かくて開花

 ぱちりと両目を開けたら、自室の照明と目が合った。
 「………?」
 見慣れているはずの景色なのに、一瞬、ここがどこかわからなくて混乱する。先ほどまで自分は青空の下にいたはずで――いや、青空だったろうか。そもそも外にいただろうか、いや、そんなことはない。
 ――あっ、夢か。
 違和感の正体がわかるとともに、やっと混乱が解けた。起き上がって伸びをすれば、身体の重みが確かにこここそが現実の世界であることを証明してくれる。夢の内容は記憶からどんどん抜け落ちるので、こだわらず脳の処理するままに忘れた。
両腕をぐっと頭の上に突き出して軽くストレッチ。ベッドから降りてカーテンを開ける。すると、本物の青空が窓の外いっぱいに広がっていた。ずらりと並んだ住宅地の屋根が日光を反射して眩しい。そのくせ、冬の冷気はこの程度の陽光ではなかなか緩んでくれなかった。ガラスにびっしりと結露がついている。それを拭うと、うっすらと自分の姿が映った。灰色のスウェットに包まれたそれなりの長身と、比較的大きな褐色の手足。ぎょろりとした目に、ぼさぼさの髪。
 「鉄佳~。朝ごはん食べちゃって~」
 階下から母親の声がしたので踵を返す。ガシガシと頭を掻きながら、扉を開けて返事した。
 「は~い」

 青年の名前は炎谷鉄佳。職業学生、実家暮らし。そろそろ一人暮らしがしたい。
 何の変哲もない、ごくごく一般家庭の一人っ子だ。

 ダイニングに入ると、自分の分の朝食がテーブルに置かれていた。トーストとヨーグルト、バナナとゆで卵。傍らのごぼうサラダは昨日の夕食でも見た気がする。
 母はキッチンの方で洗い物をしていた。一つにまとめた黒髪にところどころ白いものが混じっている辺り、彼女も相応に年を取っているのだと実感する。父はとっくに出勤していてもういないが、昨晩使ってなぜかそこに置き去りにしたのであろう彼の白髪染めが、ダイニングテーブルの端に追いやられていた。壁掛けテレビからは今日の天気予報が流れ、外からは近隣の中学校のチャイムが聞こえてくる。いつも通りの朝だ。
 顔を上げた母が、鉄佳と目を合わせたなり笑う。
 「おはよう鉄佳。あはは、アンタまた頭が火事よ」
 「おはよ。母さんそのネタ好きだな~、それで笑うのこの家で母さんだけだよ」
 鉄佳は気にしていないふりをしつつ、さりげなく右手で髪を撫でつける。ぴょんぴょんと寝ぐせのついたそれは、燃えるような赤色だ。
 息子が席に着いてトーストを頬張る隙に、母は好き放題喋る。
 「家じゃあね、アンタが生まれた時からの鉄板ネタだから。母さんのパート先じゃめちゃくちゃウケるのよ。アンタの赤ちゃんの頃の写真見せながら言ったら、ホントですね~ってみんな大笑い」
 「俺の肖像権~。ていうか、髪色のこと何も言われないの?」
 一口と一口の間に、抗議を込めたツッコミを入れる鉄佳。最後の問いに、母は「まあね」と手をひらひら振った。
 「最初はびっくりされるけど、あとは『おさかなちゃんなんですね~』って言われて終わりよ。珍しくはあるけど、周りに全くいないこともないし」
 「そりゃそうか」
 「でしょ。あ、ところでアンタ今日バイトあるの?」
 突然変わった話題に、鉄佳はヨーグルトをかきこみつつ思考を切り替える。
 「ある。今日は夜まで」
 「あら、それこそ珍しい」
 「明日保護者会だから、その準備を手伝ってくれってさ。晩飯は友達と食べる」
 「はいはい。食べ終わったら、お皿全部流しに入れといて」
 「ほ~い」
 母は洗い物がひと段落したらしい。キッチンを出て、洗濯機の方へ向かっていった。置いて行かれた鉄佳は一人でちまちまゆで卵の殻をむき始める。白い欠片が皿に落ちていくのを見ながら、先ほどの会話を何となく思い出した。
 「……『おさかなちゃん』ねえ」
 その呼ばれ方は、鉄佳にとっては慣れているものだ。
 この世界の人間の髪色や目の色は、だいたいが無彩色か限られた有彩色だ。しかし稀に、鉄佳の赤髪のような、鮮やかな髪や目の色を持って生まれてくる人間がいる。そうした人々のことを、現世では「おさかなちゃん」と呼んでいる。どうして魚と呼ばれるのかは、どうやらおよそ百年前に存在した海底都市の歴史が関係しているらしいが、詳しい由来は鉄佳も知らない。
この世に生を受けてからというもの、鉄佳はこの髪の色を見た人々の大多数から「おさかなちゃん」と呼ばれ、次いで様々な好き勝手を言われてきた。いわく、海底都市の住人の末裔ゆえの先祖帰りだとか、住人の生まれ変わりだとか。
 だが、あいにく鉄佳は海底都市とは縁のない平凡な家庭の生まれだし、前世の記憶も持っていない。だから「おさかなちゃん」と呼ばれていろいろ言われても、特別な返事は何も返し難かった。
 「赤いし、ギョロ目だし。せいぜいただのキンメダイってとこだな。にゃはは」
 鉄佳は一人で笑いながら、剥き終わったゆで卵をぽんと口に放り込んだ。

