天の川 星の海

 夜のとばりが降りてなお、冷めやらぬ初夏の風。ところどころ修理の行き届いていない壁や窓の隙間から、それが吹き込んで肌をしっとりと撫でていく。
 オルカは夜風を肩で切るようにしながら、割れた常夜灯の魔法ガラスの代わりに星明りを頼りとして、誰もいない廊下を歩いていた。
 すっかり通いなれたある一室の前で止まる。最低限必要な開閉ができるまでには直された扉を、その馬鹿力で壊さないよう――それと近隣の戦闘員達を起こさないよう、いつもの彼からは考えられないほどの微力で数度叩いた。そして、
 「リンリン、俺だ。起きてるか」
これまたいつものオルカらしからぬ、低い小声で部屋の主に呼びかける。
 しばらくすると、キィ、とドアノブを回す音が聞こえた。
 「しゃっちー? どうしたの~?」
 扉を開けながら現れたのは、この部屋の主にしてオルカの恋人、凛鈴だ。いつもは三つ編みに結っている金髪を下ろし、寝間着に着替えている。オルカは彼女が起きていたことにほっとして、だがまだ油断せず視線を合わせた。
 「悪いな、もう寝るところか」
 「ううん。もうちょっとなら大丈夫だよ~」
 「そうか、ならよかった」
 オルカの心臓はいつになく速く脈打っていた。うんと小さい悪ガキだった頃を思い出す。まだイルカが赤ん坊だった頃、イタズラばかりして両親にこっぴどく愛あるお叱りを受けたものだ。あの時の、イタズラを仕掛けている時みたいな高揚感が、今ここにある。
 オルカは二ッと、白い歯を見せて笑った。
 「リンリン、少し俺に付き合ってくれんか」

