恥ずかしかひと
「アイツ、五層で石を投げられたらしいぜ」
誰かが誰かをそう噂する声が聞こえて、テッカはついそちらを振り向いた。声の主はもう食堂の雑踏に紛れている。誰の話かはわからなかったが、少なくとも自分のことではないとはわかる。まだ自分は石を投げられたことがないからだ。
「ワシもこれから投げらるうかなあ」
能天気なテッカでも、それくらいの心配と覚悟はしていた。00戦での第四大隊壊滅による潜航機動隊へのバッシングは、情報の飲み込みが遅いテッカの耳にすら入っている。平民、それも第五層の人間が貴族を戦場に置いて逃げたとあれば、石を投げられても言い返せることはないだろう。たいがいの第五層の人間は「そういう命令だったから」で納得するほど利口ではない。
――ばってん、帰らんと。
石を投げられるのは嫌だが、それでもテッカは明日第五層に帰る予定を変えなかった。貴重な非番の日を、弟妹の顔を見に行かずしてどう過ごせば良いのかテッカにはわからない。それに、今回は彼らに土産もあるのだ。
「喜ぶかなあ」
テッカはテーブルの端に置いた、第一大隊(正確には、その大多数を占める第六層及び第五層出身者)のためのテキスト――物覚えの悪いテッカは未だにこれを使って、同じ第一大隊のシロジ達に読み書きを教わっている――の上にちょこんと乗る栞を、くるくる手でまわしていじる。この栞は以前、隣室に住むノヅチと作ったものだ。手元の栞はノヅチが作ってテッカにくれたものだが、テッカはよく似たものを数枚、べつに持っている。テッカが自分で弟妹の数だけ作った、シクラメンの押し花の栞だ。
初めてまともに見た鉢入りの花の美しさとそれを見た時の感動を、テッカは今も覚えている。弟妹達にも見せてやりたかったがさすがに鉢を第五層まで持ち運ぶことはできなかったので、栞を教えてくれたノヅチには感謝してもしきれない。こんなに美しい白を、簡単に分けてやれる手段があるとは。
――ヒャッカは喜ぶかもしれんね。きれいなものは何でも好きやけん。チビらにはまだ早かかな。食いもんやなかってまた怒らるう。リッカはどげんやろ。キッカは……花はともかく栞は勉強に使おてくるうっちゃよかなあ。
それぞれの反応を勝手に想像して、へらりと笑うテッカ。食堂の一席で一人笑っているので、若干不審な雰囲気もある。
――早う、明日にならんかな。
テッカは栞を、適当に開いたテキストのページに挟んだ。何となく、先ほど聞いた誰かの声が耳に帰ってきてざわめかせた。
『五層で石を投げられたらしいぜ』
……投げらるうても、まあ、体は丈夫やけん。
テッカは自分に言い聞かせた。それでも理由のわからないざわめきは、まだ耳のどこかで取れなかった。
層間エレベーターを出た直後まではよかった。エレベーターを降りて自宅に向かうにつれて、だんだんと周りの人間の目付きが剣呑になっていくのを、テッカはサングラスの奥からじっと感じている。
かつて配達のバイトで通った新聞小売店のばあさん、集めた鉄屑を買い取ってくれたジャンク品店のおやじ。みんな、初めて四層に昇る前日には肩や背中を叩いて「がんばりなよ」「応援してるぞ」なんて言ってくれたのが、今となっては嘘のようだ。店の奥から眉をひそめる動きが、そちらを見なくたって雰囲気でわかってしまった。
「………。」
テッカはそれらに気づかないふりをして通り過ぎていく。彼の不安は、石を投げられる云々よりももはや別のところに移っている。
――チビらは家かな。
テッカを知っている人々は、その大体がテッカの弟妹達も知っている。潜航機動隊に選ばれた兄を持つ子ども達のことを、彼らはどう思っているのだろうか。
――機動隊に選ばるうたんはワシだけばい。チビどもには機動隊のことは関係なか。ばってん……。
