花探し

 その日、マサギは朝から山に出動していた。登山中に音信不通となった観光客の捜索に当たっていたのである。
 観光客は昼過ぎには全員無事に見つかった。山道から滑落して多少ケガしているものの、命に別状はないという。救助活動をすべて滞りなく完了させ、マサギは夕方になってから他隊員達とレンジャー施設本部に戻ってきたところだった。
 報告を終えたマサギが休憩室に現れた瞬間、
 「マサ!」
 「お疲れ! 待ってたぜ」
 「大変だったねえ。座って座って、お昼にしよ。まだ食べてないでしょ」
わぁっと部屋じゅうの隊員達が沸くように立ち上がり、マサギを迎える。異様な歓迎を受けた方は、かすかに眉を顰めた。
 「……どうしたんすか」
 「何もねえよ! いいからいいから」
 「………。」
 悪戯好きな同僚が妙に調子良いことに、さすがのマサギでも何かしら勘付かないわけではない。マサギは彼の足元にいる、彼の相棒のルクシオの方に視線を合わせた。
 「何かあったんすか」
 るぅ~
 ルクシオは機嫌良く喉を鳴らす。素直な性格のポケモンに、主人の方は「あちゃー」と顔をしわくちゃにした。
 「ダメだろルクシオ、ちゃんと知らないふりしないと」
 「で、どうしたんすか」
 「もーっ、マサも気付いたんならそれはそれで、ちょっとはワクワクしたりドキドキしたりしろよ! これから何かあんのかなーって!」
 「これから何かあるんすか」
 「じゃーん! あるんだな、これが」
 横から会話に入って来たのはもう一人の同僚だ。三人目が冷蔵庫を開けると同時に、その中から両手で何かを取り出している。両腕で抱えてこちらを振り向いたところを見れば、可愛らしいランチョンマットが被せられた大きなバスケットが目に入った。
 「今日のお前の昼飯だぜ、マサ! 俺達の分もあるんだって~」
 「お前宛てのもんだから、お前が帰ってくるまで俺達も待ってたんだぞ! あー腹減った」
 口々に言われることに、マサギは首を捻る。今日は早朝から緊急出動要請を受けたので、昼食は持ってきていない。ましてや、あんなに大きなバスケットには身に覚えがなかった。それに、他隊員の分もあるとか、マサギ宛てのものだとかという言葉も気になる。まるで、誰かがマサギに届けに来たような口ぶりだ。
 ――そこで、マサギははたと気づいた。
 「管理人さん、来たんすか」
 そう口に出すと、なぜか同僚達は一瞬面食らったようなきょとんとした顔をして、それから嬉しそうに、さらに悪戯っぽく笑う。
 「さすがマサ! よく気づいた! えらい」
 「来たっていうか、今もたぶんまだいるぜ」
 「いる? どこに?」
 マサギの問いに、ルクシオの隊員が鼻をこすって胸を張る。
 「ネクロズマんとこ。昼過ぎにこの建物の入り口に立っててさ、イオちゃん。オレが見かけて、お前に昼飯届けに来たんだって。で、ネクロズマにも会ってくかってオレが聞いたら、そうするって」
 「……『イオちゃん』?」
 マサギは眉間に皺が寄るのを感じた。同僚はどうしてか、面白そうに話を続ける。
 「お前んとこの管理人さんだよ。名前知らねえの?」
 「いや、知ってます。そうじゃなくて……」
 「……呼び方?」
 「うす」
 マサギの胸がざわりとする。違和感のようなものが駆けめぐるが、上手くそれを言葉にできない。マサギは考え考え声を出した。
 「その……いち市民を、そういう風に……馴れ馴れしく呼ぶのは、レンジャーとしてどうなんすか」
 「はー、なるほどね。確かにマサの言う通りだわ、悪かったよ。でも、イオちゃんがそう呼んでいいっていうからさ」
 ざわり。また胸がうずいた。あの少女は、そんなに親しい呼び方を許すほど彼と親しかっただろうか。
 「……それでも、公私は分けるべきす」