 「わぁ……!」
 夜の機関を二人で抜け出し、オルカが転身した巨大なシャチに凛鈴を乗せてから数十分後。
 シャチは、満天の星が輝く夏の夜空の中を真っ直ぐ泳いで渡った。上を見上げれば金銀の星、下を見下ろせば町の灯り。光と灯りの合間を裁ちばさみでスッと切るように、氷の刃を持ったシャチは進んでいく。氷のヒレのせいか、熱帯夜に近い外気温が冷えて感じる。
 オルカは自分の背に乗っている凛鈴が、あちこちを見て声を上げるのを聞いた。どうやら夜の散歩を気に入ってもらえたらしい。
 行き先は出発前に伝えてある。元々隠しごとには向いていない性分だ。突然誘う形になったが、それでも彼女は笑顔でついてきてくれた。凛鈴の性格もあるだろうし、いつも誘っている場所だから慣れているのかもしれない。唯一いつもと違うのは、そこを訪れる時間帯だ。
 だいたいは朝か昼間、視界がはっきりしている時間帯に訪れるので、目的地はその青さを見て察することができる。だが、今は夜。濃紺の空の中でそこを感じられるのは、風の匂いが変わってからだ。
 そうこうしているうちに、その匂いの変化が始まる。下方から昇る潮の香。耳に届き始める、波の寄せる音。
 シャチは海に到着したとわかると、ふわりと高度を下げた。
 波打ち際に腹をつけてから転身を解く。シャチの背に乗っていた分重力に従って落ちてきた凛鈴を、オルカは両腕で抱き留めた。凛鈴がオルカの首に手を回す。
「しゃっちー、今日は星がすごく綺麗だねえ~!」
 「おう。晴れてよかったな」
 「お昼はあんなに暑かったのに、夜だと晴れてても涼しいねえ」
 「まったくだ。一日中このくらい涼しくてもよかろうにな」
凛鈴の背中と膝の下に腕を差し込んで抱えたまま、オルカは砂浜を歩く。凛鈴が身体の重みをオルカに預けてくれるのがわかった。
 「にゃは~ん。しゃっちー、珍しいねえ。こんな夜にお出かけのお誘いしてくれるなんて。いつも朝一番とか、お昼に行くもんね~」
 「いつもはそりゃあな。でも、今日は夜がよかったんだ」
 波がオルカの足元を濡らし、引いていく。オルカは波を追い、ゆっくりと海水に踏み込んだ。抱き上げている凛鈴を濡らさないように、鍛えた体幹と足の筋力で波の引力に抗う。濃い潮の匂いが二人を包んだ。
 「前に夜の海で泳いだ時に、ふと見上げたら星が綺麗だったんだ。海の周りには町の灯りも何もないから、星の光だけがいっぱいでな。俺、夜の海も結構好きなんだ」
 「だから、連れて来てくれたの~?」
 「そうだ。お前にも見せたくてな」
 膝まで浸かった海の水は、揺蕩う音を響かせる。オルカも凛鈴も、二人で上を見上げる。
 窓ガラスにつく雨の雫より、鈴生りになった木の実より、もっともっと数多の光の点々が、夏の天幕を燦然と彩っている。
 オルカは星を見上げたまま口を開いた。ここには二人しかいない。だから声の大きさもいつも通りだ。
 「なあ、凛鈴。東の国の、タナバタって話、知ってるか」
 「ん~? 何だっけ~」
 「俺も聞いた話だから、詳しいところはよく覚えとらん。でも、あの天に流れる星の川の両岸には、離れ離れの恋人がいるそうだ。年に一度、鳥に橋渡ししてもらわんと会えんのだと」
 「そうなの? かわいそうだねえ」
 「で、その橋渡ししてもらえる日が……しまった、今何時だ? 今日か明日らしい」
 そこまで話すと、凛鈴が首をこちらに向ける気配がした。
 「今日か明日? 夜が明けたら、あたしの誕生日と同じだあ」
 「そうだ。だから俺でもこの話を覚えてるんだ」
 オルカも視線を凛鈴の方へ向けて言う。夜の暗さで判然としないが、それでもオルカは凛鈴と目が合っていることを確信した。
 「俺なら、鳥になんぞ頼らんでも自分で泳いでお前に会いに行く。星の川でも、世界の端から端まででも」
 「……うん」
 凛鈴の声が小さくなった。ちょっと照れているらしい。こういうところが、彼女の可愛らしくて愛しいところだ。
 オルカは、凛鈴をしっかり抱え直す。
 「リンリン。知ってると思うが、俺はお前を愛してる。お前に感謝している。俺についてきてくれるところが、俺を頼りにしてくれるところが、このオルカ・マリンスノーを奮い立たせてくれるんだ」
 一度言葉を切る。気配と息遣いで彼女の顔と唇を察し、そこに口づけた。頬に感じる熱は、彼女のものが空気を介して伝わっているのか、元より自分自身のものか。
 わずかに唇を離してから、その動きで唇が触れ合う距離のまま囁いた。
 「……機関が壊れた時には肝が冷えた。愛しいお前までいなくなったら、俺はもうどうしようもないんだ。リンリン、わかるか」
 「……しゃっちー」
 「ずっとあれから考えてるんだ。もっと強くなって、お前を守っていきたいと。それから、お前に今よりもっと、ずっと俺のそばにいてほしいと」
 ぎゅう、と腕の力が強くなってしまう。あまり力を込めると凛鈴を痛めてしまうことはわかっているのに。
 「もう俺は失くさない。失くしたくない。お前に、もっと近くにいてほしいんだ」
 潮騒が聞こえる。夜風が二人を撫でていく。夏の海の温もりが二人を囲む。
 オルカは顔を離して、凛鈴の瞳を真っ直ぐ見つめる。蒼と翠の視線が交わり、絡み合う。

 「リンリン、誕生日おめでとう。俺と、結婚してほしい」

 その時、凛鈴の瞳にだけ、オルカの右耳のピアスが金色に輝いた。

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