島日和<ひょうたん島後記>
7ー2023 池田良
ずいぶん長い間、雨が降り続いた。
こんなにたくさんの水をいったい何処にためておけるのだろうかと、僕たちは空を見上げてはため息をつくばかり。
ネコは雨の日はあまり外にも行けず、いらいらとした様子で部屋の中をぐるぐる歩き回り、長椅子に座ってパズルをしている僕の頭の上をぴょんぴょんと飛び越えてみたりして気を紛らわせていた。
久しぶりに晴れた朝。ようやく雨のシーズンが終わったのだろうか、それともほんの中休み?
庭の草は雨の残りの露をたっぷりと身にまとい、宝石のような虹色にキラキラと輝いている。そのきらめきは庭中に広がり、七色にきらめく露の草原は、息をのむばかりの美しさ。
「これって、ホタルの沼地の夜より綺麗なんじゃないの?こんな朝って、そうあることではないでしょ」
そう言ってネコは、朝ごはんの後のサプリメントを、熱いお茶でごくりと飲み込む。
「これだけ雨が降って、湿度100パーセントの日が続いたんだから、ホタルの沼の森の倒木がどうなっているか、見に行ってみたくない?」
そう。ポタポタと落ちてくる、木々や草の露がちょっと収まってから。
そして僕たちは、お昼ご飯の後、採集カバンを肩にかけてホタルの沼地の森に出かけて行った。
気温の上がった午後、森は地面から大量の水蒸気がわき上がり、もわもわとした空気は湿度120パーセント。それほど暑くないのに、少し歩き続けるとじっとりと汗をかく。
「この島の夏はいつも湿度がとても高いから、天然の蒸し風呂状態でしょ。サウナなんていらないですよってトーベさんに言ったら、きろりと睨まれました。ほら彼女、ホタルの沼の近くに、サウナ小屋を作っていたから」
ネコはそう言って、クククと笑う。
トーベさんは近頃島にやって来た人で、森の中や、海の岩場の先の小島や、いろいろな所に小さな小屋を建てている。
それぞれの小屋が、キッチンだったり、寝室だったり、茶室だったり、思索室だったり。それぞれがそれぞれに違う目的のための小屋なのだという。
それはどれも草に埋もれた簡素な小さい家で、島のほかの家々と同じように周りの自然と溶け合い、いつか自然に朽ちていくのを待っているような風情。
「この島全体が、トーベさんの庭なのかもしれないね。サウナ小屋はもうできたのかしら」
僕がそう言うと、ネコはまた、クククと笑う。
ホタルの沼の周囲は草の堆積物の湿地で、くちゃっくちゃっと、靴底に草の大地が吸い付いてくる。
「ほらやっぱり、香木の匂いがしている。これはもしかしたら、沈香かしら」
ネコはうっとりと目を閉じている。僕には苔の香りしかしない。
ネコはやっぱり感覚が数倍も数十倍も鋭いのだ。おかげで僕は、ネコと一緒にいると僕には見えないものを感じることができる。
それは、言葉で表現してはいけないようなものであったり・・・
採集カバンの中にくちた木片を幾つか集めながら、僕たちはホタルの沼のほとりにやって来た。
「今日は本当に香木日和。森の中がとても素敵な匂い」
苔むした古木の深く沈んだ香りが、胸の奥にゆったり浸み込んできて、心がしーんと静かに安らいでくる。
沼のほとりに小さな小屋が立っている。
屋根がアヤメで葺いてあり、まだ新しい。出来たばかりなのだ。
そこには、誰の姿もなくて、窓から中を覗くと、刈り取ったいろいろな植物が仕分けされて置いてある。
「どうやらサウナ小屋にはならなかったみたい。でもこれって、薬草っぽいですよねえ。ハーブテントにするのかな」
そう言ってネコはまた、クククと笑った。
島の草原の中にはたくさんの薬草や香草があるのだ。
植物の匂いが強くなる夜には、この辺りにはおびただしい数のホタルが飛び交い、目も眩みそうな光の海になる。
「ここは星空もきれいだから、夜も素敵でしょうね。天の川もよく見えるでしょうし」
天の川がきれいな夏の夜。
今夜は、この小屋に泊っていこうかしら。
「トーベさんは、どこへ行ってしまったのだろう。早く帰って来ればいいのに」
ネコはそう言って、森の奥を、じっと見つめている。
森の中から、誰かがこちらを見ている気配がする。
「探しに、行ってみましょうか」
あいまいにそう言いながら僕たちは手をつなぐ。
森の中の気配が僕たちに囁く。
― 追いかけてもつかまらない。追い付てくるのを、待つしかない ー