島日和<ひょうたん島後記>

          1-2022   池田良


僕はネコの唾液の匂いはあまり好きではない。
ほのかに粘液くさくて、鼻の奥にねばりつくような匂いだ。
でもそんなことはお構いなしで、ネコは僕のベッドの上で、しつこく毛づくろいをしている。

この冬、僕はほとんど冬眠をしていない。
島には今年、たぶん雪は降らないだろうなあと思いながら、僕は窓の外を眺めている。
冬枯れの庭は、しおれて縮んだ草がジュータンのように一面に敷き詰められていて、すっかり乾燥しきっている。

島にこの頃雪を降らせていた、雪国の酔いどれ仙人と、僕はケンカをしたのだ。
その原因は、どうでもいい事のようでもあり、とても大切な事のようでもあり。
そんなこんなで、少なくとも、今年の冬、島には雪は降らないのだ。
それがいつまで続くのか、僕には分からない。この次の年に突然、甘ったれミューズが、またあのヒステリックな大雪を狂喜乱舞と吹き荒らすかもしれないし。酔いどれ仙人と甘ったれミューズがまた傷つけ合って、とてつもないことになるかもしれないし。
とにかくミューズは、プライドを傷つけられるのが大嫌いなのだから。

「のどかな冬ですねえ」
そう言いながらもネコは、しつこく毛づくろいを繰り返し、僕の手まで舐めている。
そんなに舐めるとまた、舌が炎症をおこして痛くなるよと思いながら、僕は見て見ぬふり。されるがまま。
今年は久しぶりの、とても穏やかな冬だ。島の外では、不穏な気配がまだまだ渦まいていると、テレビのニュースは言っているけれど、ここは、テレビ局からも、遥かに遠い。

もう2年も、この星が不穏な雲にすっぽり覆われているという、物語のような状況に、僕たちはすっかり慣れてしまっている気になっている。
かすかな振動を、いつも感じているような不安感にも、気付かないつもりで。
この非日常的な日々がもう僕たちの日常で、どこかの物語の中で読んだような日々を、僕たちは現実に生きている。

あの、つむじ風のようなエネルギーに溢れた支離滅裂の酔いどれ仙人も、今年は雪国からやって来ないし、僕は寂しさをしゃぶりながら、静かで穏やかな冬の底に、沈んでいる。

「ねえ、あの谷の底の家のおばあさん、旅に出てしまったらしいですよ。それも八月にですって。息子さんからこの前聞いて、びっくり」
ネコが突然思い出したように言う。
「えっ、そんな・・・。なんで僕は知らなかったのだろう」

僕とおばあさんはとても仲良しだったのに。息子さんだって、それを知っていたはずなのに。
僕がここへ越してきたときに、最初に友達になったのは谷の底のおじいさんとおばあさんで、誘われて、一緒に海に磯遊びに行ったり、あぜ道に座って空を見ながらお菓子を食べたりしていたのに。
おばあさんは何回も何回も同じ話を繰り返し、おじいさんは、女は黙っとれなんて、時代劇のセリフのようなことを言ってみたり。

おばあさんは、空気の中にかすかに広がっている、甘い記憶の分子を見つけてしまって、それをたどりながら、思いもかけない遠くへ行ってしまったのだろうか。
旅立ちが八月だったら、もう五か月も過ぎている。今はきっと、すでに地球の果てを乗り越えて、広い広い宇宙空間へ足を踏み入れているに違いない。いつもはいていたあのフワフワのスカートの裾をひるがえして、パリパリにアイロンがけされていた真っ白なかっぽう着の腕まくりをして。お寺の裏の狭い坂道を駆け上っていたという、若い頃の真っ赤な血汐のままで。
ちょっと唇の端に微笑みを浮かべて、どんどんどんどん前へ進んで行くのだ。自分でもわからない、何かを目指して。

もう冬も真っ盛り。
雪国では、真っ白に積み上がった雪の下に、すべての思い出が埋もれてしまっていると、テレビのニュースが言っている。