島日和<ひょうたん島後記>

         4-2021  池田良

どこまでリアルで、どこからイメージなのだろう。

人から人へと伝わっていく目には見えない恐怖が、ほら君の後ろに、ほら君の横にと、人々を怯えさせている。
「こんな事、いつまでも続けられるわけないでしょ」
とネコが言っていた暮らしが、もう1年以上も続いている。

都会へ行くと、全員マスクをした人々が、何か訳の分からないことを言いたそうな眼差しで、向こう側の信号から無言の圧力のかたまりになって、僕に押し寄せ、僕を通り過ぎていく。何かを思い詰め、何かを疑い、何かを信じ。
僕はその衝撃波に吹き飛ばされそうになりながら、足を踏ん張り、広い交差点の真ん中に立ち尽くす。

「こんなに簡単に、テレビの世界が、僕の世界と結びついちゃっていいのかしら」
穏やかな春の日の、島の昼下がり。遠く見える海は夢見るように美しい。
きらきらと光る木漏れ日の下のハンモックに揺られながら、ネコは、大好きなオレンジサンドのチョコクッキーを、ペチャペチャと舐めるように食べながらつぶやく。
「でもともかく、今は慎重に生きている方がいいと思うよ」
僕は、少し煮出したミルクティーをテーブルに並べる。
「そうね。それにこんな生活も悪いことばかりじゃないしね。ほら、マスクをしていれば、僕がネコだってバレないでしょ?」
あっけらかんとそう言って、ネコは黄緑色の目玉をぐるっと回転させて含み笑い。
僕はあっけにとられて、その本意も分からないまま苦笑い。

もちろん僕だって知っている。
ネコは、ネコであることに優越感を感じていることを。
だから毛も染めないし、爪も染めない。ネコであることのしなやかさと刹那を生きる官能性を、人間たちに見せびらかせて生きているのだ。
自由気儘な美しさと、恐れを知らない無計画さ。

僕はとても心配性で気が小さいから、マスクと消毒と手洗いに慎重で、それでもあまり完璧にしてしまうと、自分がロボットかなにかになったような感じになって、口の中が微かに金属臭くなって、いやになってしまう。
「それでもねえ、高齢化で毎年増え続けていた死者数が去年は減っていたんですってよ。マスクと手洗いのおかげじゃないかっていうの。ほら、悪いことばかりじゃないでしょ?
でもそれって、なんだかおかしな話ですよね。僕たちって、何を恐れていたんだっけ」
そう言ってネコは、ミルクティーをペチャペチャと飲み干し、ハンモックの上で体を丸くした。
くるりとまるめてボタンを留めた、抱き枕のように。

僕もハンモックの上に乗って、ネコ枕を抱いてお昼寝をする。
今年も季節はきちんと巡ってきて、暖かい春の風は色とりどりの花びらをあたり一面にまき散らしている。
春爛漫の花吹雪。
島中の水辺が、草原が、空気が、様々な花びらの点描でむせ返るような美しさ。
こんな季節には、島中のどの家も、テーブルや椅子を外に出して食事をする。
お茶やスープの入ったカップにも、料理のお皿にも、パンの上にも、ひらひらと花びらを受け止めて。それが僕たちの春の日々の至上の歓び。

僕の隣の家は、草に埋もれて見えないけれど、スピーカーを庭に置いているようで、一日中かすかな音で音楽が聞こえてくる。まるで僕の家のためのバックグランドミュージックのように。そして夕暮れになると、庭に置かれた明りが草のあいだからキラキラこぼれて、蛍火のようにゆらめいているのが見える。
まだ夕暮れの風はひんやりするけれど、春の空気の甘さは優しくて、すっかり傷ついてしまった心をやわらかく包み込んで、まるく癒してくれる。
「僕はねえ、この頃、家では一日中やさしい声の歌ばかりを聴いているのですよ。そうすると、何でも受け入れられるような気持になれるから」
ネコはそう言って、とぼとぼと家へ帰って行った。
誰もが寂しい心を抱えている今、目には見えない砂あらしのようなノイズに満たされているこの空間にも、いつも、やさしい音楽が流れている。

近頃、地球には花粉のように細かなマイクロプラスチックも漂っているというし、僕は、春の広大な花吹雪の真ん中で、長い舌をぺろりと出してひと回し。
色とりどりの花びらやら、色とりどりのプラスチックやら、花のように美しい突起をいっぱい付けたウイルスやらを、舌一面にまぶしつけて、カメレオンのようにごくりと飲み込む。

僕たちは今、どのあたりにいるのだろう。