 時は過ぎて昼。今日は金曜日、鉄佳の受けなければならない講義は二限目で終わりだ。
 駅前にある学生向けの定食屋でさっさとカレーを胃に入れて、鉄佳は電車に乗り込んだ。方向は自宅と同じだが、バイト先は自宅の最寄り駅の二つ手前にある。
 各駅停車の車両を降りて徒歩十五分。住宅地に紛れ込む児童館が、鉄佳のアルバイト先だ。黒いフーディーにジーンズという、ラフな私服のまま勤務できるところが楽でお気に入りの職場である。
 二階建ての建物は平日の昼下がりなら静かな雰囲気のはずだったが、今日は玄関前からして既にきゃいきゃい賑やかな声が聞こえる。鉄佳は「あれ」と首を傾げた。
 「おはようございま~す」
 挨拶しながら玄関をくぐった途端、鉄佳の前を小さな影が横切る。反射で「廊下は歩くよ!」と声を上げると、廊下の角から影の正体達が戻ってきた。児童館常連の小学生達だ。
 「鉄ちゃんだ! 鉄ちゃんやっほ~!」
 「やっほ~。今日学校どうしたの?」
 「終業式だよ! 今日から冬休み!」
 わんぱく坊主の大音量の返事を聞いて、鉄佳は納得した。すっかり忘れていたが、そう言えばそんな予定を聞いていたかもしれない。
 今日は忙しくなりそうだなと考える鉄佳の袖を、男子も女子もこぞってぐいぐい引っ張ってくる。
 「鉄ちゃん来て来て! 一緒に遊ぼ!」
 「鉄ちゃん先生~、折り紙折ってえ」
 「おさかな先生~」
 「待て待て待て、鉄ちゃん先に事務室行きたい! あと誰だ『おさかな』って呼んだの」
 小学生に下手な約束をすれば自分の首が締まることを熟知している鉄佳は、あえて余裕を持った待ち合わせ時間を示す。子ども達がまとわりつく中何とか事務室の前まで来て、ようやっと彼らを振り解いた。
 「はい、事務室は子ども立ち入り禁止! 五分待ってて、遊戯室行くから」
 「わかった、五分ね。約束だよ!」
 「数えて待ってるからね!」
 「ほいほい、じゃあね。歩いて戻ってよ~」
 ぱたぱたと遊戯室に戻っていく子ども達を見送り、事務室に入る。雑多な室内を縫うように、荷物入れのある奥まで歩いていると、後ろから声が掛かってきた。
 「炎谷先生、おはようございま~す。出勤早々、人気者お疲れ様」
 「お疲れ様です、いや人気かは知りませんけど。今日、子ども達の帰り早かったんすね」
「冬休みだからね。そうそう、今ちょうど先生の話してたんだよ。炎谷先生って保育士資格持ってるんだよね?」
 「え? 持ってないっすよ。俺まだ卒業してませ~ん」
 「あれ、そうだっけ?」
 荷物を置き終えて振り返ると、中年の女性職員が二人ほどで談笑していた。片方が「ほら、私の言ったとおりでしょ」ともう片方を小突く。
 「もう卒業してると思ってた! ここにすごく馴染んでるんだもん」
 「にゃはは、勘弁してくださいよ。卒業したら普通に就職しますよ俺」
 「そんな~。寂しくなっちゃうなあ、絶対子ども達も泣くよ」
 「まさかあ。まあでも、そのままここに正規で雇ってもらってもいいですよ」
 「それは館長に相談して~」
 会話に混じって笑いつつ、タイムカードを押す。すると外からもう一人、今度は男性の職員が事務室に入るなり、鉄佳と視線を合わせて「あっ」と声を上げた。
 「炎谷先生! 今日は夜遅くまでありがとう。悪いんだけど、ちょっと夕方にお使い頼まれてくれる?」
 「いいっすよ~。どこ行くんですか?」
 即答で承諾してから詳細を聞く鉄佳。頼んできた方は、「えーっとね」とメモに目を通し始めた。

