喧嘩
ピピ、とオペレーションの通信音がした。続いてオペレーターのシャルルの声が聞こえる。
「よ、四時の方向よりEBE接近中……30秒以内に座標に出ます」
「はあい。炎谷、戦いますぅ!」
テッカの合図と共に、飛行形態のアトランティスが変形する。翼は巨大な腕となって背中に貼り付いた。アトランティス本体の両腕とは別に付加されたこの一対の豪腕が、テッカドンの武器だ。
中型のEBEがテッカドンの正面から向かってくる。おおかたこのまま自分を屠るつもりだろう。テッカは武器の腕を大きく広げて腰を落とし、掴みの体勢を取った。
テッカドンに素早い回避能力はない。あるのは、真正面から攻撃を受け止めて尚反撃できる固さと重さだ。
「よっしゃ、来んしゃい!」
言った瞬間、
ドンッ
弩級の衝撃が頭上から降ってきた。間一髪、テッカドンの頭ごとコクピットをかち割ろうと落ちてきたEBEの拳を掌で受けたのだ。ビリビリ震える空気にテッカは歯を食いしばって耐える。
「……っぐ、」
安心はできない。拳がダメなら次は足かもう片方の手が来るはず。テッカドンは受けたEBEの拳を両腕で絡めとり、
「ッオオオ!」
ブオンッと力一杯背負い投げた。一瞬EBEの背に隙ができる。今しかない。
テッカドンの拳がEBEのうなじに伸びた。
「これでどげんと!」
ズゴン!
うなじの肉が凹み、ゴキボキ骨のようなものが折れる音がする。巨大なEBEでも首を折ればダメージはひどかろう。EBEはそのまま、風を切る轟音と共に海の方へ落ちていった。
まず一体。が、休む暇はない。
「次、来ます!」
「りょおかい!」
テッカが振り向いた瞬間、
ズドン
「ごッ」
テッカドンの腹部を、鋭い何かが突いた。感覚を共有しているテッカの腹が熱く焼ける。否、焼けるように痛む。済んでのところで突いてきたEBEの角を掴み、腹部の貫通は免れた。
「危なか、なあ!」
一人言を音頭の代わりにして角をへし折る。折った先端をぐるりと返して、その頭部にズグンと突き刺してやった。存外柔らかい感触が、テッカドンを通じてテッカ自身の腕に伝わってくる。
その触覚にぞわぞわと、背筋を寒気が通っていって、テッカは思わず笑ってしまった。
「つまらんなあ。まだ慣れん」
テッカは頬を伝う汗を肩口で拭う。何かを殴り倒す感触、何かに傷付ける感覚を味わうたび、いまだにテッカは震えてしまう。戦闘訓練で実戦で、さんざん繰り返したことなのに、拳が戦うことに平然とできていない。
「情けなかな。またキッカに怒らるう」
テッカは操縦桿を力一杯握りしめた。握力自体は強い方だ。その拳の力でぐいっと、アトランティスごと動かすように操縦桿を捻った。
「次い!」
――殴ることは慣れていない。殴られることには慣れている。
弟妹を連れて第五層に逃げてから、誰かに殴られることが増えた。
「動くのが遅え、デクノボウ!」
「六層はホントに物覚えが悪ぃなァ!?」
「もう明日っから来なくていい!バカヤロウ!」
配達先の名前の読みがわからず帰るたび。パーツ工場の組み立て手順を忘れるたび。流れる汗を拭こうとして、作業の手を一瞬でも止めるたび。テッカは自分を雇ってくれた大人にゲンコツを食らった。
泣いたって許してもらえない。泣いたら作業の手がさらに止まって、逆にもっと叩かれるだけだ。五層に来て最初の方でそれを覚えた。だから、
「すんましぇん!」
大きな声で返事して、どうにか次の手順に取り掛かる。来なくていいと言われた日には、翌日の出勤を許されるまでひたすら地べたに額をこすりつけた。
第五層の人々は怒りっぽいと子どもの頃は思っていたが、どうやらそれは勘違いだったらしいと、20歳になる手前で気がついた。大人達がテッカに怒っていたのは、恐らくテッカが物覚えが悪い上にまだ体の成長しきっていない子どもで、六層から自分達の層におしかけてきたからだった。その証拠に、テッカの身長が伸びて声も低くなる頃にはだいたいの大人のゲンコツはテッカの頭に届かなくなったし、何とか仕事を覚えられるようになると拳が飛んでくることそのものも少なくなった。それに、五層の人々は壊れた六層を覚えているよりも明日の生活を気にする方が大事なようで、だんだん六層生まれのことも言われなくなっていった。
だから、テッカは殴られ方を知っていても、殴り方は知らないまま大人になった。
ピピ。通信音と共にレーダー座標に点が浮かぶ。小型のEBEが数体、群れを成して向かってくる。方角を合わせるとあっという間に目視できた。
――速か!