 「おいおい、今は休憩中だぜ。そこんところは頭固ぇなあ、マサ。じゃあさ、お前があの子のこと、ずっと『管理人さん』って呼ぶのは何で?」
 「? マンションの管理人さんだからす」
 同僚は肩を竦めた。
 「ただの管理人と住人が、盛装してオーケストラ聞きに行ったりバレンタインデーのやり取りしたりなんかするかよ。……まあ、今はここまででいいか。マサ、もっかい言うけど、今もあの子ここにいるぜ。お礼でも言いに行ったら?」
 マサギはその言葉でふっと我に返った。最初は管理人の少女の居場所が気になって聞いたのに、いつの間にか呼び名の方に気を取られていたとは。
 マサギは黙って踵を返し、大股で扉を開いた。
 「マサ、これ先に食べていい?」
という言葉が後ろから聞こえた気もしなくはなかったが、答える言葉を用意する前に自分の足がとっくに遠くに離れてしまった。


 一瞬で、目が覚めた。
 「……は」
 スマートフォンの液晶画面に映ったその文字を、二度、三度と目が往復する。二十三時を回って誰もいなくなった休憩室では、かちこちと時計の秒針の進む音以外は何も聞こえない。それでもマサギは息をひそめて、その検索結果を目で追う。
 『ハナミズキとリナリアの花言葉は十文字さん自身で探してみてください』
 管理人の少女――イオは、そんな「宿題」を残して帰ってしまった。彼女の言葉が、繰り返し耳の中で響く。マサギはその言葉を真面目に受け取って、業務終了後の今、仮眠室に入る前に一人でスマートフォンの検索画面に「ハナミズキ 花言葉」と打ち込んだのだ。
 その結果が、「私の想いを受け止めてください」。
 リナリアの方が、「この恋に気づいて」。
 「……これ、は」
 これまで花言葉に興味のなかったマサギは、世の草花がどんなにロマンチックな愛の言葉を人間から託されているかを知らなかった。夕方にイオから聞いた花々の花言葉だって、そういうものがあるのかと新鮮な気持ちで聞いたぐらいだ。何の気なしに話を聞いていたマサギは、そのまま何の気なしに宿題に取り掛かってしまった。
 だが、さすがのマサギでも、自分で探せと言われた言葉を目の当たりにして、「こういう意味か」と納得して終わるほど愚鈍ではない。さすがに――さすがに、手が震える。
 ――まさか、そんな。こんなことって。
 管理人さんが?
 イオの、夕日に照らされてきらきら輝く金色の髪を思い出す。ふんわり温かい笑顔と眼差しが、記憶の中でマサギの方を向く。
 その途端、マサギの全身がぼうっと燃えるように熱を帯びた。かつてりきちがメガシンカの暴走でこの身を焼きかけた時くらい、あるいは山火事の中救出作業に当たった時くらい、もしくはそれらより熱く燃える炎が身体を一瞬で包み込む。
 「………。」
 マサギはスマートフォンを握りしめた。目を閉じて俯いて、そうしてしばらく一人でいた。
 そこから、数十秒後か、数十分後か。秒針の音がいくつもいくつも聞こえた後に、休憩室の扉の開く音がした。
「うわ、マサ! お前何してんの? 当直なんだから寝ろよ」
顔を上げると、ルクシオを連れた同僚が目を丸くして入口に立っていた。彼はルクシオと一緒に部屋に入り、扉を後ろ手に閉める。確か彼らは、シフト上これから帰るはずだ。
ふたりはマサギに近づいて、顔を覗き込んできた。
「……マジでどうした。何かあった?」
るぅ~
「………。」
マサギは一旦、唇を結んだ。言おうか言うまいか迷って、悩む。
しかし結局、自分一人では絶対に解決できない問題だと状況判断した。
 「……私用すけど、聞いてもらっていいすか」
 「おおいいよ。全然いい。オレはもう上がるし」
 即座に快諾する彼に、マサギは内心ほっと息をつく。
 そして、ぽつりぽつりと、夕方から今までにあったことを告げていった。
 お調子者の彼のこと、どこか途中で茶化してくるかとも思ったが、予想に反して彼は隣に座って黙って聞いていた。