いつになく歩く足が速くなる。通りを抜けて狭い路地に入って、しばらくすれば今の住まいのアパートだ。
テッカは見慣れたブロック塀を見つけた。足早にアパートに近づいて、手前から三つ目、自分達の借りている部屋の戸に手をかける。今の時間なら、リッカと末の子ども達が中にいるはずだ。
しかし、
「ただいまあ」
戸の前でテッカが呼んでも、しん、として誰一人戸を開ける者はいなかった。
「……リッカ? ワシばい、テッカたい」
ドンドン、と大きめの音で戸を叩く。それでも何の反応もない。試しに戸を開こうとしてみるが、ガチャ、と固い音がしたきりだ。戸には鍵がかかっていた。
それを理解した瞬間、テッカの頭から血がざっと引いた。
「リッカ! キッカ! なあ、兄ちゃんばい! 誰もおらんとや!? ヒャッカ、ゲッカ! マッカ!」
ドンドンドン、と続けて戸に拳をぶつける。自分の声で戸の枠がビリビリ震えた。すると、
「ちょっと、何してんの!」
アパートの出入口の方から中年女性の声が飛んでくる。見れば、7年前からこの部屋を貸してくれている大家だった。サイトウ、という姓であるのは知っているが、あいにくその漢字をテッカは知らない。
「サイトウしゃん! なあ、リッカ達知らんと!? 戸が開かんで――」
「うるさいうるさい! 大きな声を出さないで! 出てって!」
テッカが近寄りながら投げた問いを、大家は負けじと張った大声で遮った。これまでこの大家に怒鳴られたことのないテッカが思わず歩みを止める。彼女はその隙に怒号を続けた。
「こっちは大変なのよ、アンタ達のせいで! アンタが潜航機動隊でバカやったばっかりに、その家族を匿ってるんでうちのアパートにヒトが押し寄せて! イタズラも嫌がらせも終わりゃしない、この疫病神め!」
あまりの言葉がにわかに信じられず、テッカはしばしぽかん、と口を開けてしまった。目の前にいるのは本当に、七年前に小さかった自分達に部屋を貸してくれた穏和な大家なのだろうか。
「今朝も張り紙とラクガキをやっとこさキレイにしたばっかりなんだよ! なのにアンタが来たら、また何されるかわかったもんじゃない。早く出てってくんな!」
「ま……待ってくだしゃい! リッカ達は……妹達はどことですか!?」
「知らないよ! 嫌がらせが続くから出てけって言ってるうちに、いつの間にか出てったんだ。アンタも早く出てお行き! もうウチには来ないで!」
大家がテッカの後ろに回り、その背をぐいぐい力任せに押す。だが、中年女性ひとりの力で動くテッカの身体ではない。びくともしないまま、テッカはゆっくりと振り向いて彼女を見下ろした。
「……追い出したとですか、あのチビどもを……! ワシのおらん間に……!」
絞り出した声は低く、地の底から唸りあげるようだった。途端に「ヒイッ」と大家は悲鳴を上げてとびあがり、しかしすぐさま次の手段に出た。
「誰か! 誰か助けて! 売国奴がいるのよ! 誰か!」
路地じゅうに響いた叫びに、あちこちから戸や窓の開く音がする。テッカは半ば反射的にアパートの敷地を飛び出した。
その途端、視界の端を小さな影が掠める。避けて走ったらそのすぐ後ろで、カツンと地面に当たる音がした。本当に石を投げてきたようだ。
「どこだ!」
「あっちだあっち! あの赤い頭の!」
路地の頭上の窓から、自分の背後から、方々からものが飛んでくる。しかし、本当に石を投げられたことは、もはやテッカの意識のどこにもないことだった。
――リッカ、キッカ、ヒャッカ、ゲッカ、マッカ!!
頭がぐらぐら煮え立つ。心臓がどくんどくんと大きく重く、速く波打つ。血が昇っているのか顔が熱い。
こうなってしまうと後がしんどいことはわかっている。しばらく前に自分がミライカに告げたことだ。
だが、それでもテッカには、噴き立つ怒りのままに走るしかできない。
――どこたい、どこんおる……!?
