あなたがいない日

 マンションの屋上でマサギとイオが会話してから、およそ丸24時間後。
 指揮者のガーネットはちょうどその時刻、自宅であるマンションの入り口に差し掛かっていた。夜のとばりが降りて既にしばらく経っており、辺りは静寂に包まれている。――と、肩に乗っていたモクローのラテが、
 もふ?
エントランスに佇む人影と橙色の明かりに気づいた。
 「どうしたんだい、ラテ」
 ガーネットがラテに声を掛けるのと同時に、人影がこちらに気づいて近寄ってきた。人影はマサギで、橙色の明かりはヒトカゲのりりんのしっぽの炎だった。
 「エルダーさん!」
  かげ~
 「おや、マサギさん。こんばんは、今朝ぶりですね」
 そう、ガーネットとマサギが会うのは、今日2度目のことだった。今朝早くから出かける用事のあったガーネットは、まさにこのエントランスで、マサギに出くわしたのだ。
 その時マサギは、ガーネットにある質問をして――
 「エルダーさん、管理人さんに会いませんでしたか」
――また今回も、同じ質問をしてきた。
 「いいえ、残念ですが」
 「……そっすか」
 ガーネットが今朝と同じ答えを返すと、マサギも今朝と同じく、帽子を被りなおして応じる。いや、マサギは今朝よりも若干肩が下がっていた。
 「マサギさん、今日一日管理人さんを探していたんですか?」
 「いえ……昼間は仕事でした。ただ……少し早引きさしてもらったんすけど」
 マサギの言葉に、やや面食らうガーネット。ポケモンレンジャーの業務を早退してまでマンションの管理人を探しているのは、ただごとと言えないのではないか。
 「管理人さんに何かあったんですか? それとも、重要な用事とか」
 「……何と言ったらいいのか……」
 マサギは答えを言いよどんだ。どちらかと言えば、管理人――イオに何かあったという方が、きっと正しい。しかしそう言い切れないのは、彼女に『何か』の有無をはぐらかされてしまったからだ。
 昨夜、マサギがトレーニング後に屋上へ向かうと、そこにイオがいた。どうかしたのか声を掛けても、彼女は曖昧な返事をするだけだった。
 だがマサギの目には、イオの笑顔の向こう、瞳の奥にいつもと違う色が映っているように見えたのだ。それは、きっとレンジャーである自分だから見えたのかもしれない色――誰かに助けを求める者の目の色だった。
 しかし、その色は一瞬で隠されてしまった。自分にもたれかかってきた華奢な肩があんなに震えていたのに、絞り出すような声があんなにか細かったのに――最後には、イオはぱっと体を離し、
 『…ごめんなさい、十文字さん』
 それだけ言って、不安げな色も震えも全て隠してしまった。
 マサギはガーネットの前で、帽子を目深に被る。
 「……俺、管理人さんに聞きたいことがあるんす」
 「聞きたいこと?」
 「うす。何かあったのかもそうっすけど……何で昨日、俺に謝ったんだろうって」
 それを聞きたいのも確かだが、マサギにとっては、本当はそんなことは二の次だ。昨夜、イオが自分の傍らから逃げるように去ってしまってから、どうにも胸がざわついている。
 あんなに不安げな表情を滲ませるイオを、マサギは初めて見た。彼女は何か、あの細い腕では抱えきれないような重大なものを、一人で抱えているのではないかと思う。それならば、自分にも抱えるのを手伝わせてほしい――彼女の助けになりたい。しかし、イオは離れ、姿を消してしまった。
 「俺、朝に管理人さんの部屋にお邪魔したんす。そしたら、知らないおばあさんが出てきて。管理人さんは用事でしばらく出掛けてるって言うんすけど……でも、そこにシオンが……管理人さんのナエトルがいたんす。いつも首につけてるはずの鈴を外して」
 マサギはいつになくしゃべり続けた。ガーネットは静かに聞いている。
 「前に、マンションの上空に穴が開いたことがあったじゃないすか。あれから管理人さん、何となくそわそわっていうか、ちょっと緊張してた気がして。今回いなくなったのと関係あるかはわかんないすけど、でも、あの子がずっと何か思い詰めてたのは確かです。俺、昨夜あの子と話をしたのに、結局何もわからんくて……こんなことになるなら――!」
 「マサギさん」
 マンションに響き始めたマサギの声は、ガーネットの一言でシンと静まった。マサギはハッと我に返り、ガーネットに帽子を脱いで頭を下げる。
 「……すんません」
 「いえ、大丈夫です。マサギさんが管理人さんを心配しているのはわかりますが、まずは落ち着きましょう」
 ガーネットがにこりと笑うと、ラテがパタパタとマサギの方に飛び移ってきた。もふもふと柔らかい羽毛が、火傷痕のない左頬いっぱいに触れる。
 「管理人さんのご事情は私にもわかりませんが、代行の方が何かご存知のようなのでしたら、行方を心配する必要はないでしょう。私たちまで動揺してしまうと、管理人さんが心配してしまいます。あまり心を砕かせたくはないですよね」
 「………」
 マサギは黙ってうなずいた。ガーネットが静かに続ける。
 「私たちは管理人さんが戻ってくるまで、いつも通り待っていましょう。彼女が帰って来た時は、『お帰りなさい』と言ってあげませんか。いつも私たちが彼女に言われているように」
 「……うす」
 マサギが帽子を取って軽く会釈する。ラテは「ほー」と鳴いてガーネットの肩に戻った。
 「エルダーさん、すんませんでした。こんなところで呼び止めて」
 「いえいえ、いいんですよ。そうだ、よければ私の部屋でコーヒーでもいかがですか」
 ガーネットの提案に、しかしマサギは静かに首を振った。
 「あざす、お気持ちだけ貰います。ちょっと、外で頭冷やします」
 「そうですか。お気をつけて」
 「うす」
 マサギがもう一度会釈すると、ガーネットは一礼を返し、ラテとともにエレベーターへ向かった。彼を見送ってから、マサギはりりんを連れて外に出る。
 「りきち」
 上空を仰いでリザードンの名を呼ぶと、彼はマンションの屋上の向こうからすぐさま飛んできた。りきちはマサギがマンションに戻ってから、ずっと屋上の周りを飛んでいたのだ。それはまた中空に穴が開かないかを見張ってもらうためでもあり、上空からイオを探してもらうためでもあった。
 「悪かったな、ずっと周りを見てもらってて。今日はもう休め。りりんも」
 ヴァウ…
 かげ
 2つのモンスターボールに手持ちのポケモン達を戻すマサギ。ベルトにボールを戻すと、そこでふと思い出し、レンジャーのジャケットの胸ポケットを開けた。ポケットから出したのは、以前自分の誕生日にイオから貰った、セラフィナイトの石飾りである。マサギはお守り代わりとして、ずっと胸ポケットに入れているのだ。
 マサギは石を片手で包み、ぎゅっと握りしめる。この石を贈ってくれた少女の顔を思い浮かべると、胸のざわつきは収まらない。だが、彼女がどこにいるかわからない今、マサギにはどうすることもできなかった。
 ――早くここに戻ってきてくださいね。
 石を包んだ拳に額を当てる。しばらくそうした後、マサギは石を戻して道に歩き出し、そのまま走り出した。夜風が彼の体を、頬を、冷ましていく。
 どこへともなく、マサギは初秋の夜の中を駆け抜けていった。

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