島日和<ひょうたん島後記>

         6-2021  池田良

 ああとてもいい気持。僕たちはただこうして、毎日を暮らしていけばいいのですね。

ネコは、ネコのくせに、オフロに入るのがとても好きなのだ。水を嫌がる様子は少しもない。近頃はとみに僕の家のオフロに入りに来て、頭をこりこりと洗ってやると、上を向いてうっとりしている。
ネコはふれ合いホルモンのオキシトシンがとても必要ないきものなのかしら。
いつでも手をつなぎたがるし、電話やメールだけでは心が不安定になるらしいし。
「オキシトシンはアンチエイジングの妙薬だって言うじゃない。だからネコはいつまでも若いのですよ」
そう言ってネコは、また僕の手を取る。

僕の家のオフロは、家の横に張り出した長い軒の下にあって、屋根はあるけれど壁はない。そして湯船の底に小さな泉があって、そこから暖かいお湯がこんこんと湧き出している。
そんなオフロだから、朝早くに入ると、周りの木々の目覚めたてのいい匂いに包み込まれ、夜には、お湯の中に月が浮かぶ。だからネコ以外にも、島の人々が時々、オフロに入らせてと言ってやって来る。
そしてみんな、静かにゆっくりお湯につかって、うっとりとした幸せそうな顔をして帰っていくのだ。ネコみたいに。

僕はいつも、庭で摘んだいい匂いのする薬草を一本お湯に浮かべ、ゆぶねのふちに小さなローソクの明かりを灯して、静かにそっとお湯につかる。
そして手のひらに月を掬い取って、木々の匂いを深く吸い込む。
生きている、生の香木の匂いだ。
時間はゆっくりと流れていく。昔のあいまいな記憶も、今日の淡い出来事も、母から聞いた物語も、本で読んだ暮らしも、薄く混ざり合って、すべてが僕の思い出になる。

「とっても素敵なオフロがあるって聞いて、伺ったのですが、オフロに入らせていただけないでしょうか」
ある日庭に、とてもおしゃれに着飾った二人の女性がやってきて、しゃらしゃらとすました声でそう言った。
僕はびっくりして、知らない人を家のオフロに入れるのは、ちょっと嫌だなあと思ったけれど、遊山さんの友達だと言って、二人はうっすら笑いながら、ずっと立っている。それで結局、僕は断ることもできず、オフロに案内するしかなかった。

「おひとりずつしか入れないのですが」
そう言って、順番を待っているもう一人の相手をして、僕はそれでも少し話をした。リンゴジュースを一緒に飲んだりしながら。
彼女たちは、この島に昔住んでいた人々にとても興味があって、色々と調査をしているのだという。

それは遠い昔、僕がこの島にたどり着いときにはもういなくなっていた人たちの物語だ。
学校やサロン、小さなデパートや大統領官邸などの建物の中に、教科書やコーヒーカップ、古いソロバンまでそのままに、忽然といなくなってい人々。まるで突然の原子力発電所の爆発があって、すべてそのままに慌てて逃げだしました、というような感じで。

「それは、まだ島が海に漂って、色々なところに旅していた頃の島民たちのことでしょう?僕がこの島に来た頃には、島はもうこの入り江にくっついていて、動かなくなっていましたよ。今ではもう、島だか半島の一部だか、よくわからない。ふふふ」
僕がそう笑うとその人は、小さな鈴の付いたエンピツで、一生懸命何かをメモしている。指には可愛らしい指輪をすべての指にはめていて、耳にはたくさんのピアスがキラキラと輝いている。そして美しく結い上げた髪の毛にもしゃらしゃらと色々なカンザシが刺さっていて、首筋には、ちいさなタトゥーがあった。・・・シールかしら。
何を書いているのだろう。僕が横からちらちらとのぞき込むと、今まで見たことのない、模様のような、記号のような、美しい文字が、ノートにびっしり書かれていた。

「ここは素敵なところですね。この辺りは、奇跡的に残った里山って言われているんですってね。ご存じでしたかしら。でもね、ここもちゃんと守られていないでしょ?かわいい小道を、車の通れる広い道にしようっていう人達や、きれいな海岸にマリーナのための波消しブロックを積み上げてしまう市長さん達や・・・。いろいろ言われているけれど、それでも、環境破壊は着々と進んでいるのですよ。この星は」
彼女たちは、どこから来たのだろう。
何をする人たちなのだろう。地球観測プログラムの調査員?・・・

そして二人は、オフロ上がりのツヤツヤの、ちょっとほてったパールピンクの顔で、帰って行った。
梅雨カズラの、爽やかな甘い香りを残して。

次の日、彼女たちからお礼の電話がかかってきて、不思議なことを聞かれた。
「・・・あなたのお誕生日はいつですか?」