はぁっと息を切らせて一瞬止まる。路地を抜けて大きい通りに出た。右か左か、行き先に迷って見渡す。
すると、
「炎谷ィ!!」
左手から怒号が響いた。見れば中年の男性を筆頭に、薄汚れた格好の男達が十数人ほど集団になってこちらに突進してくる。先頭の男性を見て、テッカはくしゃりと顔を歪めた。
「おやっしゃん……!」
男性はテッカが潜航機動隊に入隊する直前まで世話になっていた、鉄工所の所長だった。自分と弟妹の身の上を知っており、かつてはずいぶんと気にかけてくれた。後ろにいるのも同じく鉄工所で働いていた先輩や同期にあたる者達だ。皆、一様に厳しい顔で「待て」とか「止まれ」とか叫びながら近づいてくる。
――おやっしゃん達にも、機動隊んこと、聞かるうたとね……。
テッカはくるりと右を向いて駆けた。怒りは鎮まないままだが、心のままに彼らに立ち向かってはいけないとわかっている。それに、リッカ達を見つける方が先だ。
「炎谷! この恥知らず! 待たんか、俺達が根性叩き直したらァ!!」
ガンッ
目から火花が散るかと思った。後頭部に鈍い痛みが走る。たぶん当たったのはペンチか何かだ。さすがに真後ろからの遠距離攻撃には、アトランティスのレーダーなしでは対応できない。
「ッて、」
テッカの足がもつれた。その隙を逃さず、男衆があっという間にテッカに追いつく。左右から後ろから飛びかかられ、テッカはずだんと地面に叩き伏せられた。
「……ッ、おやっしゃん! ワシば殴りたかっちゃ後でいくらでも殴ってよか! ばってん今は!」
「うるせえ! のこのこ帰ってきやがって! 恥を知れデクノボウ!」
抑えられたまま叫べば大声が返ってくる。
野郎共、やっちめェ! とおやっさんががなる。おう、と男達の返答を聞いて、テッカはなすすべなくうずくまった。せめて頭は守らねば。
ワァッと男達の声が一斉に上がる。ついに来たる衝撃に備え、テッカは体に力を入れた。
そして――
「……?」
――痛みを覚悟して、息を止めて、二、三秒。覚悟していた衝撃が一向に来ない。
怒鳴り声は相変わらず、テッカの頭上を飛び交っている。バカとかウスノロとか、五層の人間らしい罵詈雑言だ。だがテッカが顔を上げると、口から出てくる言葉とは裏腹に、彼らは足で蹴るふりをして砂埃を巻き上げ、腕を空振りしていた。
目の前の光景に訳がわからず口を開けていると、誰かが暴れるふりの男達の隙間を掻い潜ってきた。鉄工所の一員で、テッカのすぐ上の先輩だった。彼はうずくまるテッカに合わせて姿勢を低くし、テッカのすぐ目の前に来た。
「炎谷!」
「ワタヌキしゃん! こりゃあ……?」
「シ! お前は今やられてる設定なんだからしゃべるな」
ワタヌキは声をひそめ、テッカの耳に直接注ぐように話し出す。
「いいか炎谷、時間がねえから一度しか言わねえ、よく聞け。まず潜航機動隊のことは俺達みんな知ってるが、俺達にお前ひとりを責める気はねえ。そんでも周りの目があっから、お前とは堂々と話せねえんだ。わかるな」
「……!」
テッカはすぐに頷いた。この集団リンチはカモフラージュなのだ。
ワタヌキは続けた。
「よし次だ。お前のチビ達は機動隊の報道があってからしばらくして連れてかれた。貴族連中のことをよく思ってねえゴロツキどもにだ。よくわからんが、そいつらに匿ってもらってるらしい」
そこで一旦言葉を切り、ワタヌキが周りに「もうちょっと土つけとけ」と指示した。集団リンチに遭ったにしては、確かにテッカは身綺麗すぎる。するとテッカの背中や頭にぐいぐいと長靴やサンダルが押し付けられ始めた。
「まあ、ちょっと我慢しろや。これが最後だ。噂では、大通りを三本抜けた先の下水道の橋の下に、坊主頭と赤毛のチビが顔を出してたってよ。俺達が教えられるのはこれぐれえだ。ここを抜けても真っ直ぐ行くなよ、できるだけ逃げるふりしてあちこち寄ってからにしろ。終わりだ、いいな?」
テッカは唇を強く噛んで頷く。言葉が上手く出てこない。
