ありがとうとか、すれちがいとか

 とある日。冬にしては珍しく、陽光が部屋を温めていた昼下がりのこと。
 非番のマサギは、部屋の掃除をしていた。自分の後ろを、リザードのりすけがついて回っては手伝ってくれる。
 「りすけ、これ玄関のゴミ袋に突っ込んでくれ」
 がう
 寝室のクローゼットからそろそろ限界になった古着をまとめて出し、りすけに渡す。まだ処分するものがあるだろうかとクローゼットを覗いたところで、ふと端のハンガーに掛かったスーツが目に入った。これは先日、イオと共にガーネットのオーケストラコンサートに行くために着たものだ。あの時以来袖を通していないが、一応クリーニングに出すべきだろうか。
 ……いや、それより先に、だ。スーツを見てマサギは思い出した。彼はコンサートが終わってから、ガーネットと話をしていない。コンサートが終わってから冷えないうちにイオと帰り、その翌日からはしばらく出勤が続いたからだ。
 コンサートに行ったことと、チケットのお礼を言わないとな。
 そう考えた時だった。
 かげ~
 ヒトカゲのりりんが寝室に入ってきた。さっきまで窓際の日向で昼寝していたはずだ。
 「どうした、りりん」
 マサギが聞くと、りりんはクイクイとズボンの裾を引っ張ってくる。不思議に思ったマサギは、ちょうど戻ってきたりすけと一緒にりりんについていった。
 辿り着いたのは、りりんが寝ていた窓際だった。換気のために開けていた窓から、僅かに風が入ってくる。
 「寒かったか?」
 りりんを見下ろして尋ねるが、ヒトカゲは首を振った。あっち、とでも言いたげに小さな指をさす。そこにはマサギが仕事で着用するキャップが落ちており、
 「………?」
すー、すー……と、1羽のモクローが寝ていた。
 「………」
 マサギは黙ったままキャップを持ち上げる。モクローの丸い体はキャップにぴったりフィットしていた。呼吸に合わせて羽毛と胸の葉っぱが上下している。
 マサギの手持ちにモクローはいない。どうやらりりんは、ふと目が覚めたら知らないポケモンがいたので主人を呼んだようだ。
 すると、ふいにモクローが目を開けた。丸い瞳をパチクリさせつつ、しかし慌てることなくマサギの目を覗き込む。
 モクローの落ち着きぶりを見て、マサギはこのくさばねポケモンがどこから来たか何となく見当がついた。
 「……エルダーさんの所の子っすね」
 ほっ
 ガーネットの名字を出すと、一声鳴いて返事するモクロー。十中八九、彼の手持ちのモクロー・ラテだ。
 「迷子すか」
 ほー
 この質問には長めに鳴いた。否定の意だろうか。
 「……家出?」
 ほー
 「………」
 あの穏やかな主人のポケモンに限って、まさかそんなことはなかろう。
 自分で聞いておきながら首を振ったマサギは、キャップごとラテを抱えたまま窓を閉めた。なるほど、掃除をしている間にここから入ってきたらしい。
 「ご主人の所に帰りましょう。送ります」
 ほぅ
 帰りたいのか帰りたくないのか、ラテの今の返事の真意は残念ながらマサギには伝わらなかった。


 インターホンを鳴らすとすぐに出てきたガーネットは、キャップの中のラテを見るなり苦笑した。
 「すみません、マサギさん」
 「いえ。7階から急に来たんでびっくりはしたっすけど、迷子や家出じゃなければ安心しました」
 「きっと散歩のつもりだったんでしょう。ありがとうございました」
 ガーネットはキャップからひょいとラテを取り上げ、肩に乗せる。その時マサギは、ふと先ほどクローゼットの前で考えていたことを思い出した。
 「エルダーさん」
 「はい?」
 「あの、行きました。演奏会。管理人さんと」
 それを聞くと、ガーネットがその名のように赤い目を細めて微笑んだ。
 「そうでしたか。おいで頂いて、ありがとうございました」
 「いえ、俺の方こそ。チケット、本当にあざっした。……あの」
 マサギは自分の感想を何と表すべきか言葉が見つからず、言いよどむ。コンサートでは文字通り感動した。指揮者としてのガーネットの堂々たる姿、彼と楽団が一丸となって作る音楽に心を動かされた――そう、心を動かされるとはああいうことなんだろう。だがそんな感想は、指揮者のガーネットには陳腐なものに聞こえる気がする。
 だけれど、それでも伝えなければ。言葉にしなければ、感謝も何も伝わらない。
 「俺、音楽とか全然素人で。だから、凄かった、としか言えないんすけど……でも、本当に凄かったです。エルダーさんは凄くかっこよかったし、音楽もかっこよかったり、綺麗だったり、色々で……」
 ラテのいなくなったキャップを、つい癖で被る。つばを摘まんで位置を直しながら、言葉を探した。
 「……上手く言えなくてすんません。だけど、凄く楽しかったす。初めて行ったオーケストラが、エルダーさんに誘ってもらえたやつでよかった。……ありがとうございました」


 ガーネットと別れた後、マサギはマンションの階段へ向かった。階段の上り下りもトレーニングの一環だ。
 すると、一つ下の6階で話し声が聞こえる。何気なく廊下を覗くと、6階の住人である女性2人、イザナとキャンディーが歩いていた。話し声の主は彼女達のようだ。
 「あれ、マサギ君じゃない? こんな上まで階段で来たの?」
 イザナがマサギに気づいて声を掛ける。マサギはキャップを脱いで一礼しつつ、「うす」と返事した。
 「どうしたの、一体」
 「エルダーさんに用があったんす。今はその帰りっす」
 「Oh! そうデス、マサギサン! どうでしたカ、コンサート!」
 突然キャンディーがマサギに詰め寄った。急にコンサートの話題を振られ、面食らう。
 「え…と、楽しかった…っす」
 「Wow!(管理人サンとのお出掛けは)ステキだったですカ?」
 「うす。(コンサートに)また行きたいって思いました」
 「……! ま、また(2人でどこかに行くため)の約束ハ!?」
 「? いえ、次の(コンサートについての)話はしませんでしたけど。……ああ、さっき(エルダーさんに)会った時に聞けばよかった」
 「それは早く(管理人サンに)聞かないとですヨ! アナタも(管理人サンも)忙しいんデショ!」
 「そっすね。(近いうちコンサートがあるのかどうか)聞いときます」
 どこまでも食い違う話を、いつまでも気づかず進めるマサギとキャンディー。
 「……うーん、何か妙な気がするんだけどな……」
 イザナは2人の会話を聞きながら、その微妙な違和感に首を捻っていた。

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