海上へ(後)

 遠くの方から聞こえるような微かな喧騒で、テッカの耳がぴくりと動いた。
 意識がふわりと浮いて上がる。目の前が暗かったので瞼を開けた。どうやら自分は眠っていたらしい。頬には固い机の感触がぺったり貼りついていた。剥がすように身を起こすと、
 『起きた?』
机を挟んだ向こう側で、ミライカが頬杖をついて笑っていた。
 「……? ミイちゃん……?」
 テッカは何度か瞬きをする。自分の今までいた状況と、今いる状況が頭の中でぼんやりしていた。
 「あれ……? <女王>は? EBEは……? ワシは確か……」
 そう、テッカは海の中でEBEと戦っていたはずだ。EBEを切り裂いて飛び出した先に敵の<女王>がいたから、二度とない好機と思って全生命体殲滅兵器・ケラウノスを発動した、はず。
 しかし周りは、柔らかい赤の電灯で彩られた居酒屋の景色。スーツを着た第四層の住人らしい人間達が座る席に囲まれている――が、自分とミライカ以外の顔はぼんやりとしていた。
テッカはこの居酒屋を覚えている。<女王>によるEBEの増殖で、潜航機動隊隊員の殆どが再出撃・EBE化して射殺された日――要するにミライカがいなくなった日、その前日に彼女と来た店だ。
 視界を正すつもりで目をこすろうとしたが、なぜか右腕も左腕も痺れている。動かしても、何だか肩から先が何もないような、生えているものが自分の腕ではないような、妙な感覚がした。
 ぎごちない手つきでサングラスを外していると、ミライカが目を細めた。
 『ここはまあ、まだお前のアトランティスの中っちゃ中だよ。お前の夢の中って言ってもいいけどね。ホントのお前は、ケラウノスをぶっ放したせいでボロボロだから』
 「しょうなん……?」
 言われてみれば、自分が今着ているのは戦闘服だし、身体中も痛いままだ。そこでテッカははっと気付いた。
 「えっ、しょんで、どげんなった? <女王>は? ノアは、みんなは?」
 『お節介焼きは心配事が多くて大変だねえ。まずは自分のことを確認しなよ』
 ミライカが流して垂らした目元の髪を触りながら言うと、テッカは真面目に返す。
 「ワシはよか、だってミイちゃんがここにおるけん。ミイちゃんがまだおるってことは、ワシは死んでなかとやろ」
 『……ああ、そうかい。そうだろうね』
 呆れた顔をするミライカ。テッカはその表情を見て思わずへらっと笑った。
 「ミイちゃん、時々ワシにその顔しよるとね。だいたいワシがアホなこつしとお時でしょ」
 『わかってんのかい?』
 「どこがアホかはわからんっちゃけど、ワシがアホなのはわかるけん」
 ミライカは苦笑いをして、肩を竦めた。そして目を開き、テッカに真っ直ぐ視線を送る。
 『……<女王>はもういない。アンタがケラウノス撃ったショックで気を失ってる間に、皆が片を付けたよ』
 「ほんなこつ!? じゃ、じゃあ、勝ったと!?」
 『ま、そういうこったろうね』
 ミライカが頬杖をついたまま首を少し傾ける。テッカは頬に熱を込めて、はあーっと大きく溜息をついた。
 「よかったあ……! ああー、よっしゃあって飛び上がりたかばってん、身体中が痛おて何もできん~。はあ……!」
 身体中から力が抜けて、そのまま再び卓に突っ伏す。腕はぶらんと垂らしたまま。もはや動かなかったが、それも構わずテッカは笑った。
 「よかった、ほんなこつよかった……。ミイちゃん、こんままここで飲もお。お祝いせんと」
 『夢で飲むもんじゃないよ、祝いの酒は。とっとと目ぇ覚まして、アトランティスから降りて飲みな』
 「だって、ミイちゃん――」
 『――あたしも、そろそろ降りるし』
 ふわふわと続いていた会話が、ぴたりと止まった。テッカは素早く身を起こし、見開いた目でミライカを真正面から見つめた。
 「……は? どげんこつ」
 対するミライカは、ひらひらと手を振る。
 『終わったって言ってるだろ。もうEBEはいないんだ。もう戦闘は終わった。アトランティスから降りなきゃ。あたしもお前も』
 「ばってん、降りたっちゃ……」
 テッカは知らないことだが、ミライカの魂はテッカのアトランティス『テッカドン』によって、そこに一時的に引き戻されて留まっているに過ぎない。ただ、その事実を知らないテッカでも、テッカドンを降りればもうミライカに会えないことを何となく感じ取った。
 だが、ミライカは目を閉じる。
 『もうアトランティスを動かさなきゃならない訳じゃない。それにあたし、ちょっと野暮用でね。そろそろ行かなきゃ』