 メモの内容は、児童館から少し離れたところにある花屋まで、注文した花を取りに行くというものだった。保護者会に向けて環境面も綺麗に整備しようと発注したものの、受け取りに余裕を持たせるのを忘れていたらしい。先に一人の職員が花屋に向かって支払いを済ませ、後から来る別の職員の車に積むという計画で、鉄佳は先の一人についていって荷物番をするとのことだった。
 時刻は六時を回ったばかりだが、十二月ともなれば日はすっかり落ち、外は真っ暗になっていた。鉄佳は児童館職員の呼んだタクシーに、彼とともに乗り込む。こじんまりした後部座席に男性二人がぎゅう詰めになり、二人して何とかシートベルトを締めた。
 「よろしくお願いします~」
 人のいいおじさん職員が運転手に挨拶するのを聞いて、鉄佳も後に同じ台詞を続けたが、運転手からは軽い会釈が返ってきただけだった。職員から行き先の花屋の名前を告げられても、「はい」とごく短い返答をしたきり、さっさとカーナビの設定に入ってしまう。鉄佳は何となくタクシーの運転手はお喋りなイメージを持っていたが、そんなこともないんだなと思った。カーナビを操作する白い手袋は、鉄佳の手よりいくらか小さい。しばらくその白に目を奪われていると、隣から「炎谷先生」と職員の声が掛かってきた。どうやら児童館とメールで連絡しているらしい。
 「何すか?」
 「ヌクタニ先生って、苗字の漢字どうやって変換するの?」
 「あー、『ほのお』と『たに』で打った方が早いっすよ。変な苗字ですよね」
 「変ではないけど、珍しいから全然出てこない。『今から炎谷先生と出ます』……と。よし」
 メールを送信してから、職員は鉄佳の方をちらと見て笑った。
 「『炎谷』って、先生にピッタリの苗字だなって思うよ」
 「こんな頭だから?」
 鉄佳もニヤリと歯を見せて笑い、赤髪を指差して見せる。「今日も子ども達に『おさかな先生』って呼ばれました」と報告すると、話し相手はけらけら笑った。
 「俺、炎谷先生が子ども達に『炎谷先生』って呼ばれてるの見たことないかも」
 「俺も呼ばれたことないっすね! みんな『鉄ちゃん』とか『鉄ちゃん先生』、あと『おさかな先生』。でも、そっちのがなんかしっくり来るんですよね」
 「へ~。下のきょうだいとかいるんだっけ? 面倒見てた親戚とか」
 「いや、全然。俺一人っ子ですし、親戚も別に」
 「そうなの? ずいぶん子どもに慣れてるから、お兄ちゃんなのかと思ってた」
 「実は違うんです!」
 声を上げて笑った後、鉄佳は前を向いた。斜め前に運転手が座っている。運転中なので当然前を向いているから表情や顔つきはわからないが、男性にしては頬や肩の線が細いと思った。わずかに聞いた声も低くなかったし、もしかしたら女性ドライバーかもしれない。
 彼女の方を見たまま、会話は隣に向かって続ける。
 「なんかね、小さい頃からお節介焼いちゃうんすよね、俺。後から考えれば確かにわざわざ声を掛ける必要ない場面でも、その時はもう手伝ったり助けようとしたりして。子どもの頃は同年代相手にやってたから、面倒くさがられましたけど」
 「ああ、イメージ湧くなあ。いいじゃない、それが今は仕事に繋がってるんだから」
 赤信号に差し掛かり、車が停まった。運転手の顔が前車両のテールランプに照らされる。バックミラーを覗いても、帽子に遮られて彼女の容貌がまだわからない。
 「炎谷先生、保育士目指してるんでしょ?」
 「はい! 俺、頭良くないし運動神経も普通ですけど、今のバイトみたいな仕事が好きで。子どもが――子ども含めて誰かが俺の仕事で笑ってくれて、俺も給料もらえるんなら、ウィンウィンじゃん、って思います。……カッコつけみたいで恥ずかしいっすけど」
 「いいんじゃない。大変な仕事だけど、炎谷先生なら向いてると思うよ」
 「にゃはは、ありがとうございます!」
 信号が変わって、再びタクシーが走り出す。道路の混雑はほとんどなく、スムーズに進んでいる。鉄佳はふと気になったので尋ねた。
 「そうだ、今日って何買うんですか? いや、聞いても俺わかるかな」
 「ああ、何だっけな。門の周りの花壇に植えるって言ってた……」
 職員がポケットからメモを取り出す。鉄佳は首を傾けてそれを覗き込み、
 「ああ、シクラメン……」
と呟いた。
 「炎谷先生、知ってる花だった?」
 「え? あっ、ええと……」
 職員に聞かれて慌てる。自分でも、なぜ「ああ」と呟いたのかわからないのだ。鉄佳は特に花に興味があるわけでも、詳しいわけでもない。しかし、この名前の響きはどうしてだか懐かしかった。
 ――何でだろう。
 『目的地に着きました。ご乗車、ありがとうございました』
 答えに困っていると、助け船のようなタイミングでカーナビの自動音声が目的地の到着を告げた。
 「お、ありがとうございました! 炎谷先生、先降りて花屋さん行ってて。支払いする」
 「は、はい!」
 こっそり胸をなでおろしながら下車する鉄佳。助手席の窓から運転席をちらりと見てみたが、やはり運転手の顔は見えなかった。
路肩についていたタクシーから歩道を挟んですぐのところに花屋はあった。真っ暗な空気を店内から溢れる光が照らしている。ちょうど一人の店員が表に出て、こちらに背を向ける格好で切り花のバケツの中身を整えていた。
 「こんばんは~。すいません、花を取りに来たんですけど……」
 鉄佳が声を掛けると、店員が返事して振り向く。その髪色を見て鉄佳は思わず目を見開いた。中性的なその店員の長髪は、鮮やかな若葉色だったのだ。
 「おさかな、ちゃん」
 無意識に鉄佳の口が動くのと、店員の目が大きく丸くなるのが、ほとんど同時だった。
 「テッカ!」
 「え?」
 花屋が立ち上がり、一足飛びに駆けて目の前に出る。知らない男性のはずなのに名前を呼ばれた。鮮やかな緑髪に驚いて、初対面の人間に名を呼ばれて驚いて、だがそれ以上の何かで、鉄佳の心臓が速く脈打つ。
 花屋の青年は目の前で、
「テッカ! やっぱりテッカだ! 覚えてる、俺のこと?」
そう捲し立てる。覚えているも何も、今日、今、この瞬間が彼との初対面のはずで――その時、鉄佳の目に、青年の後ろに並んだ花の鉢が見えた。炎のようなシルエットの白い花。瑞々しい深緑の葉。目の前の、若葉色の髪。

