島日和<ひょうたん島後記>

         8-2023  池田良


ネコの家の一番奥、日の当たらない小さな書斎の棚の上に、古びたバンドネオンが、ひっそりと置かれてある。

ネコは昔、バンドネオン奏者だったそうで、音楽家たちと楽団を組んでは、街から街へと汽車を乗り継いで、旅をしていたそうだ。
「貧しい楽団だったけれど、楽しい旅の日々でしたよ。いろいろな所で演奏してね。港町の大きなデパートの片隅の小さな会場とか、雪国の古い造り酒屋の主人が始めた、ハイカラなビアレストランとか、セロ弾きの少年紳士と仲良くなって、毎晩飲み歩いた外国の街々とか・・・」
涼しい風の吹く夏の日の夜、宝石のように小さなシャンデリアが薄暗く輝くネコの家の書斎で、僕は、夢の中のようにネコの思い出話を聞く。
「広場を囲む市庁舎の屋根の上で演奏したこともありますよ。皆は広場にイスを持ち出して、お酒を飲んだり踊ったりして、それを聞いているの。高足をはいたピエロたちの、幻想的なパレードもあってね。
海賊船に呼ばれて、乗り込んだ時もあったなあ。結局その船は難破して、海賊たちも皆海の底に沈んじゃったんだけど。あそこからどうやって戻ってきたのかが、よく思い出せない。嫌な戦争があったりもしたからね。記憶がよけい曖昧になってしまっているのです」
・・僕は、戦争に巻き込まれたことはない。それだけは、本当に運が良かった人生だと思っている。
だからねえ、あなた達。どうか僕たちの人生を、戦争を知らない子供たちのままで終わらせて欲しい。ずっと、ずっと

「そして戦争が終わって、やっとみんな自由になって、さあこれからって時に楽団は解散してしまったのです。どうして僕たちは離ればなれになる道を選んでしまったのか、今も分からない。結局貧しさとかひもじさとかに負けて、そんなことになってしまったのかなあ」
そしてネコは、バンドネオンを膝の上に乗せて、いきなりのフォルッテッシモでドラマティックなタンゴの曲を弾き始める。
それは、暗いトンネルの向こうから突然現れた古い馬車の、馬のいななき。そして馬車の中から降り立った、ヘビーメタルファッションの男の、鋭い眼光と、グルグル振り回される太いステッキ、安っぽく光る大きな指輪。ジャガーと呼ばれたバンドネオン弾きの、妄想の様な夢のような物語。

月は煌々と空に輝き、僕は心をわしづかみにされたまま、呆然と聞いていた。
ネコの演奏は時に悲しく時に甘く、激しく切なく、夜空を駆け回る様に、延々と続いた。
そして僕がちょっとキッチンに飲み物を取りに行って戻って来ても、ネコはまだ弾き続けている。夜風が少し冷たくなって、窓を閉めに行って戻って来ても、まだまだ弾いている。
それから真夜中近くなって、星たちも深いため息をつく頃、ネコの演奏は、ドラマチックに終わった。寂し気な余韻を残して。

「ちょっと長かったでしょうか。でも次から次へと物語が生まれてきてしまうんだもの」
そう言って満足そうに笑ったネコの目の下の皮膚はうっすらと青味がかり、目はうっとりと充血して、赤味を帯びている。
「素晴らしい演奏だったね。こんな素敵な物語は今まで聞いたことがない」
窓の外の月も、うっとりと目を閉じて、微かにぷるぷると震えている。
「いつか、どこかの少女歌劇団が、この音楽で小さな物語を上演したら、素敵なものが出来そう。満月の夜限定の、野外公演でね」
僕がそう言うと、ネコは嬉しそうに笑いながら、ちょっと照れたようにくるくる回った。
「それは素敵。いつかね、どこかで、きっと」

それから僕たちは月の明るい真夜中の庭に出て、二人で少し歩きながら影踏みをした。
”あなたの影を見ているだけで、僕は幸せ・・・”  そんな古い唄を、ふと思い出して歌いながら。
月は煌々と天の真上で輝き、星たちはキラキラと踊りながらリズムをとってゆれている。

「それでは今日の日はさようなら。会いたくなったらまた明日。どうかゆっくりおやすみなさい」
宇宙の端の小さな星の、重い重い大気と、うっすらと危なげに広がる大地の、このほんの一瞬のすき間で。
幻想と思い込みの、何気ない日常の日々の、続きの日々。