管弦楽
冬のとある晩。
マサギにしては珍しく、この遅い時間帯にマンションの自室から出てきた。彼の着ているのは、レンジャーの制服でも休日スタイルのTシャツ姿でもない。白いYシャツに黒のスーツと朽葉色のネクタイ、そして黒のコートだ。
「………」
全く慣れない服装に、やや動きがぎこちない。何とか鍵をかけてマンションのエントランスまで向かうと、ちょうどそこでイオと会った。
「あ、十文字さん!」
こちらに気がついて手を振る少女は、しかしマサギが普段見ている彼女と違う。いつもの白エプロンではなく、清楚なコートに身を包んでいた。
「……!」
マサギは声を掛けられたことも忘れてイオを見る。少女は不思議そうに首を傾げた。
「十文字さん? あの、どこか変なところがありますか?」
「……え、あ、いえ」
我に返って首を振るマサギ。
「すいません……なんか、管理人さんがいつもと違う感じで」
帽子を被り直そうとして手を頭にやるが、そういえば帽子は置いてきたのだったと気づいて苦し紛れに頬を掻く。一方のイオは「そうでしたか」と笑って応えた。
「確かに、いつものエプロンじゃありませんものね。十文字さんも、何だか新鮮な感じがします」
「……うす」
実際、スーツを着たのはこれが人生で初めてである。普段のよれたシャツとズボンではこれから向かう場に相応しくないと考え、今日のために買ってきたのだ。
「……では、行きましょうか」
「はい!」
黄昏時の寒空の下、出発する2人。
彼らの行き先は、ガーネットの指揮するオーケストラのコンサートである。
ガーネットがくれたチケットの席は、コンサートに関して素人のマサギでもわかるほど良い位置にあった。客席のほぼ中央、ステージから近すぎず遠すぎない距離の席だ。
隣に掛けたイオが、プログラムを開いて声を上げる。
「十文字さん、見て下さい! エルダーさんのページです」
差し出された冊子の紙面を見ると、確かにガーネットの写真が載っている。指揮者紹介のページだった。
「すごいですね、エルダーさん。こんなにたくさんの人の前で指揮するなんて」
イオが軽く首を回して周りの聴衆を見る。マサギも彼女の言葉には深く同意だった。
この大きなコンサートホールの中で、聴衆にも演奏者にも注目されながら、彼は一人で演奏を牽引していくのだ。きっとプレッシャーもあるだろうに、いつもの穏やかなガーネットからは、そんな気配を感じたことがない。なるほど、彼こそプロというものだ。
ビーーーーーッ
突然会場のベルが鳴った。マサギは反射的に身構えたが、周りは特に慌てる様子がない。
「あ、開演ですね! ……十文字さん?」
「……いえ、ちょっと勘違いでした」
有事のブザーではないことに気づき、座り直してごまかす。
要らぬ注目を浴びるところだったと心の底から安堵した。
ステージの幕が上がると、所狭しと並ぶ楽器と演奏者が姿を現した。ガーネットが見当たらないと不思議に思ったところで、当の本人がステージ脇から歩き出てくる。途端に拍手が鳴り始め、マサギも一拍遅れて手を叩いた。
ガーネットが指揮者台の隣に立ち、一礼する。その立ち振舞いはパッと見れば、いつもマンションですれ違う姿と変わらない。
--しかし、彼が指揮者台に乗り、タクトを構えた瞬間。音楽の始まりの直前、一瞬の無音が訪れる。
同時にマサギは感じ取った。空気がガラリと変わったこと、他ならぬガーネットが変えたことを。
まさに彼がこの場の指揮者なのだ……そこまで感じたところで、ガーネットがタクトを降り下ろした。
マサギはプログラムが進むごとに、マンションでは知り得なかったガーネットの姿を見ることができた。
もちろん、演奏中に指揮者の顔を見ることはできない。しかし音楽の曲調に合わせて、ガーネットの立ち姿やタクトの動きが様々に変わる。いつもの穏やかな様子で腕を降ることもあれば、平素の彼からは想像できないほど激しく腕を広げることもある。陽気な曲調に合わせて軽く跳ねる動きは、彼のパートナーのモクロー・ラテのそれにも似ていた。
凄いな、とマサギは思った。音楽とは耳で聴くものだと思っていたが、ここでは耳だけでなく目までもが、ガーネット達の演奏に引き込まれる。ゆったりした曲にまどろみそうになってしまったり、大音量のクライマックスに腹の底が震えたり、身体中の感覚も忙しい。コンサートがこんなに全身を使うものだとは知らなかった。ガーネットは今、楽団と共に聴衆の全感覚を捉えているのだ。そう思うと、マサギは指揮者としてのガーネットの凄さに感動する他なかった。
オーケストラのコンサートどころか演奏会自体に不慣れなマサギは、どのタイミングで拍手をしたらいいのかわからない。だから拍手は必ず周りより一拍遅れた。それでもマサギは、気持ちを込めて大きく手を叩いた。
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