島日和<ひょうたん島後記>

        3-2022   池田良


もわもわとした春の空気にめまいして、春休みになると、僕はよく病気になっていた。
寂しさを吐き出すような自家中毒。
でもそれは、夏休みにも冬休みにも起こっていたことなので、もしかしたら学校生活をよほど緊張して過ごしていたのかもしれない。
そして今、今この地球の空気の状態の中を泳ぎ回るには、僕はそれなりにリスクの高い階層に属しているようなのだけれど、ヒソヒソと生きることにも、もうかなり疲れてしまって、巻き込まれるかどうかも分からない疫病を恐れて家の周りだけをうろうろするのは、もうやめようなんて思い始めている。そしてつまり、

死ぬ覚悟はできている。なんて言うわりには、おそるおそる手を伸ばして、震える足で家のドアを蹴とばし、大気の中へ身をすべり込ませる。
久しぶりの旅行なのだ。
ちょっと煙くさい空気は春の朧。
家の前は地平線のかなたまで黄色い花の海。

無限に広がる菜の花畑を、絡まる足でしどろもどろに真っすぐと突っ切って、青臭い花粉にまみれながら、青息吐息 五色の息でたどり着いた小さな駅は、誰もいない無人駅。
板一枚のプラットホームの上には小さなベンチと、ぽつんと立った掲示板に、不定期と書かれた時刻表が一枚貼ってあるだけ。
いつ来るとも分からない列車を待っていると、ウグイスの声が高く響く。

ウグイスって、どうしてあんなに必死に鳴くのだろう。
そのしがみ付くような切実さが、人の心を狂わせる。あんなに痛切に愛を求めることのできる人は、自分の空の中で、夢見るような幸せを生きているのだろう。

ふと気が付くと、目の前に青い列車が入って来ていた。
それは晴れ上がった青空のように美しい青で、乗客は一人も乗っている様子はなかったが、中から車掌が下りてきて、
「こちらの駅で、20分間の停車となりまあす」
と大きな声で言った。

彼は立派な帽子を被り、きちんと制服を着て、僕の方をチラチラと見ている。ちょっとキツネのような美しい目だ。
そしてまわりの風景を何気なく見たりしながら、ゆっくりと、僕の方に近づいてきた。
「この列車は、銀河方面には行きませんよ。どちらへおでかけですか?」
彼はそう言って、小さなベンチの、僕のとなりに座った。
「いえ僕は、都会の中央駅まで行くだけですから」
すると彼は、安心したようにふわっと笑った。
「ああそうですか。いえあなたを見たときに、ずいぶん遠くまでいらっしゃる方じゃないかと思いまして。でもこの列車は都会にも行きません。オホーツク回りで北極点まで行くのです」
北極点。行ったことがないなあ。今回の旅は、大きな都会の様子を見に行く旅じゃなくて、北極点への旅にしようかしら。
「今はまだ北極点は猛烈な寒さですから、特別な理由がある方じゃない限り、観光に行く方はいませんけどね」
僕の思い付きを見透かすように彼はそう言って、うすい横目で僕を見た。
あたたかい春の風が、やわらかく僕たちをつつむ。
「あなたにめずらしいものを差し上げましょう」
そう言って彼は、斜めに掛けた車掌カバンの中から、フキノトウの花のイラストが描かれた小さな白いパッケージを取り出した。
「私の姉が働いているチョコレート工場でね、今度新しく発売する、白いチョコレートですよ。見たことないでしょ?」

・・・それは、もう何十年も前。僕が北海道を旅していた時に、回り中が大草原の、家など一軒も見えない無人駅で、僕がもらった白いチョコレートのパッケージと同じものだ。「今度新しく発売する白いチョコレートですよ。めずらしいでしょ」と言って、それを僕に手渡し、大草原の中に消えていった、キツネに似た美しい目の女性。
あの時は、白いチョコレートなんてあるわけがない。だまされたのかな。なんてちょっと楽しくなったけれど・・・

今はもう、もう、ホワイトチョコレートなんてどこにでもありますよと、僕は言えなくて。ありがとうと、そっとカバンの中に入れた。
彼は嬉しそうに笑って、列車に戻り、去って行った。
ウグイスの声があまりに痛切だから、時間がねじれてしまったのかしら。この空間に、僕をきちんと大都会へ連れていってくれる列車は、本当に来るのだろうか。

菜の花の花粉にまみれた、ちょっと粉っぽい風がやわらかく僕を包む。
ひとりでしんと座っていると、花粉が鼻腔から気道を通り、肺の中へと入っていくのを、僕は感じる。
僕の肺は、様々な花粉や浮遊物を味わい分けるから、それも、何事も無くても日々生きていることを楽しむ歓びの、ひとつになっている。

ウグイス。声だけを残してその姿はいつも見えない、ウグイス。
僕たちはとびきり自由な子供時代を一緒に過ごしたねえ。ところかまわずキスをして、どこでも一緒に行って、甘え合ってケンカしてかきむしり合って泣きぬれて、結局自爆して、粉々に砕け散り、ひとかけらも残さないで風の中に消えてしまった。
でもね、春になるといつも、また君と再会するような気がするよ。
だって僕たちは、そんなことを、ずっと繰り返してきたんだから。