海中にて

 今まで空だと思って見上げていた空間は、人工の太陽によって照らされていた。突き抜けるように青くて、層によって淀んでいたり澄んでいたりの差はあれど空気は軽くて、何より明るかった。
 だからテッカは知らなかった。空だと思っていた空間の向こう側――新都心の外殻シェルターの向こう側の海の中が、黒くて重くて、暗いことを。
 新しいテッカドンの腕は、以前のものとは違って四本とも同時に動かせるようになっていた。四つの腕で海水の塊をかき分け、ノアに貼りつくEBEを引き剥がす。上の左腕で頭部を掴んだまま、下の左腕で腹部に一撃。一瞬怯んだその隙に、頭部を離して連続で突く。そうして敵を動かなくさせるまでの、これら一連の動作ひとつひとつが、とんでもなく重く感じる。
 一体を沈めただけで吹き出す汗を、テッカは戦闘服の肩口でぐいと拭った。
 「ッはァ……! キツか……」
 『大丈夫か』
 隣でミライカが自分に視線を投げる気配がする。テッカは前を向いたままへらりと唇を持ち上げた。
 「海がねえ……ばり重か……。全然パンチが入らん。力ば目いっぱい込めんと、ふわっふわすると。ばってん、体が重おて力が入らん」
 これまでテッカが経験してきたのは海上の空中戦で、当時は拳を重力に乗せて戦うことができた。しかしここは無重力に近い水の中、しかも水圧で身体が潰されそうなほどの負荷がかかる深海。テッカの普段の戦い方と相性の悪い戦場というわけだ。
 だが、それでもEBEはノアを目指して降ってくる。
 『しっかりしな。ここでへばったらヤツらの思うつぼだよ』
 ミライカの声を聞き、テッカは汗でずり落ちたサングラスを掛け直した。
 「うん。ありがと、ミイちゃん」
 再び操縦桿を握る。ノアの甲板を蹴って上がり、目の前のEBEに組み付く。
 ごっ
 「ぅぐ……ッ」
 腹に衝撃が走った。反射的に下右腕で腹の前のものを掴む、どうやら敵の脚部らしい。EBEが距離を取ろうと引っ込めかける脚を、テッカは逆に引っ張った。
 「ふん、ぬ!」
 ぐるりと体を回転させて、EBEを下に、自分を上に。出力を上げて無理やり自由落下のそれに近い速度を作り、ノアの甲板に叩きつけた。動きが停まった刹那で上腕二本を振り上げ、顔面と腹部を貫く。穴の開いた敵の身体の塊を放ると、それは甲板からゆらりと落ちていった。
 敵が再浮上しないか確認するため、レーダー反応とカメラ上の視界を見る。すると、
 「ん?」
レーダーは先ほどの相手ではなく、新しいアトランティスの出撃反応を拾った。カメラで反応のあった方を向く。一機、二機、三機……いずれも見慣れた赤い機体――第一大隊の機体ではない。かと言って、青い第二大隊でも紫色の第四大隊でもない。あまり戦闘中に見かけることのなかったアトランティス達は、その身に緑色を纏っていた。テッカはハッと目を見開く。
 「第三大隊!」
 第三大隊は主にオペレーションや機体整備を担当するがゆえ、前線に出ることはほとんどない。しかし今は次々に緑色の機体がハッチから現れ、ノアの艦体に付いていく。彼らが戦闘中にわざわざ現れたということは、それだけ緊急性の高い整備が必要ということだろう。
 ミライカがかすかに眉を顰めた。
 『まずいね、ノアがやられてるみたいだ』
 「っ、もっと早う倒してかんと」
 海の重圧に負けて鈍臭くなっている場合ではない。テッカは甲板から足場のない海中に跳び、ノアごと第三大隊の誰かを追うEBEを後ろから掴んだ。下の両腕で首を絞め、上の両腕で頭を抱える。思い切り捩じると、嫌な音がしてEBEの頭がもげた。
 「ふぅ……。腕が四本とも動くようなってよかった」
 不利な戦況には変わらないにしろ、新しいテッカドンの機体性能が上がっていることは幸いだった。四つの腕を絡ませないよう操縦に神経を集中させなければならないが、それでも以前よりずっと戦いやすかった。きっと前の鈍重な武器腕だったら、自重で沈んでいたかもしれない。
 モニターに映る上腕はいつものテッカドンの機体と同じ、煤のような黒と第一大隊の赤色をしている。対する新しい下の腕は、第一大隊の赤色に加えてわずかにくすんだ藤色をしていた。この藤色を、テッカは見たことがある。誰あろうミライカの、かつてのアトランティスの随所にあった色だった。この新しい腕もテッカドンの機体性能も、ミライカが――亡くなった人間の魂がアトランティスに搭乗した影響なのだろうか。
 「……。」
 テッカは数秒、EBEの屍を投げ捨てた四つの掌を見つめる。が、すぐさまレーダーからアラート音が鳴って我に返った。
 「次? どこたい」
 『いや……待ちな。何か変だ』
 あっち、とミライカが指した方向を見る。アトランティスが一機、ノアの出撃口から放り出されたようにその付近で漂っていた。隊色は暗くてよく見えない。奇妙にもそのアトランティスは飛行形態になるでもなく戦闘の構えも取らず、ぴくりとも動かなかった。
 「何……誰や、あれ」
 通信を取ろうとしてみるが、返ってきたのはエラー表示だ。相手アトランティスが通信に反応しない。そうこうしているうちに新たなEBE達が向かってくる。
 『来るよ!』
 「! っく」
 襲い掛かってきたEBEの鎌のような腕を左半身を前にして受け流し、背後に回って肘鉄を叩き込む。敵の身を引きちぎって対処し終え、再びエラーのアトランティスがいた方を見れば、EBE達が団子のように群がっていた。
 反射で下方に進もうとするテッカを、しかし管制室からオペレーターが止める。
 『当該機体はすでに戦闘不能です』
 「ばってん!」
 『ノアの損傷率も著しく上がっています。第三大隊が修復に当たっていますが、このままでは避難完了前に沈没する恐れもあります。このままノアの防衛を続けてください』
 「……ッ」
 テッカは唇を噛んだ。大きく肩を上げて息を吸い、ふーっと太く長く吐く。
 「……了解!」
まるで自棄になったような荒げ方で返答すると、テッカは踵を返して上に進んだ。

