島日和<ひょうたん島後記>

       9-2023   池田良


もう夏も終わりだというのに、まだ空気はもわもわと暑くて、台風が送り込む大量の水蒸気が島を包み込み、その暑い湯気の中で皆は声もなくひっそりと呼吸を繰り返す。

遥か南方の海上に渦を巻く台風の匂いがもうかなり強く漂っている。
僕は乾燥に弱くて、冬になると息をするのもつらくなある時もあり、湿度百パーセントの時は、まるでキノコか苔のようにうっとりと夢見心地になるのだが、いくらおしめりな日が好きと言っても限度というものがあるもの。
こんなにぐしゃぐしゃもわもわとした日々が続いては、水分を含み過ぎた体はどんよりと重く、足の先からぽたぽたと水滴も滴り落ち、歩くことさえ青息吐息。脳みそもじっとり浮腫んで何も考えられず、ただ茫然と座り込み、いくら瞬きを繰り返しても靄がかかったままの目玉が見る、いつもとは違うものが見えるいつもの風景をなすすべもなくじっと見続けるのみで、ひらひらと手のひらをひるがえしては、その甲に浮き上がる青ざめた血管の中の、水分の比率が多すぎる血液のかすかな赤が、すっかり薄くなって白く透ける皮膚の儚さに妙に合って、おぼろな切なさ。

「この夏があまりに暑かったから、もう十年くらいも年齢が進んでしまった感じがするわ」
そう言って双子の老婦人たちは、森の中の小さな家のテラスの椅子で、細かい皺を一面に刻んだレース編みのような手のひらをひらひらと木漏れ日にかざしている。
「もうこれからは、こんなに蒸し暑い日が秋になっても収まらないような年が続いていくのかしら。・・・やっぱり、あの海の光のせいも・・・」

それは、30年ほど前の夏の出来事。
もう何年も海岸に停泊しているクルーズ船のスピーカーから突然サイレンが鳴り響いて、大音量の放送が流れた。
「ただ今から、この沖合にショリ水を流します。これは、海水で何倍も何百倍も薄めたショリ水で、責任をもって、少しづつ少しづつ流しますので、安全なものです。ご安心ください」
ショリスイ? そういうものが、クルーズ船の中にたまり続けているらしいというウワサは島民の間にも広がっていたけれど、突然の排出スタートの放送は、誰も寝耳に水。
「何百倍に薄めようと、少しづつ少しづつ流そうと、結局は全部流すんだから毒の総量は変わらないんじゃないの」
そして、あれから30年たっても、まだまだ排出は続いている。少しづつ少しづつひっそりと。

あの時、僕たちは幾艘ものボートで海にこぎ出し、沖合のその排出地点を目指した。誰もが、不安と心配と好奇心を抑えられなかったから。
その日の海は、いつにも増して穏やかで夕暮れの微風も涼やかに、ようやく訪れた秋の気配が微かに感じられた。
青く澄んだ空に、秋風の形をした雲がゆっくりと優しく流れていく。懐かしい潮の香りと、子守唄の様な波のリズム。
海がこんなに気持ちのいい場所だったことをあらためて感じながら、僕はみんなと、不安心が渦巻くパレードに参加していた。ドンドンと遠くに太鼓の様な音が聞こえてくる。それともその音は、ドクンドクンと響く皆の心臓の音だったのか。

やがて沖合一キロメートルを過ぎた頃に、海の中にキラキラと輝く小さくまばゆい光が無数に湧き上がってきた。
それは潮の流れに乗って煌めく光の銀河となり、沖合の大海原へと広がって行く。
「これはまるで、あのクルーズ船のようだね。毎晩まぶしいくらいの電飾に輝いていたじゃない。船の中はもっとすごい明りの饗宴だったらしいよ」
誰かが僕の後ろでひっそりとそう言った。
夢のように美しい、光り輝くクルーズ船。
僕たちは遠くからそれを見るだけで心躍った。
そのあまりのまばゆさに、微かな恐怖心を、うっすら感じながらも。

そしてあの、心躍るまばゆい煌めきは、毒性副産物を蓄積していったのだ。
毎日、少しづつ、ひっそりと。
それはすべて、夢見る僕たちの、日々のため。
心地よく、きらびやかな、夢のような、日々のため。