 マサギが話し終えて言葉を切ったところで、彼は話の途中で寝入った膝の上のルクシオを撫でながら、
 「……はあ~。なるほどね」
と初めて相槌を打った。マサギが目を向けると、「で?」と言葉が返ってくる。
 「マサは何に悩んでんの?」
 「……何、って」
 「返事すりゃいいじゃん。てかしろよ。女の子から告白されたんだぞ、何も返さん男がいるか」
 同僚のあっけらかんとした回答に、マサギは面食らって、そのまま目を落とした。
 「何て返せば、いいんすか」
 「はぁ? そんなんお前次第だろ。好きなら好き、そうでもないなら『ごめん』でいいだろが。何をそんなに悩んでんの」
 「……俺はレンジャーで、あの子は市民です」
 すぱん。言葉を言いきらないうちに、素早い平手が頭に飛んできた。
 「バカヤロー。それ言ったらレンジャー全員、恋愛も結婚もできんだろが」
 「……でも、あの子に何かあった時……俺がそこにいられる保証ができません。あの子じゃない、もっと助けを必要とする人達のところに行かなくちゃ」
 「そりゃそうだろ。あの子もそれぐらいわかってるって。そんなこともわかんねえようなお子ちゃまかい、イオちゃんは?」
 マサギは少し考えて、かすかに首を振る。
 「わかる子だから、余計に。……あの子は困った時、俺に頼ろうとはしなかった。誰にも何にも言わないで、一人で全部背負いに行ったんす」
 「………。」
 マンションの上空にウルトラホールが空いた時、イオは一人で行ってしまった。マンションの住人を――自分達を守るために。最後にはマサギに「甘えればよかった」と後悔の念を語ってくれたし、マサギを頼ってくれたが、それではマサギは彼女からの頼みにどこまで答えることができるのか。それが、自分でも不安になる。
 「俺はレンジャーとしてなら……それに、マンションの住人としてなら管理人さんを助けられます。でも、そうじゃない時に助けられる保証ができないんなら……俺はあの子にとって、ずっと『部屋を借りているポケモンレンジャー』のままの方がい、いッ」
 ごん!
 後頭部に重い衝撃が落ちてきて、危うくマサギは舌を噛むところだった。隣からそれはそれは大きな溜息が聞こえてくる。
 「御託はいいんだよバカ! お前、話聞いてた?」
 「………?」
 顔を上げると、同僚は拳をさすっていた。マサギの石頭のせいか、殴った方が若干涙目だ。
 「そういうのもひっくるめて、お前次第だっつってんの! お前の気持ちは結局どうなの?」
 「気持ち?」
 「そう! お前はレンジャーだから、あの子の傍にいるにも限界があるのはわかるよ。でもそれはお前の気持ちじゃなくて、ただの都合だから! ポケモンレンジャー全員に共通してる都合だから! いいか、レンジャー全員、その辺の都合をわかった上で、それでも守りたい、頼らせたい奴を選んで付き合ってんだよ」
 マサギは目をわずかに見開いた。ルクシオがそっと目を開けて、その瞳の光で同僚の左手薬指に嵌まっている指輪が光った。
 「マサはあの子のこと、どう思ってんだよ。都合じゃなくてお前の気持ちを考えろ。お前はどうしたいの?」
 「……俺は……」
 マサギの瞳が揺れる。同僚はゆっくり言葉を紡ぎ続ける。
 「オレがあの子のこと『イオちゃん』って呼んだ時に、本当に公私のことだけ考えたのか? あの子に頼ってほしいんなら、それはお前がレンジャーだからか? それともマンションで世話んなってるからなのか? 必要な時に傍にいてやれねえかもしれないけど、じゃああの子が頼るのはお前じゃなくても、お前は本当にそれでいいのかよ、十文字マサギ」
 「………!」
 マサギは両手を拳に変えて、ぎゅうっと握りしめた。緑色の瞳が一度揺らめいて光り、その視線は少し下がる。が、それはあてもなく彷徨う光ではなく、探しものを求めて強く輝く灯火の輝きをたたえている。