「ワタヌキしゃん、おやっしゃん……」
「いいから! また会ったら聞く。今度はヘマすんなよ。じゃあな、行け!」
ワタヌキが身体をよじって避けると、その先の群集が少しだけ隙間を開けた。テッカはちらりとおやっさんの方を見て、そのまま隙間を潜り抜けた。 抜けた先で再び走り出すと、
「逃げたぞ!」
「捕まえろ!」
男達の声が後を追ってくる。
テッカは振り返らずに駆け抜けた。先ほど一瞥したおやっさんの、怒っているふりの顔がしばらく脳裏に残っていた。
行く先々で再会した人々には、敵になった人も、味方のままでいてくれた人もいた。廃品回収のオヤジには空き缶を投げられたが、年を重ねて職を失った二丁目のじいさんが人のいない路地を教えてくれた。それに、鉄工所の皆が、テッカを追いかけるふりをして他の本物の追跡者達を上手く撒いてくれたようだ。
気付けばテッカを追う者も、何かを投げてくる者もいなくなっていた。テッカは一人で、しんとした居住区の路地裏を歩いている。もう人工の太陽は沈みかけていて、黄昏時の薄暗さが辺りに満ちていた。
路地裏を抜けると、コンクリートで脇を固められた大きな下水道の通っている道に出た。地下に埋められることなく、剥き出しにされている下水の水面からはゴミが浮かんでいる。淀んだ水から放たれる悪臭がツンと鼻をつくが、テッカがそこで止まるわけにはいかなかった。
テッカは柵を超えて階段を下り、下水の脇道に立つ。見れば右手のやや上流はトンネル状になっていた。地上にある居住区からの下水が、ここに垂れ流されてくるのだろう。
テッカはトンネルに近づいた。真っ暗な空洞に向かって、
「……ただいま」
一言、投げかける。返事はない。
「……リッカ、キッカ、ヒャッカ、そこんおると? 兄ちゃんたい、テッカたい。ゲッカ、マッカ?」
続けて呼ぶと、トンネルの奥から流れてくる冷たい空気がやや蠢いた。ひたりひたりと、注意していないと聞き逃しそうな足音が、暗闇から聞こえてくる。
やがて、赤い鶏冠頭が真っ黒い空間から現れた。
「……キッカ!」
テッカは思わず弟の名を呼んだ。キッカは大きな白目をさらに丸く開いて、驚いたように兄の顔を見る。テッカは一歩、トンネルの中に踏み出した。
「キッカ、よおここまで逃げたなあ! すまんなあ、お前らにも苦労させた」
「……何でここがわかったの?」
キッカは眉をひそめて、抑えた声を出した。学校に通っているからか、話し方も発音も他の五層の皆とそっくりになっていた。
「兄ちゃんの前の仕事場ん人が教えてくれたったい。ひどか目におうたなあ。もう兄ちゃんが来たけんね」
「来たからって何?」
トゲのあるキッカの声音に、テッカの歩みが止まる。目の前の弟は薄暗いトンネルの内側で、両の拳を力一杯握っていた。
「……キッカ?」
「帰ってよ。何で来たの? 何しに来たの?」
「キッカ、何ば言いよっとね……」
「帰れって言っとおと!」
キッカは目も眉も吊り上げてテッカを見上げた。完全に面食らった兄に向かって一歩踏み出し、弟は声を荒げる。怒ると口調が戻るようだ。
「ほんなこつ何ばしに来たと!? 潜航機動隊の――兄ちゃんのせいでほんなこつえらか目におうとっちゃけど!? なあ!」
「キッカ……待ちんしゃ――」
「俺は! 学校に行けんくなった!」
その言葉は雷のようにテッカを撃った。寸の間、意味を理解するのに時間を要する。キッカは兄の顔を見てさらに続けた。
「兄ちゃんが機動隊なこと、学校のみんなが知っとおとけん! 『恥知らずの弟』言われて、俺も恥知らず扱いされて! 学校におられんようになった! ヒャッカは手伝い先の家ば追い出された!」
矢継ぎ早の言葉がテッカの耳を切り裂いていく。こんな話を聞くことになるとは、少しも予測できなかった。
「キッカ……ワシは……お前らが誰かに匿ってもろうとうって……」
「そうたい! あげん奴らに助けてもろうなんてほんなこつ恥ずかしかばってん、チビどもば守るためにはそれしかなかったとよ!」