 「行くって……どこ行くと。ミイちゃん、今度はどこ行くと?」
 テッカは立ち上がった。ミライカもすっと腰を浮かせる。するといつの間にか、景色は居酒屋から、ノアの格納庫の中に変わっていた。初めてテッカとミライカが会った場所、テッカがミライカに声を掛けた場所。そして、最後に会話した場所だ。
 『………。』
 ミライカはテッカを見上げたまま黙っている。二人の間にあった卓は消えてもうそこにない。格納庫の中もまた、かつて実際に話をした時と同じくらい静かな空間だ。
 『……お前が無茶な戦闘ばっかりするから、あたしまでくたびれたよ。ちょっと休ませてくれないかい』
 「……それは、ごめん」
 『っふ、馬鹿正直』
 目を細めて吹き出すミライカ。その笑い声を聞いて、テッカはたまらなくなった。
 「ミイちゃん。また、帰ってきてくるうと?」
 『……バカだね、言ったろ。もうアトランティスに乗ることはないんだって』
 答えになっていない返事だが、それが実質否定を意味することがわかってしまう。
 「ワシ、生きとおよ」
 『そうだね』
 「これからも生きる」
 『そうかい』
 「やけん――」
 『テッカ』
 呼ばれてしまって、テッカは何と言おうとしたか忘れた。でも、言いたかったことの答えは伝わってきた。もはやテッカが生きて海の上の陸に立ったとしても、そこにミライカは来てくれないと。
 真相を受け取った刹那、心臓が跳ねて強く願う。
 ――一緒に来てほしか。一緒に生きてほしか。
 「ミイちゃん。ワシと結婚してくれ」
 気持ちが湧いた瞬間、言葉が口をついて出た。テッカの右腕が伸びて、感覚のない手が、ミライカの左手を取った。
 『……は?』
 笑っていたミライカの笑顔が、テッカを呼んだ後に続けようとしていたのであろう言葉と一緒に引っ込んだ。代わりにマゼンタ色の瞳が円くなり、聞き返すだけの役割の一音が漏れる。
一方テッカは、一気に顔をその髪色ぐらいまで真っ赤に染めて、全身が燃えるように熱くなった。サングラスがやや下方にずれて、現れた小さな黒い瞳の双眸が、ミライカの目を真っ直ぐ見る。
 「ワシ、これからも生きるばい。海ん上上がって、陸に上がって、これからも新都心んために、ミイちゃん達が守ってくれたもんば守る。どげん苦しかっちゃ、しんどかっちゃ、最期に何も動けんくなるまで生きるとよ」
 心臓が痛いほど脈打っている。こめかみの辺りの血管がぴくぴくと動いて血を循環させている。テッカは、今、生きとる、と思った。
 「最期まで生きて、もうどげんしょうものうなって。しょんで、最後、生き抜いたっちゃ、ミイちゃんが行くとこにワシも行く。そしたら、ワシとそこで結婚してくれ。ワシは、アンタと一緒に生きたか。アンタに、ワシと一緒に生きてほしか」
 握る拳はもはや持っていないから、代わりに足に力を込めて踏ん張る。ミライカは、数度瞬きしてから、
 『……何言ってんだい、もう死んでるのに。生きるも何もないだろうが』
 「……にゃはは! 確かに、言う通りったい」
テッカのバカな所を呆れた声で示してくるから、テッカも笑ってしまった。
 笑って下がった目尻のまま、再び開けて目の前の彼女を見る。
 「じゃあ、もう生きてなくてもよか。そっちで結婚だけでもしてほしか。ワシがアンタば守りたか。アンタに、ワシの近くで笑っててほしか」
 こんなに誰かに何かを求めるのは、テッカにとってたぶん人生で初めてのことだった。どうしたら首を縦に振ってくれるのかわからないし、こんなことをミライカに求めてもいいのかもわからない。それでも、どうしても、何としても、一世一代のこの願いを、新都心中の他の誰でもない、ミライカただ一人に聞いてほしかった。
 これまでテッカは結婚のことを、子を作るために必要なことで、子を作ることを新都心で市民として生きていくのにやらなければならないことだと思っていた。生きていればそのうち、同じ義務を負った誰かとするんだろうと、ぼんやり考えていた。死んだミライカに添ったとて、子も成せなければ新都心の義務も果たせない。そんなことはテッカだってわかっている。
 だが、それでもなお、テッカが永遠に一緒にいたいのは。その約束を結びたいのは。
 今、選びたいのは。
 「名刀ミライカ。炎谷テッカが死んだっちゃ、ワシと結婚してくだしゃい」
 
 死んだ後に気付くだなんて、どれほど愚かなのだろう。
 それでもその愚かささえ、彼女は笑ってくれるだろうか。

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