島日和<ひょうたん島後記>

                 9-2020

世界中で、奇妙なものが流行っている。

口元を個性的に覆うマスクだ。
それは複雑な立体形だったり、美しい織物だったり。様々な素材や、奇抜な色と模様の物もある。
でも決して、顔全体を覆うものではなく、目元を飾るグラスのようなものでもない。
顔の下半分を覆って、言葉と息をカモフラージュするマスクだ。

人々は、男も女も、イスラム圏の女性のように目の周りにきつく化粧をして、眼光鋭く世界を凝視する。
けれど、見つめたものは言葉にならず、ただただひっそりと息を飲み込むばかり。

そしてそれから、ずいぶん長い時が過ぎたように思う。
僕はもう少しずつ、昔の日々は忘れてきていて、今のこの日々にも慣れてきているかもしれない。
暑い海辺の生活は脳ミソをゆるゆるに解きほぐして、おだやかで優しい日々を強要するし。

あの、そこら中を巻き込んだ、天使のように無邪気な口びるの日々はもう帰ってこないの?

あの頃、僕たちはつむじ風で、あたりかまわずそこら中で有頂天だった。
でも、あんなに自由で幸せな日々を僕たちはちゃんと認識していなかったし、大切にしなくてはなんて、思ってもいなかった。
・・・それでも、僕は今でも、有頂天のつむじ風で生きていくことはできると思う。
たとえ口元は固くこわばっていても。おさな心と、何よりも愛を優先する単純さを失わなければ・・・

けれど、僕たちはもう、少しずつ昔の日々は忘れた方がいいのかもしれない。
今なら、また今までとは全然違った、新しい日々を始められる気もするから。

僕はこの頃、ほんの少し地面から浮いてみたりもしている。
ほんの少し。3センチくらい。
その3センチは、気付く人もいるけれど、気が付かない人がほとんどで、気付いたとしても、島の人々は誰も、別に気にはしない。
そのようなことをしている人は、色々いるのだから。
島の人々は皆、何かしら自分だけの小さな秘密を持って、それをひっそり楽しんでいる。

ほんの3センチ、浮かんでみるということは、ほんの3センチ、自分が人間ではなくなるということだ。
その分だけ、また別の生き物でいられるような気がする。
例えば、昔、信号待ちをしていた僕たちの前を、キックスケーターに乗り、長い髪をなびかせて横切って行った天使のような。草原の真ん中で高くジャンプして、蝶をつかまえる子猫のような。
何かしら、とても柔らかく、空気に溶け込んで生きている生き物。

夏の終わりの海はとても眩しくて、様々な色の波形がモザイク模様になって揺れている。
僕は大きめの浮き輪に乗って、プカリプカリと浮かんで時を過ごす。
空は真っ青で、遠くの入道雲は真っ白。海岸の向こうの山の木々はキラキラと、緑が美しく輝いている。
涼しい風に吹かれて、もうどの位こうしているだろう。
ふと気が付くと、海には、僕と同じように浮き輪に乗ってぷかりぷかりと浮かんでいる島民たちが何人もいる。
みんな一人ずつ距離をとって、てんでんばらばらな方を向いているけれど、たいていの人は、ケイタイを持って誰かと夢中になって話をしているようだ。
皆の声は僕にはほとんど聞こえないけれど、言葉が、無数の小さな泡になって、空間にふわふわと立ち昇っていくのが見える。

深い空の高みに向かって、小さな言葉たちがひとすじひとすじ、キラキラと輝きながら、絡まり合って広がっていく。