矛盾がつくるミラクル――ラップってなんなのかシリーズ② ラップバトル編

 ①はこちら。ラップがイズム・リズム・ライムの3つの要素において同時にプレイする表現であり、ラップバトルはその3つのルールで競い合うスポーツであることを確認した。

ルールたちの相互干渉:それが矛盾するとき

 3つのルールは相互に干渉し、それはしばしば矛盾という形で現れる。ノリをよくしようとすると中身のないラップになったり、言いたいことを言ってると韻が踏めなくなったり、長すぎる韻がリズムを邪魔したり、という事象がしばしば起こるのである。わかりやすい例を見てみよう。

 この試合で最重視されているのは「リズム」だと断言してよいと思う。とかくリズムの質に重きが置かれていて、実際に二人ともすごいアプローチで音楽的な快感を突いてくる。韻は踏まれているが、どちらかというと韻そのものの破壊力に頼るというより、リズムの調子を整えるために添えられている印象が強い。意味内容については全編通じて「マジでなんの話?」である。

 こういうことになる理由は、とりあえず人間の能力の限界ということにしておく(ほんとはそういうことでもないと思うけど)。意味も完璧、音も完璧、韻も完璧という至高のバースが吐けるなら、誰しもそれを吐くだろう。しかしいま聞いたばっかりのビートに乗せて、いま戦うことが決まった相手に、即興でそんなバースを吐くことなんてできるはずはない。いや、そういう完璧さが分かりやすく不可能になるように、このスポーツには即興という条件が必要とされたのではないか。つまり、それこそが面白いところだから。

 矛盾し合う3つのルールに対して、限られたリソースの中で各プレイヤーがどのような解答を提出しているのか。それぞれの「答えの違い方」、その競合にラップバトルの面白さは存在していると思う。たとえばもうイズムは捨ててリズムに全振りする、というのが一つの選択肢で、先ほど例に挙げたONO-DとDOPEMANの二人はけっこう明確にそういう答えを出しているプレイヤーたちだ。もしくは韻の質を徹底して高め、そのためには多少音楽性を犠牲にすることもやむを得ないと捉える韻職人もいる。強烈な罵倒やメッセージのために、あえて韻はいっさい踏まないスタイルもハマれば強い。そういう芸風の特化というものを、ラップバトルはルール×3+即興性という何重にも課した制限によって明確にしているのだ。その解答=スタイルの幅広さから感じ取るのは、なんというか豊かさと呼んでいいシーンの性質である。次々と新しいスタイルが生まれてくるバトルシーンを眺めると、日本語にはまだまだ可能性がこんなにある、と実感させてくれる。そういうところが、ラップバトルの、ひいてはラップのよさだとわたしは思っている。

ルールたちの相互干渉:それが昇華されるとき

 もう一歩だけ踏み込みたい。ルールどうしの矛盾はときにミラクルをもたらす。制限がむしろバネとなって、奇跡的な表現が誕生するのである。

覗いてみたちくわの磯辺揚げ〜

 韻マン(帽子のほう)が口にしたこのフレーズは、ふつうの口喧嘩では絶対に出てこない。「韻が超固え(※)→二等辺三角形→イノセント・ガーデン→いてこますぞワレ→」という流れの、ライムにおける要請があったからこそ「ちくわの磯部揚げ」が出てきて、さらに「『ちくわの磯部揚げ』までのビートを埋めなければならないから」というリズムにおける要請があったからこそ「のぞいてみた」が出てきた……と考えていいと思う。システムの不条理から生まれたこの、意味不明なバグのようなフレーズは、その不明さのためにすごい破壊力を獲得しているのだと確信を持って言える(相手のTERUもめちゃくちゃ頭に残ったと見えて、次のバースで2回もちくわの磯部揚げに言及している)。「のぞいてみたちくわの磯部揚げ」は、ラップという制限まみれの表現だからこそ咲いた、奇形の花みたいなミラクルなのだ。

※余談。この「韻が超固え」は相手であるTERUを一躍有名にした「BAZOOKA!!! 第12回高校生ラップ選手権」の中で、TERUが吐いた代表的なライムのひとつである。こういう、「この相手だからこそ吐ける言葉」は、そのバースが即興であることを客にアピールするための重要なテクニックでもある。

まとめ

 文化としてのヒップホップには、まだ豊かとは言い難いところがあると思う。たとえば代表的な問題にジェンダーの不均衡がある。女性のラッパーは(特にラップバトルの界隈では)「フィメール」と括られ、まずはその観点から評価されることが多い。しばしば「メール」(……と、括られることはまったくない)ラッパーは「フィメール」ラッパーが女性であることを材料にして攻撃を行い、「フィメール」ラッパーはその壁がある状況からラップを始めなければならない。もちろんそれを批判したり、「マイクを持てば誰もが対等」という価値観に基づいて偏見を切って捨てたりするラッパーも多いが、全体としてヒップホップシーンのジェンダー観はクソだと思う。

 わたしは、いやヒップホップの本来的な教義って逆だろ、と常々考えている。抑圧から自由になること。社会が個人に押し付ける不条理に、物理的な暴力に拠らず言葉の暴力だけで立ち向かうこと。既成概念の奴隷にならないために考え続けること。そういうことがヒップホップだといろんなラッパーに教わってきた。ラップのスタイルの多様性、「こういうのがラップである」という観念に縛られない自由なスタイルが次々に生まれ来る、その土壌の豊かさはまさにそういう教義の開花ではないか。「お前みたいなやつはヒップホップとして認めない」という圧力に対して「うるせえ黙れ」と返すことが是として共有されている場だからこそ、新しいスタイルはのびやかに育つのだ。「うるせえ黙れ」が何故か是とされない状況があるのなら、それは何かがヒップホップの邪魔をしている──社会が表現の邪魔をしているのに他ならないのではないか。
 表現におけるスタイルの自由さ、それを許容する場の豊かさ。これをひたすら純粋に、言わば敬虔に希求するその先に、さらにぶちあがるヒップホップがあるのだと、わたしはけっこう確信を持って言えるし、それが数々の魅力的なラッパーによって実現される、されなければヒップホップじゃない、と思っている。

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