 『よかったらテッカが一つ持っててよ』
 『それなら交換しよ! ワシのこれあげるけん、ノヅっちゃんの頂戴!』
 『ありがと、俺もこれ宝物にするね』

 目に飛び込んできた光景の奥で、知らない景色が広がる。
 知らない? 知らないのではない。忘れていただけだ。
 忘れていた? 何を。思い出した? ――思い出した。

 思い出した!

 「あ!!」

 テッカは大声を上げた。目の前の青年の鼓膜も周辺の通行人も気に留められなかった。
 「ノヅっちゃん!」
 「炎谷先生、どうしたの!? 何かあった?」
 会計を済ませた児童館職員が、慌てた顔でタクシーから出る。テッカは反射で振り向いた。つられてタクシーを見た青年が声を出すのと、タクシーのドアが閉まるのが同時だった。
 「テッカ! あのタクシー! ミライカだ!」
 「えっ!?」
 タクシーの表示が、誰も乗せていないのに「満席」になる。タクシーとは思えない速さでアクセルが踏まれ、車体が動き出した。
 ――ミライカ。ミライカ。ミライカ……!
 ――そうだ、そうたい、ミイちゃん!!
 テッカの脳裏に「ミライカ」の姿が浮かぶ。その名前が、その名を持つひとが、そのひとについての記憶が、あのひとへの感情が、急に酸素を取り込んだ炎のように噴き上がる。
 「追えテッカ!」
 青年が――ノヅチが叫ぶや否や、テッカの足が動いた。通行人を弾き飛ばすのではという勢いで走る。タクシーもぐんぐん速度を上げていく。

 ――そうたい、そうたい、思い出した!
 ――俺は、ワシは、ワシは!

 青年の名前は炎谷テッカ。元職業、潜航機動隊第一大隊隊員。
 走りながら息を大きく吸って、腹の底から咆哮した。

 「ミイちゃん、どこ行くと!!」

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