 ノアに先駆けてEBEを振り払いながら浮上を続けて、何時間が経っただろうか。これまでは母艦に海上まで連れて行ってもらっていたからあまり感覚を捉えていなかったが、アトランティス一機で水圧に抗い上を目指す進行は、それだけで体力を消耗することがわかった。ノアが海上に出るのを待つよりも、ずっと長い時間戦っているような気がする。
 「はーッ……ハァーッ」
 テッカは思い切り頭を振り、汗で鼻っ柱にひっついた前髪を剥がす。上半身も足も汗に濡れ、戦闘服がへばりついていた。両手は痺れ切って感覚がなく、目視していないと操縦桿を握っているかどうか自分でも判断できない。
 ――しんどか。
 海を昇るにつれて水圧はだんだんとマシになってきたものの、それでも戦いにくい状況は変わらない。EBE一体を深みに捨てるまで時間がかかるし、それが終わったと思うと次の敵が降ってくる。倒しても倒しても、遠くの海面から降ってくるのだ。水の重圧が減った分、いやそれ以上に疲労で身体が重く感じる。
 戦えば戦うほどしんどくなる。打ち勝てば打ち勝つほど、次の戦いがつらくなる。
 ――やけん、ケンカは、嫌いったい……。
 テッカは久しぶりにそれを意識した。元々喧嘩や争いが――否、正確には、喧嘩や争いで生まれるしんどさだとか、辛さだとかが嫌なのだ。
 ――手ェ、痛かなあ。息、まだ落ち着かん。ずっと苦しか。あっちこっちEBEにやられたとこも痛か。次、上手く勝てるかわからん。
 テッカの脳裏を勝てなかったパターンのイメージが掠める。思うように動かなくなった腕をEBEが捕らえ、この首筋に牙を立てる。先ほどの誰かのようにEBEがテッカドンに群がって、奴らごと暗く重たい水の底に沈んでゆく……。
確かに襲われてすぐは今より痛かろう。死の間際は今より苦しかろう。