 「……考えます」
 マサギの声は芯を持っていた。同僚はにやっと笑う。
 「おう。がんばれよ」
 彼はルクシオを揺すって起こし、ベンチから立ち上がった。
 彼らが着替えを終え、荷物を整え、休憩室を出る時になってなお、マサギはずっとそこで瞳を開けて考えていた。


 その夜が明けてから数時間後。日は高く昇り、もうすぐ正午になろうとしている。
 レンジャーの隊服のまま帰ってきたマサギは、マンションの扉の前に立った。自分の部屋ではなく、その二軒隣の扉――イオの部屋だ。
 す、と人差し指を持ち上げて、しばし宙で止まる。少しの間空中を彷徨い、しかし意を決してインターホンを押した。
 「はーい」と、鈴を転がすような声。それが鼓膜を震わせた瞬間、ぶわりと顔中の血の流れが速くなる。かすかな足音がするわずかな間に、マサギは静かに深く呼吸を整えた。どんな現場だって、こんなに緊張したことはない。
 ついにカチャリと扉が開いた。見上げるようにこちらと目を合わせてきたイオが、自分の姿を捉えて一瞬動きを止める。
 「あっ……お、お帰りなさい、十文字さん! お仕事お疲れ様ですっ」
 いつものように敬礼をして挨拶してくれるが、今日のそれは、気のせいでなければほんの少しだけぎごちないかもしれない。その動きを見て、マサギは胸が締め付けられる感覚を覚えた。たぶんずっと前から経験していたが、正体がわからず自覚もなかった感覚だ。
 マサギはその場で膝を折った。片膝をつけばイオの目線の方が高くなり、マサギは少女を見上げた。
 「おはようございます、管理人さん。昨日は弁当、あざっした」
 「えっ……あ、はい! 食べられたんですね、よかった。昨日は忙しいみたいだったから」
 「うす。でも、帰ってこれました」
 「よかったあ。あ、朝ごはん食べますか? ちょうど今から何か作ろうと――」
 「新田イオさん」
 マサギが呼んだ途端、イオの唇が開いたまま動きを止めた。イオの翠の瞳に、マサギの緑の瞳が視線を絡めて、二人は互いの顔を見る。イオのぽかんとした表情が、ちゃんとこの少女がまだうら若い少女であると証明していた。
 その証明にむしろ安堵して、マサギは言葉を続ける。
 「宿題を、やってきました」
 「しゅくだい」
 まるで初めて聞く言葉のように、イオはたどたどしく繰り返す。日がますます昇ったせいか、桜色の頬に一層赤みが差し、もはや苺のようだった。
 マサギは再度、声も音も立てずに息を吸って吐く。何だか少年の頃に戻ったような、やや気恥ずかしいくすぐったさが声を震わせにかかってくるので、ゆっくり口を開くことでどうにか押さえつける。
 「……俺は、ポケモンレンジャーです。アナタも知っての通り、いつ、どこに行くかわからりません。他の誰かを助けるために、アナタを助けたくても、助けられない時があるかもしれません。……それでも俺は、アナタに頼ってほしい」
 イオの瞳は木漏れ日のようにきらきらしている、と、マサギはぼんやり思った。あるいはいつの日か誕生日にもらった、セラフィナイトみたいだ。自分の瞳は、彼女にどう映っているだろうか。
 「はっきり言って、俺の我儘す。頼りにならない時があるかもしれない男に言われるのは、困ると思います。だけど、もし、アナタがそれでも俺を頼ってくれるのなら。俺はその時以外、どんな時でも、どこにいても、アナタの力になります」
 マサギは後ろ手にしていた右手を前に出す。その手でずっと握っていた、赤いバラ三本の包みを、イオの視線の真ん中に差し出した。
 「新田イオさん。これが俺の--十文字マサギの、宿題の答えです。不束者ですが、よろしくお願いします」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?