔。

「いかがですか、この頃。体調は。元気にされてます?」
ウサギはそう言って、白いレースのように静かな波に足を濡らしながら、僕を見ている。
「僕は元気ですよ。たぶん、元気です。健康診断もしていないし、熱も測っていないけど」
「ふふふ。それもいいですね。健康なんて気にしないのも健康法。でもね、好きな時に食べて、好きな時に寝て、では絶対にだめです。太陽や月の満ち欠けのリズムに合わせて、きっちりと暮らすのが一番です」
そう言ってウサギは、ニイッと笑った。
笑いウサギ!
あの時あの漢方堂で会った、教鞭を持った笑いウサギ。
「ところで、あの時あなたに差し上げたあの錠剤は、ちゃんと飲みましたか?」
ああ、あの青い錠剤。
青空よりももっと美しい、ツヤツヤの青の錠剤。もうすっかり忘れていた。
「いえ、僕はとても怖がりだから。まだ飲んでいないんですよ。でも小さな缶の中に入れて、大切に取ってあります。いつか飲んでみようと思って」
「ふふふ。大丈夫ですよ。そんなに強い薬じゃありませんから。ではこれをあげましょう」
そう言ってウサギは、胸のポケットにぐっと深く手を突っ込んで、まるで体の中を探るようにもぞもぞとし、錠剤を一つ取り出した。
「ほら、ちょっと試しにこれを飲んでみたらいかがですか?」
その錠剤にはやはり、ぬいぐるみの人形の中に詰め込まれているパンヤのようなものが少しこびり付いている。
「これは、海水や月光水でも飲める薬です」
ウサギは持っていたカバンの中をがさがさと探して、小さなグラスを取り出し、海水を汲んで僕に差し出した。
グラスの底には、砂のように小さな貝殻が一つ、沈んでいる。

もう、そろそろ、この青い錠剤を飲んでもいい頃かもしれない。
僕は、ふとそう思って、それを塩からい海水でごくんと飲み込んだ。

それは、心の底が少しヒンヤリしただけで、それほど悲しくもなるわけでもなく、僕は、とぼとぼと家へ帰った。

夜。夢の中で。
僕の寂しさの永久凍土が、しゅわしゅわと小さな音を立てて、少しづつ溶けていくのを、僕は見ていた。

それは、やさしい不思議な幸福感で僕を包み込んでいく。