島日和<ひょうたん島後記>

       4-2022   池田良

空気が、まるで真空になってしまったようにすっかり透き通っていて、すべてのものが、くっきりと見えている。
色々な事情が重なって、色々な人々の社会活動が遠慮気味なせい?
遠くに見える夜景の明かりもキラキラと粒だって輝き、夜風の淋しさなんか、吹き飛ばしてしまうほどに美しい。

妙に世界がきらめいて見えると、僕は、この世界ともそろそろお別れなのかなと感じてしまう。
祖母が亡くなった日の帰り道のように。森の中のすべての草がむくむくと青臭いエネルギーを発散させて荒い息づかいをしていたり。まわり中の風景がギラギラに輝いて見えたり。
世界が妙に狭くなって、僕のまわりの色々な出来事や、色々な人々が繋がり始めているような気配がしたり。鼻腔の奥で、血の匂いがしていたり。

その日、海の匂いがかなりきつい干潮の岩場で、うつらうつらと釣り糸を垂れていると、空の向こうからブルブルと音を立てて、小さな飛行機が傾きながら飛んできて、海岸の砂浜に降り立った。
僕がぼんやりと眺めていると、中から、かなり威勢のよさそうな女の人が降りてきて、飛行機の胴体を思い切り蹴とばした。そして僕に気が付いて目が合うと、なんだかばつが悪そうに笑って、何気ない感じで、近づいてきた。

「あの、すみません。ここってどこなんでしょうか」
えっ、それは・・・
言われて僕は、とっさに答えを探す。
「それは・・・、僕にはうまく説明できなくて、なんと言えばいいか・・・」
僕がもごもごと口ごもっていると、
「迷子になっちゃったんですよ。だって空には何の目印もないから。迷わない方が不思議だと思いません?」
僕の返事なんかにはおかまいなしの感じでそう言いながら、彼女は僕のとなりの岩に座った。

この人は人の話は聞かない人なのかしらと思いながら、僕も、ひとり言のように話をする。
「ずいぶん可愛らしい飛行機ですね。計器とかはちゃんと作動しているのかな」
「この飛行機はね、しょっちゅう迷子になるんです。でも、私はあんまり気にしていないんですけどね。だって私、知らない人に会って話をするのが好きだから。
この前なんてね、なんだか、すごく派手な広告の真ん中に降りちゃったなあって思っていたら、オリンピックの開会式の真っただ中だったんですよ。もうびっくりですよね。皆はね、それも演出の一部って思ったみたいだけど」
そう言って彼女は、鳥のように笑った。
「・・・でもね、あのオリンピック問題についての、選手たちの沈黙には、私、かなりがっかりだったんですけどね。だって、一番の当事者のはずなんだから」
そして彼女は、ちょっのぞき込むような顔で僕を見た。
その真っすぐな眼差しはとでも強くて、人をたじろかせる純粋さがある。

「ふふふ。でも、あの不時着は面白かったな」
ふわふわと笑いながらそう言って、彼女は幼い子供が踊るようにくるくると回る。
「不思議なんですよね。ここの上空に差しかかった時から、急に計器がくるくる回りだして、緯度も経度も分からない。故障したのかしら・・・。まあ、磁場かなにかの影響で、そんなふうになることも、あるけど」
それから、胸にかけたカバンの中から、細い棒についた水色の星を、まるで手品師のような手つきで取り出して、僕に渡した。
「はい、お星さま。好きでしょ?透き通った水色だし」

・・・あれは昔。同じ言葉を言って、僕に星をくれた子がいた。
「はい、お星さま。好きでしょ?透き通った水色だし」
持ってきちゃったの?と僕はびっくりしたけれど、その子はけろっとして、「だって、誰もいなかったから。お星さま、好きでしょ?透き通った水色だし」と言って、嬉しそうに笑っていた。・・・

「ではまた、この周りを少し飛んで様子を見てみます」 
そう言って彼女は、少し傾いたままの飛行機で飛び立ち、そして行ってしまった。
僕は波打ち際でそれを見送りながら、なぜか強烈に、一人取り残された感覚に襲われた。結局彼女は、僕に星を届けに来ただけなのだろうか。
昔、星をくれた子は、あれからどこへ行ってしまったのだろう。
僕たちは子供のように愛し合うのが好きだった。社会の決まり事にも、積み上げてきたはずの経歴にも目もくれず、ただ命の歓びだけを味わっていたかった。
気が付くと、ネコが砂浜の向こうに座っていて、じっとこちらを見ている。そしてしばらくすると、ゆっくり歩いてきて、僕のとなりにすわった。

「僕、あの人知っていますよ。憶えていません?ずっと昔に会ったことがある」
ネコはそう言って、水平線の遥か向こうの空を見ている。
「だけど、いつか、記憶なんてどうでもいいことになる。一番最初になくすのは時間で、その次が場所。それからサラサラと砂のように、すべての細胞の中の、過去と今と未来が流れ出して、別の世界が広がって行く」