青松輝『4』評
◆最近、話し方が先輩たちそっくりに変わってきた職場の新卒会社員
◆FUNKY MONKEY BABYSの楽曲『LOVE SONG』の歌詞(抜粋)
◆匿名掲示板(VIP)に書き込まれた、別の板(なんJ)における言葉の使い方に関する批判
会社員に、FUNKY MONKEY BABYSに、なんJ民に特有の問題ではない。
発するのが何者であろうとわたしたちの言葉は不自由であり、何かを話しているようで何も話せていない事態が頻繁に起こる。言葉はわたしたちをわたしたちではないものにしてしまい、言いたかったことを言いたかったことではないものにしてしまう。
言葉は、言いたいことを言うためのツールではないのかもしれない。爪楊枝で金閣寺を作るみたいな、そもそも無理ゲーのところをなんとかやってるもどかしさが常にそこには伴う。
でも、
どうしても言わなければならないことが初夏の晩夏のプール・サイドに
わたしたちには時折、どうしても言わなければならないことが生まれる。手元に爪楊枝しかない状況にあって、どうしても作らなくてはならない金閣寺が心に浮かぶことがある。青松輝の『4』は、誠実に、爪楊枝で金閣寺を作ろうとしていると思った。
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狂ってる?それ、褒め言葉ね。わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン
短歌の得意技のひとつに、言葉にアウェー戦をさせるというものがある。
本来あるべき場所にいたら心地よく消化されるはずの言葉を、その場所から連れ出して新たな文脈に載せ替えてしまうというものだ。『4』ではこの作戦がしばしば採られる。
〈狂ってる?それ、褒め言葉ね。〉は有名なコピペが元ネタ。本来このフレーズは、書き込んだ主体を愛憎込めて嘲笑すればよいというルールで鑑賞されている。その読み筋はいわば、このフレーズにとってのホーム戦だ。観客は誰しもが同じ様式を身に着けて、同じようなおもしろさを味わえばよい。そのなかで、人間は言葉の指示通りに生きている。
しかしフレーズが短歌のなかに切り取られると、途端にアウェー戦が始まる。元々のルールや文脈から引き離されて、とはいえ元々のルールや文脈をしのばせる存在感で、〈わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン〉という見知らぬチームメイトとの組み合わせにおいて、フレーズは読者に提示される。
このときフレーズは、本来の用途を離れて寺院の一部にされている爪楊枝のように、慣れない環境でのプレーを要求されている。そして受け手となる人間もまた、ルールが不明瞭な、誰の指示も聞こえてこない空間で、この歌から何かを感じ取ることを要求されている。
愛のWAVE 光のFAKE どうしよう、とりあえず、生きていてもらってもいいですか?
・はい・いいえ・どちらでもない・しっかりと気持ちを汲み取りたい・盗みたい
神曲……とへらへらしてたら僕の部屋に降臨するほんとうの神さま
詩については一般にまだ誤解が多くて、「誰かのものではない、自分の言葉」で紡ぐものだと思っている人が多いと思う。しかし理論上、自分だけの言葉というのは存在しない。それは自分にとってしか流通していない金銭のようなもので、あったとしても自分で眺める以上の価値はない。(この理由によって言葉は不自由だし、同じ理由によって言葉はどんどん不自由になっていく)
どうして「誰かのものではない、自分の言葉」が求められるのかというと、その言葉であらわしたいものがしばしば「誰かのものではない、自分の感情/感覚/意識」だからだろう。「自分の」が何を意味するかは要検討だけど、大枠でくくれば僕も、詩が「誰かのものではない、自分の感情/感覚/意識」を語るべきだということに賛成したい。少なくとも詩は、「ここにしかないもの」にまつわる語りであるべきだ。
とすれば、詩は「どこにでもあるもの」を使って「ここにしかないもの」を語ろうとしていることになる。というか、「ここにしかないもの」を語ろうとするときに唯一使えるものが、「どこにでもあるもの」くらいしかないという不利な状況が、生まれながらに定まっている。
僕は、『4』がこのことを非常に強い前提に置いていると思う。だから『4』の短歌は変則的だし、あの手この手を使いまくるし、普段耳にしない単語や言い回しを好んで用いるし、言葉にアウェー戦をさせる。どれも単純に楽しいからというだけの理由でやっているとは思わない。先験的に与えられた不利な状況に対して、必然性のある挑戦だと思う。
スイセンの中にある(あっ、好きな人、毎日素敵でありがとう)毒
この歌にはそのメンタリティがもっとも美しく、もっとも的確にあらわれている。
括弧のなかで語られている感覚はとても現代的だ。誰かが毎日素敵でいてくれることに謝意を述べるモチベーションは、言ってみれば推しを思う気持ちに近い。そしてそのことを言葉にしようとするとき、たとえばツイートしようとするとき、わたしたちはまさにこの語りと同じように表現するだろう。けれど、言葉ほどわたしたちの感情は単純ではない。ここにある感情がただしく伝わるようあらわすにあたって、この語り単体はほとんど意味をなさない。
そこでこの歌は、このフレーズを〈スイセンの中にある〉〈毒〉に閉じ込めている。これによってフレーズは、スイセンの花が持つ美しさと、毒が持つ死の気配を獲得する。前者は推しを思う気持ちのひたむきさを増幅させ、後者は同じ気持ちのおぞましさを増幅させる。こうしてようやく、わたしたちは「推しを思う気持ち」をちゃんと、つまり「いわゆるそういう気持ち」ではなく「この、推しを思う気持ち」として受け取ることができる。
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『4』にはほかにもたくさんのおもしろい短歌や短歌連作が収められている。表紙がほぼ青一色というのもかっこいい。絵文字1文字に象徴させられるのもちょっとメタっぽくて楽しい。
すでに3刷が決まっているということだけど、今後さらに多くの人に読まれるといいなと思う。
※短歌の引用はすべて『4』(青松輝、ナナロク社)より
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