島日和<ひょうたん島後記>

          2021-10   池田良


草原の真ん中で、草の上に寝ころぶと、視界は圧倒的に空で、ぐうんとのしかかってくるような空を、重く感じてしまう。
それは、青く爽やかに晴れ上がった空でも、美しい雲が狂喜乱舞と踊る空でも。でも特に、この頃のような灰色の空気にどろりと満たされた空は、重い。

ネコは僕のとなりに寝ころんで、小さな顎をくんくんと震わせてニヤリとしている。
僕には、ネコが何を考えているのか分からないことがしょっちゅうある。でも、それはネコなのだから。仕方ないのだ。
僕たちは、そんなことはあまり気にしないようにして過ごしている。本当のところは分からない。本当のところを聞くのは、怖い。
ただ、大切なことは、僕の自尊心を傷つけないでいてくれること。
そのためだったら、どんな嘘でも僕は受け入れる。

「もうすっかり秋だね」
草原の草も黄色く紅葉して、コスモスの細い茎が無数に風に揺れて、揺れるそのたびに、色とりどりの花がやさしいグラデーションをひろげていく。

「でもねえ、なんだか今年は、季節の変わり目なんかあったっけって感じですよ。お正月も花祭りも、夏休みだって、気が付いたら終わっていたような。不思議な感じで。1年間で2,3年も年月が過ぎちゃったような。
もしかしたら、本当にそうなんじゃないかしら。僕たち、なんだか、損してない?」
そう言ってネコは突然、混乱したような様子で、コスモスの草原を走り回った。ぐるぐる、ぐるぐると。イライラした感じで、何周も、何周も。
ネコがこんなにむき出しの不機嫌になるなんて、めずらしいなあと思いながら、僕もコスモスの草原を走り回った。
はかなげな花の美しさに悲しくなりながら。

これはもう、何年か前からなのだが、マスクをしていなくても、何もしなくても、僕は、メガネがすぐに曇るようになってきている。
まるで、眼球から何か、水蒸気のようなものが出ているかのように。
それは特に、左眼に強くあって、不思議だなあと思いながら、僕は一日に何回もメガネを拭いている。

「それはね、眼のせいじゃなくて、メガネのせいですよ。だって君のメガネは、誰かにもらった物でしょ」
ネコはそう言って、思わせぶりに笑う。
「だから、合っているようで、合っていない。それで、眼球が不思議な反応をするようになってしまったんですよ」
そうなのかしら。
それにこの頃やっぱり、右の眼と左の眼で、それぞれちがうものが
見えているような気がするのだ。それが僕の頭の中で混ざり合って、僕が今生きているこの世界を作り上げているような。

もうずっとずっと昔のことだ。美しい木箱の中にあった大切そうなメガネを僕が欲しいというと、その持ち主の人は、「あなたに合わせて作ったメガネじゃないから、合わないでしょ」と言いながら,やわらかく微笑んで僕に手渡した。
その人はいつもやさしくて、決して否定したり、腹を立てたりしない人だった。たとえ僕がどんなことを言っても、どんなことをしても。すべてを受け入れてくれる。限りなく大きな、愛の人。

そしてそのメガネは奇妙なことに、僕が今まで買ったどんなメガネよりも、僕の視力にぴったりと合って、いつも、不思議な幸せで、僕の自尊心をやさしく温めてくれる。
「それでも僕はこのメガネが好きだから、いつでもかけていたいんだ。時々なんかじゃなくてね。オフロに入る時も、夜、一人で眠る時も」

メガネをかけて見る夢は、懐かしさと悔しさと、地団駄踏むような愛しさと、無表情の恍惚と。
遠い昔に、かたくなに凍える僕を淡く抱きしめて、ゆっくりゆっくり、何日も何年もかけて、やさしく生き返らせてくれた、燃えるように熱い舌の、粘液の感触。

「もうすっかり秋だね」
草原の草は黄金色に萌え上がり、駆け回る風は、万華鏡のような様々な色にキラキラと輝き、秋の草花の秘密めいた匂いをふりまいていく。

重い重い真っ青な空は、圧倒的空間いっぱいに、白い羊雲を纏って、高く高く、底なしの宇宙の暗闇へと、まっすぐ一直線に、なだれ落ちていく。