島日和<ひょうたん島後記>

         9-2021   池田良


僕は、空気の中を泳ぐのが、また少し上手になってきている。

空気は今、全体的に温度が上昇してきているのと、新しいウイルスが薄く広がってきているのとで、かすかに浮力がまし、すくい上げると手のひらに感じるとろみが心地よく、地面をけった時の抵抗力も、やわらかく体を推進させてくれる。

空気には意思がある。それは僕たちと同じように、この世界にある物質なのだから。
でもそれは、僕たちと同じようには意思表示はしないし、お互いに、理解しあってはいけないものなのかもしれない。

新しいウイルスが蔓延しているらしい空気は、少し酸っぱい匂いがして、飲み込むと、汗のような苦みがある。
近頃、この惑星の反対側にある小さな島で、島民たちの反対を押し切って大きなイベントが開かれ、惑星中から多くの参加者がやって来て、様々な競技に打ち興じてしまったというウワサがこの島にも伝わってきている。
世界中から持ち込まれ集まったウイルスが、何か月先、何年先にどんな化学反応を起こし、そこから惑星の隅々へと広がっていくのか、誰にもまだ分からないという。
参加してしまった人々も、今は、安易な行動を後悔しているのだろうか。なぜ不参加の意思表示をしなかったのかと、なぜイベントの中止を要請しなかったのかと。
それでも、地球はいつも楽しげに回っている。
今までだって、そしてこれからも。人々の後悔と悲しみと間違いを、たくさん乗せて。

かすかに苦みのある空気をかき分けて、僕は朝、海へ海水を汲みに行く。
まだ朝の早い海岸には、もうボートを浮かべている人や、釣りをしている人がいて、僕は家から持ってきた透明ガラスのビンに海水を入れようと、波打ち際を右往左往。
波は、押し寄せては僕のサンダルを濡らし、汲みあげようとビンをつけると、笑い声をあげて逃げていく。

それでもやがてビンの中には、少し泡立った海水と、白い砂と、小さな貝殻が入っていた。
僕はうれしくて、ビンを空にかかげ、にんまりしながら眺めていると、手にビニール袋とトングを持った女性と目が合った。彼女は、そんな僕を見つめてにやにやしている。
海岸に新しく出来た、ビーチクラブカフェの女主人だ。
彼女が毎朝、海岸のゴミを拾い集めているのを、僕は知っている。以前は、カフェの前の看板に、ビーチクリーンの日の予定や、夕暮れの海岸焚火の予定が張り出されていたのだが、今はそんなささやかなイベントは中止にさせられているから、ビーチクラブのスタッフがひっそりとゴミ拾いをしているのだ。

「ビーチクラブの人と仲良しになってはだめですよ」
僕は以前、海岸の近くの油屋でアルバイトをしている、長い髪の、レゲーファッションの青年に言われたことがある。
僕が、ビーチクリーンのことや、焚火のこと、夏の終わりの15分間の打ち上げ花火のことを、あんまり楽しそうに話したから。
「あそこは、夏休みになると、水上オートバイを貸し出している所だから」
島の住人たちは皆、水上オートバイが嫌いなのだ。浮き輪でのんびり海に浮いている人々や、海岸でランチを食べて、シーグラスを拾っている人々に、水上オートバイの轟音は似合わない。
それでも、この海岸のそんな雰囲気にはお構いなしの都会の人々がたまにやって来て、水上オートバイを走らせていることがあるのだ。

「ありがとうございます」
僕は、彼女のそばを通り過ぎる時に、小さな声で思わずそうつぶやいた。いつもごみを拾い集めていてくれる彼女に、気が引けていたから。
そしてその時、ふと気が付くと、彼女は首に月の子のペンダントをかけて笑っていた。
僕はびっくりして、息をのんだ。昔、長者ヶ崎の海岸で僕がなくしてしまった、月の子のペンダント。
キツネのお面を付けて、下駄をはいて、ちゃんちゃんこの背中に、月と書いてある、月の子。
僕はそれがとても気に入っていて、小さな呪文をかけて大切にしていた。

予期せぬ再会に驚いて、呆然としていると、彼女が首からそのペンダントを外して、僕の首にかけた。まるで両腕を、僕の首にからみつけるように。
そして微笑んだまま、黙って向こうへ行ってしまった。

追いかけていって、お礼を言わなければいけないと思いながら、しかし、僕も黙って、そっと家へかえってきた。
このままお互いに何も言わない方が、この夢のような出来事が、秘密のように永遠に存在するような気がしたから。

家へ帰って、遠くに海の見えるテーブルの上に、海水の入ったビンと月の子のペンダントを置いて、僕は、独りで、魚のように昼食を食べた。