 だが、いっそその間際を超えてしまえば、痛いのも苦しいのもなくなるかもしれない――

 『テッカ』
 はっとテッカが顔を上げると、ミライカがマゼンタ色の瞳をすうっと細めて、唇を引き結んでいた。
 その口元を見た瞬間、体が楽になる妄想からテッカの感覚が帰ってきた。
 ――いかん。逃げても負けてもいかん。ミイちゃんがおる。
 「ミイちゃん」
 笑って。
 そう言おうとして、
 ゴォッ
海を裂いて突撃するEBEの轟音に阻まれた。
 「ぐ!」
 正面から右に機体を逸らし、左の上腕で掴み止める。すると掴んでいた影からもう一体が現れた。逸らした機体をそのまま回転させてEBE同士をぶつける。テッカドンの手は瞬時に振り解かれ、今度は左右両側から向かってきた。
 「せからしか!」
 テッカは機体を捻って左半身を前に出し、出力を上げて後退する。二本ある左腕を伸ばし、追ってくる敵の一体を下の左腕で掴んだ。もう一体が右に回り込もうとするのを、テッカは同じく体を捩じり続けて阻止する。上の左腕で捕まえようとするが、EBEも一進一退、ついにというところですり抜けてゆく。
 『テッカ! 下!』
 するとミライカの声が響くや否や、左の脇腹に衝撃が走る。掴んでいたEBEが鋭い爪をテッカドンのあばらの辺りに突き立ててきていた。
 「ぅっぎ……!」
 脂汗がぶわっと浮かぶテッカの額。掴んでいた手を離さなかったのは意地と奇跡の賜物だ。焼けるような痛みに歯を食いしばると、鉄の味が口の中に広がった。
 『お前、何してんだい! 右を使いな、損傷してるわけじゃないだろ!』
 「ちょ……っと、手ェが……えっと……」
 咄嗟に言い訳しようとするが、元来嘘を吐くのが苦手な上に、痛みで頭が回らないテッカ。ちらりと右を見ると、ミライカの目は厳しい色をしていた。
 『ごまかそうったってそうはいかないよ。お前、ずっと右を……こっちを庇ってるね』
 「………。」
 『言っただろ、死んでる奴を守ったってしょうがないって。あたしはここにいるけど、いないんだ。だから、もうやめな』
 「しゃあしか!!」
 ずきりと胸が痛んで、頭に血が昇って、テッカは叫んだ。コクピットの内部がビリビリ震える。力まかせにEBEを投げつけ、二体まとめて左の拳二つを叩き込む。その勢いのまま、テッカは吠えた。
 「さっきの見たとやろ! アトランティスがEBEにやられたやつ! あれ見たっちゃ庇うに決まっとおとやろ、あの機体ば守れんかったんやけん!!」
 『は? 何言って……』
 次の敵が迫ってくる。テッカは戦法も何も考えず、ただただ拳を突き出す。
 「また守れんかった、また誰か死んだ、ほんなこつ嫌だ! 誰かが死んだら悲しかし、悔しかし、何で死んだ、何で死なせたって怒りたくなるとよ! ワシはケンカなんて嫌いったい、しんどかのは嫌ったい、ばってん誰かが死んでしんどおなるのはもっと嫌ったい!!」
 戦いながら、叫びながら、戦う。自分が何を言っているのか、テッカにもよくわからない。頭が熱い、体が熱い、痛い、苦しい、しんどい。
 「痛かっちゃけどしんどかっちゃけど嫌っちゃけど! ばってんワシ今怒っとお! もう誰も死んでほしくなか! アンタば二回も死なせとおなか! 約束ば守ってくれたアンタば死なせたっちゃ、ワシやって生きるんも戦うんもしんどかよ!!」
 赤と黒の上腕でEBEを握り潰す。頭が潰えるが、しかしテッカドンの胸部に向けられた爪の動きは止まらなかった。ちょうどテッカの肋骨の左側、心の臓の真上。
 ズグリ、と組織に刺さる感触がする。
 『……バカだね』
 咆哮が途切れて項垂れるテッカの耳に、静かなミライカの声が響いた。襲い来ると覚悟していた痛みはまだ来ない。
 目を開けると、いつの間にか藤色と赤色の下腕がブレードを抜いていて、EBEより寸の間速く刃を突き立てていた。
 『そんならなおさら、お前が生きなきゃだろ。お前が死んだら、このアトランティスごとあたしも海の底さね』
 テッカが肩を上下しながらミライカを見る。今度は、彼女は微笑んでいた。
 『あたしは、お前に庇われるほどヤワじゃないよ。なんせ体がないんだから』
 「………。」
 テッカドンがブレードを引き抜いた。沈みゆくEBEの身体を暗い海の深みが飲み込む。すると、はるか遠くの上の方から、かすかに光が揺らめいた。
 『そんでも守りたいとか言うんなら、お前は全力をぶちかませばいい』
 ミライカの髪が煌めく。わずかな光を受けてだろうか。
 真正面から彼女を見たテッカは、
 ――やっぱ、ミイちゃん、きれいったい。
 眩しくなって、目を細めた。胸はまだざわざわするし、頭も顔も熱いし、まだ荒い呼吸が収まらない。痛いし苦しいし、しんどい。
 それでも、生きてその目でミライカを見るのを、やめようとは思わない。
 「……わかった」
 テッカは掠れた声で言った。考える前に口が動いて、だけど嘘の気持ちはなかったから、動かせる範囲でゆっくりと頷いた。
ミライカはコクピットの天井の方を指差す。
 『ほら。もうすぐ海の上だよ』
 「うん。……ミイちゃん、知っとお?」
 『何を』
 何度目になるであろう操縦桿を握り直し、テッカはテッカドンを上に進める。EBEの群れの隙間から、人工ではない光が差す。

 「空ってね、本物も青かとよ」

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