キッカの、ギリギリという歯軋りが聞こえてくる。怒りで肩を震わせながら、それでも兄に吠えることはやめない。
「アイツらは、貴族のことば悪う言いよる罰当たりたい! 兄ちゃん達が貴族ば守れんかったせいで俺達は恥かいて、アイツらは貴族が死んだことに良か気になりよって! そんで……そんで俺達は、貴族ば殺した『勇者』の家族って、そう言われて逃がしてもろうたとぞ!!」
ぐらり、とテッカの足元がぐらついた、気がした。危うく足の力が抜けて倒れるところだった。
「兄ちゃん、なあ、わかるか!? ばり恥ずかしゅうとに、悔しゅうとに、そいつら以外頼れる人はおらんたい、俺達は! こげん恥があるとや!? なあ!!」
しかも、とキッカはさらに足を出した。もはや弟はトンネルから出ていて、夜の暗闇に二人の影が落ちていた。
「そいつらに、そいつらに……リッカは連れてかれたとよ!!」
「……は、リッカ……?」
リッカはテッカのすぐ下の妹で、炎谷家の長女だ。面倒見が良くて、大人しくて、とてもゴロツキ達と付き合っていけるような少女ではない。
「そうとぞ! リッカが独り身って知って、そげんやったら嫁にするけん、嫁の弟達も大事にしちゃるって! わかるか!? リッカは俺達と引き換えにされたとよ! 今はリッカだけここにおらん。おるのは俺とヒャッカ、末っ子二人だけたい」
「………。」
しばらく沈黙が続いた。テッカは立ち往生したかのように固まり、キッカは肩で息をする。やがて息の整った弟が、ぐいと腕を伸ばして兄のタンクトップの胸ぐらを掴んだ。引き寄せて近づいた長男に、三男は臆することなく犬歯を見せた。
「なあ、ほんなこつ何ばしに来よっとね、兄ちゃん。どうせすぐ機動隊に帰りよるんやろ。俺達は四層には行けんやろ。しょんならもう帰って。兄ちゃんがここにおったっちゃ、また俺達が恥知らずって言わるうけん。……帰って」
そう言うとキッカは、どんとテッカの胸を押した。テッカの足が、数歩よろめくように下がる。
テッカはゆっくりと顔を上げ、キッカの怒れる瞳を見た。
「……キッカ、いっこだけ。……チビどもは、元気と」
それは、燃やすものをなくして燻る火のように覇気のない声だった。その声にキッカは初めて怯んだように言葉を詰まらせたが、
「……うん」
すぐにそう返す。
それを聞いて、テッカはへらりと笑った。
「そっか。しょんならよか。すまんなあ、キッカ。次はうまかことやってくるけん、待っとって。チビどもんこと、頼んだばい」
ゆらり、風に吹かれて揺れる蠟燭の火のように、テッカは踵を返す。背後のキッカの気配は、トンネルの中に戻るでもなく、自分の元まで進むでもなく、ずっとそこにあった。
テッカはゆらゆらと酔っぱらったような足どりで元来た道を戻る。階段を上がり、柵を超えて道に出た。そのまま、路地裏の闇に足を踏み込む。
すると、
「兄ちゃん!」
少女の声が聞こえた。驚いて振り向くと、赤い髪を二つ結びにした次女が、自分のすぐ後ろにいる。
「ヒャッカ! お前、何で……」
「決まっとおでしょ、兄ちゃんの『ただいま』が聞こえたけん! 『おかえり』ば言いに来たんばい! ばってん……すぐに『いってらっしゃい』せんとね」
テッカが膝を折って妹に目線を合わせると、ヒャッカはニッカリ歯を見せて笑った。
「ほんとはね、キッカが『兄ちゃんやないかもしれんけん、お前らは出てくるな』って言ったとけど。ばってん、ヒャッカにはちゃんと兄ちゃんってわかったもんね。トンネルの反対側から出てきてやったと」
「お前……キッカに怒らるうぞ」
「キッカなんか怖くなか! えらそうにしよるばってん、キッカだって子どもたい!」
テッカが苦笑しても、ヒャッカは得意げに胸を張る。勝気な妹は、あのね、と続けた。
「兄ちゃん、聞いて。姉ちゃんのこと」
「……何?」
テッカの声も、ヒャッカの声もやや抑え気味になる。ヒャッカはまっすぐテッカの瞳を見ていた。
