島日和<ひょうたん島後記>

       9-2022     池田良


海を見下ろすデッキへと出る、大きなガラス扉の向こうに、ひときわ高い竹が一本生えて、ゆったりと風に揺れている。

竹は斜面の下に生えているから、ガラス扉を通して僕のリビングから見えるのはその繊細な上層部分で、優雅なしなり具合が美しい。
夏の始め頃には、海の風景の邪魔になると思い、切ってしまおうかしらとも考えたけれど、ヘビが怖くて草がおい茂った斜面の下に下りていけなかった。
そして、秋になったらネコに切ってもらおうなどと思っているうちに、暑い夏の日が続いて、その美しい緑のゆったりと大きく揺れるさまが、目の慰めになった。
夜になると、湾に浮かんでいる、きらびやかな明かりを纏った客船の前で、シルエットになった竹がサワサワと揺れると、明かりがキラキラと瞬いているようで美しい。

「この頃また蒸し暑い日が続きますねえ」
そう言いながらネコがやって来る。
「この前ね、島の東の端のヘイの上で、見慣れないおばあさんに会ったんですよ。自分が迷子になっていることに気が付いていないようでね。ふふふ」
そして僕たちは、デッキの上のイスに二人並んで座って、海を眺める。
「でも、お話しているうちに、彼女がこの星の東の端から来た人だと分かったんです。その、体の雰囲気からね。だって、体格がとても華奢で、はかなげで、ちょっとねっとりした肌が、うっすら霧をまとっていたんですもの」
霧をまとったようにねっとりとした肌。それは東の国の人のものだ。白い肌に微かな黄色みがなまめかしい艶を作り、そのひんやりとした滑らかさに触れると、ぴったりと吸い付いてくる。

「でも、なんとなく、この島のどこかに住んでいそうな人でもあったなあ」
ネコはなぜかうっとりとそう言った。
「人魚の養殖所のあたりとか?」
僕はちょっとからかってみる。
「ふふふ。あそこの人魚は、人工水生生物なんて言っているでしょ。人類じゃないんですって」
それは確かにそう。人魚は人類ではない。
「そうそう、人魚の養殖所にギャラリーがオープンしたってお知らせが来てたでしょ?行ってみました?」
そういえば、そんなお知らせが来ていたっけ、と僕は思い出す。
「いえ、まだ。行ってみなきゃって思っているんだけど」
「楽しいですよ。いろんな水生生物が展示してあるの。木の歯車で動くものもあるんですよ。 中庭の真ん中に、クリスタルで作った小さな亀が無数にぶら下がっている木があってね、それが、風に揺れるたびにキラキラとまたたいて、夢のようにきれい」
そう言ってネコは、うれしそうに、つま先立ちの足でステップを踏む。ネコはこの頃なにかというとすぐ踊りだすのだ。
ダンスをすること、音楽を聴くこと、好きなものを食べること、そんなことが、沈み込みそうなこの世界をすくい上げてくれる。
深く沈み込んでしまわないように、僕たちは、この世界をすくい上げていなければいけない。

そして次の日、僕は人魚の養殖所に出かけた。
ギャラリーオープンのプレゼントには、庭の桑の実で作ったジャムとジュース。
風はだいぶ乾燥してきて湿度もほのかに秋の気配。手の皮膚に、レースの様な細かい皺をうっすら広げていく。
草原の真ん中に、しゃれた街灯がずらっと並んだ橋があって、その向こうに、養殖所が見える。こんな所に、こんな立派な橋も作ったんだ。まわりには何もない、ただ一面の草の海。・・・
ギャラリーの扉の前のイスに、養殖所のオメガさんが座って、こちらを見ている。僕たちが会うのはずいぶん久しぶり。
「やあ、こんにちは。やっと来てくれましたね」
そして、オメガさんはにっこり笑って、扉を開けた。

中は広くて、たくさんの作品が展示してあるけれど、がらんとした雰囲気。
「これは全部、木で作ってあるんですよ」
オメガさんは、なぜか声をひそめてそう言った。
たくさんの水生生物はどれもとてもリアルで、特にその肌の質感がなまめかしく、まるではく製のように、命の気配がする。
「まだまだ途中なんです。もっとちゃんとした世界を作らないと」
彼はヒソヒソ声を、さらにひそめる。
「あの、・・・草原の真ん中にある、大きな橋は、ギャラリ-への入り口になるのでしょうか」
僕がそうたずねると、オメガさんは、ちょっとくすぐったそうにふわっと笑った。
「あれは夢の大橋ですよ。渡ったことありません? 月の出る方角をとても慎重に計算して作ってあるから、月読みに使うのです。
いつか、あの橋を渡ってごらんなさい。
満月の、上って来る時がいいなあ。・・・