島日和<ひょうたん島後記>

        5-2024   池田良


「ヘンゼルったら、お菓子しか食べないの」
あの日、バス停で出会ったグレーテルはそう言って、自嘲的に笑った。
「彼は一日中家でお菓子ばかり作っているの。だからうちは、3食お菓子」

グレーテルとは、もうずいぶん会っていなかった。もしかしたら、何年も。
「体に悪いわよねえ。でも、お菓子が精神安定剤みたいなものだから」
朝の、涼しい風が吹いていて、とても気持ちがいい。
遠くで、美しい鳥の声がする。
「僕は、朝は御飯にお茶をかけて食べるよ。お茶をかけて、お粥みたいにして食べるの。朝にパンを食べたら、僕はお腹をこわしてしまう」
「ふうん、そうなの。でも、それも思い込みかもしれないね」
そしてバスが来て、グレーテルはそれに乗り込んだ。

「あら、バスに乗らないの?」
窓から顔を出して、グレーテルが聞く。
「僕は、バスを待ってみたかっただけなんだ」
そしてバス通りをゆっくり歩いて、僕は家へ帰っていった。

途中、森の中で、グレーテルの家のそばを通る。
グレーテルは弟と二人で、森の奥の小さな家に暮らしている。ずっと大昔に魔女が住んでいたという噂がある家だ。
二人は子供の頃迷子になって、この島に迷い込んできた。
それは僕がこの島にやって来た時と、ほとんど同じ頃らしい。
島には、出かけて行ったきり迷子になって、帰ってこない人もいるが、その逆の人も、たまにいるらしい。
いったいどんな力に導かれて、この島にやって来るのか。

グレーテルは隣町の大きな病院で働いていて、夜勤なども多いという事で、あまり見かけることもないのだが、弟のヘンゼルも家からあまり出ない人のようで、姉弟に会うのは、とてもまれな事なのだ。

二人の家の前を通ったとき、黒猫がにゃあと鳴いて、少し開いている窓から、家の中へ入って行った。
僕は少し気が引けたけれど、好奇心がかって、その窓のすき間から家の中を覗いた。
ほの暗いそこは、キッチンのようだった。
真ん中に大きなカマドがある。たくさんの調理道具が壁にかかっている。青い唐草模様の壁紙と、紫色の冷蔵庫。天井には大きな鳥かご、そして、小さくて夢見がちなシャンデリアがいくつか吊り下げられている。
美しい台所。

その台所の奥の、ほの明かりの中で、こちらをじっと見ているヘンゼルに僕は気付いた。ちょっと、身体を固くしている。
「やあ、おはよう」
と小さな声で僕は言って、手を振ると、ヘンゼルも黙ったまま手を振った。
それから大きく息をすると、おもむろに、こちらにやって来る。
窓を閉められちゃうのかしら、と思っていると、彼は窓のすき間から、硬い表情で少し微笑んだ。
「ジンジャーブレッドマン、いりませんか?今日は少し多く作り過ぎちゃったから」
「えっ? ああ、ありがとう」
僕がそう言うと、彼は大きく膨らんだ紙袋を持ってきて、窓のすき間から手渡した。
焼きたてのクッキーのいい匂いがする。
そしてヘンゼルは、少し困ったような顔で薄く笑うと、奥の部屋の方へ行ってしまった。黒猫がその後をついて行く。

彼は、大量のレシピ本や、物語、歴史の本などを読みあさっては、毎日お菓子を作っていると、グレーテルが言っていた。
それを販売するわけでもなく、自分たち家族だけのために。
それが彼の人生なのだ。
人類の経済圏に組しない生き方。人間社会の維持に組しない生き方。
ヘンゼルの宇宙は、家の中だけで完結している。

そこで生きるには宇宙はあまりにも大きい。そして、人間社会は、あまりにも小さい。
格差も優劣も、砂漠の砂粒の蜃気楼。うっとりとした自己満足の甘い夢は、不都合なほどに大きいきらびやかな豪邸でも、小さな相部屋の終の棲家でも、同じように味わうことができる。ただ、人生を咀嚼する力が、しっかりとあれば。

ヘンゼルのジンジャーブレッドマンの味は、遠い昔、僕がまだ、空間に漂っていた頃。通りすがりに舐めた、琴座のベガの味がほのかにする。
ツンとした生臭い苦みが、脳髄を垂直に走り抜けて・・・
涙がこぼれた。