「姉ちゃんね、お嫁に行く時、言っとったよ。『わたしはテッちゃんと同じことば、わたしなりのやり方でやってくる』って」
「……!」
テッカが目を見開く。ヒャッカは続けた。ヒャッカの声は、瞳は、リッカに似ている。
「『テッちゃんと違うて、わたしの行くところは他人様に褒めらるうとこやなか。ばってん、わたしはみんなを守りに行く。やけん、何も心配しとらんとよ。』……ヒャッカ達ね、姉ちゃんに頼まれた。今度兄ちゃんが帰ってきたっちゃ、姉ちゃんの代わりにヒャッカ達が、『おかえり』と『いってらっしゃい』って言ってあげてねって」
やけんね、と言った途端、ヒャッカの目からぼろりと大粒の涙がこぼれた。ヒャッカは乱暴に手で拭う。
「やけん、兄ちゃん、いってらっしゃい! ヒャッカも、ゲッカも、マッカも、ムカつくキッカも待っとうとけん! 姉ちゃんも待っとうとけん、負けちゃつまらんとよ!」
妹は泣くまいと両の拳を握りしめ、鼻の孔を膨らませて息を半分止めている。テッカは潜航機動隊として四層に出発する前日を思い出した。あの時のヒャッカは確か、末っ子共々大声で泣き喚いて自分を引き留めようとしていたのに。
――大きゅうなったなあ、ヒャッカ。
テッカは咳払いして鼻の奥の痛みをごまかした。サングラスを外して、「ヒャッカ」と呼んだ妹の拳を解き、そこに乗せる。
「……これ、キッカに渡してくれんか。じいちゃんからの預かりもんばい。割らんでくれって頼んどいて」
「……わかった」
妹が頷くと、その拍子でコロリと涙が転がっていった。テッカは空いた手でヒャッカの頭をぐりぐりと撫で、それから立ち上がって背を向けた。
「行ってくるばい」
テッカは今度こそ路地裏を進みだした。闇が自分を完全に覆うまで、ヒャッカの目線を背中に背負っていた。
どうして死なせてくれなかった?
どうせ生きてもこのざまなのに。
どうして生き延びさせられた?
死んだ彼らこそが生きることを望まれているのに。
『上』の考えることはわからない。
わかったところでどうしようもない。
身体を内側から焼き焦がすこの怒りは、
行くあてもなく燃やすあてもない。
大火傷の背中の痛みを忘れるには、
さあ、笑うしかないだろう!!!
――ピンポン。
機動隊居住区のインターホンの音で、テッカは目を覚ました。
「ふぁい」とスピーカーを通すと、
「テッカ? 寝てるの?」
聞き慣れた隣人の声がする。一瞬テッカは訳もわからずぼんやりとしていたが、次第にここが四層の潜航機動隊居住区の、自分の部屋だということに気がついた。
「すまんすまん、今起きたとよお。開けるけん、待ちんしゃあい」
扉のロックを開けながら時計を見ると、なるほどノヅチが植物の世話をしに来る時間だ。入ってきたノヅチは不思議そうな顔をしていた。
「この時間に起きるの、慣れたって言ってなかった?」
「にゃは、昨日非番だったけん、一日で実家に帰ってここに戻ったとよお。や~、くたびれた」
「うわ! テッカ酒臭! 何、そんなに飲んできたの」
ノヅチが、水をやっていたシクラメンの鉢を抱えてテッカの付近から退避する。妙に頭がぐらぐらすると思ったら、そういう訳だ。
「あんまり飲んだと思っとらんかったっちゃけどなあ」
「え~。朝礼で怒られても知らないよ」
「はあい。薬もろうとく」
眉をひそめるノヅチに素直に手を挙げてみせて、テッカはへらへら笑った。よっこらせ、とベッドから降りたその時、何気なくポケットに入れた手に、かさりと薄い感触がする。そういえば昨日出掛けた時に履いた、一張羅のつなぎのまま眠っていた。
――ああ、渡しそびれたとね。
それらを出そうか少し迷って、しかしテッカはつなぎのポケットから空の手を抜いた。そのままつなぎを脱いで、隊服に着替えだす。
五枚の栞の入ったつなぎは、クローゼットにしまわれた。テッカはパタリと、扉を閉めた。
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