今度の敵は妙に細い。棒切れのような足が六本、体の真ん中から伸びている。頭には網目模様のギョロリとした目が一対、ノコギリのような顎がひとつ。背中から薄い膜が生えて忙しなく羽ばたいているが、あれが羽だろうか。羽を落とせば勝てるはずだ。
テッカドンは両腕をぐわっと広げて、敵の突撃を待つ――が、
「あれっ!?」
敵はテッカドンの直前で散開した。突っ込んできた速さのまま、二匹がテッカドンの後ろに回り込む。
――やば、
テッカドンは鈍重だ。振り向くスピードが間に合わない。
EBEの六本足が二匹分、テッカドンにまとわりついて、
ガジリ
鋸の顎が武器腕の接合部に噛りついた。
「ぐ、ぅ、うううおおおおお!」
テッカにしてみれば肩口から腕を引きちぎられる痛みだ。操縦桿を握る腕が悲鳴を上げる。
動きを止めてしまったのは大きな誤りだだった。続けて三体目が真正面からテッカドンを羽交い締めにして、その首筋に歯を立てた。
「うぐぅあ……ッ!」
『テッカさん!』
首の締まる感覚に声が出ず、シャルルにも応答できない。テッカは脂汗を顔中から吹き出しながら操作信号を変えた。操縦対象を背中の武器腕からアトランティス本体の腕へ。これで肩口の痛みからは多少解放されたが、武器腕は動かせなくなった。本体の腕には武器腕のような戦闘力は搭載されていない。
「は、な……しん、しゃ……」
細い腕で正面のEBEの足を掴むが、足の細さに対して驚くほど力は強く、びくともしない。
――つまらん、上ん腕やないと千切れん……!
ぎちりぎちりと、テッカドンの首の繊維に歯が食い込んでいくのがわかる。テッカは思わず操縦桿から手を離し、何もない首をかきむしる。
『テッカさん! 落ち着いてください!』
「う、ぐ……う」
『テッカさん!』
シャルルの声がぼんやりしてくる。キーンと妙な耳鳴りがして、頭が沸騰しそうに熱い。呼吸をしようと勝手に口が開きっぱなしになる。足をばたつかせても首をかきむしっても、首にまとわりつく敵はそこにいない。
――くそ、まだ、まだ……。
コクピットの中で、テッカは一人もがき続ける。
殴り方は、潜航機動隊に入隊してから覚えた。正確には殴り方ではなく戦い方と言うべきか。
テッカドンの武器が拳なのはありがたかった。ろくに武器を使った経験もなければ使える能力も持っていないテッカだったが、腕なら幸い持っていたので、一番自分の身体に近い感覚で動かせる。一つ困ったことがあったとしたら、それは訓練が終わった後も戦いの感覚が手から抜けないことだった。戦闘服から普段の隊服に着替えてからも、食器だとか座学の参考書だとか、そうした普段使うものに触るだけで、訓練でダミーを叩き潰し捻り潰した感覚がぞわりと手を這うようになったのだ。
手を使わなければ生活できないが、手を使うとぞわぞわした緊張が反射的に走る。困ったテッカは周りの第一大隊に、どうしたらいいか聞いてみた。
その結果、「手袋でもしてみたら」と言ったのは誰だったか。提案者いわく、訓練以外の時に手袋をすれば、身体が手袋の感覚を通して戦闘と日常の切り替えを覚えるのではないかと、おおむねそんな理屈だった。素直に「なるほど」と思ったテッカが、隊服を着る時には手袋をするようになったのはその頃からだ。五層の家に帰る時は、弟妹に事情を聞かれるとややこしくなるので外していたが、それ以外の生活では白の手袋をつけた。テッカの浅黒い肌に、その白は妙に浮いていた。
その手袋の提案の時、誰かがこうも言ったのを、テッカは覚えている。
「まだ慣れないの?」
テッカはその時、へらっと笑って答えた気がする。
「ケンカはずっとできんとよ」
幸いだったのは、その自分の不出来でテッカを殴る者が、その場にいた第一大隊にいなかったことだ。
「兄ちゃん、なんでやり返しゃんと?」
一度、ヒャッカに聞かれたことがある。何が原因で怒られたかは忘れたが、とにかくテッカが大人を怒らせて、右目に青アザを作ってきた時のことだ。普段は赤髪の下にたんこぶを作っていたから気づかれなかったが、その時は顔に怪我をしたのであえなく弟妹に見つかってしまった。しつこく理由を聞かれたのにテッカが折れて説明したら、飛んできた質問がこれだった。
テッカはへらりと笑うしかなかった。
「なんでって、ワシが悪かけん。ワシが間違うたっちゃ仕事の邪魔やけん、親方が怒るのもしょんなかよ」
「ばってん、そげん殴ることある? ひどかよ!」
テッカにとっては『しょうがない』で終わることも、ヒャッカにとってはそうではないらしかった。プリプリ怒る妹に、テッカは「しょんなか」としか言いようがなかった。
「兄ちゃんもやり返しゃあよかったとに!」
「そげんこつしたらケンカになっちゃうばい」
「ばってん、やり返しゃんと兄ちゃんがやられてばっかりたい!」
「よかよ。兄ちゃんはケンカできんけん、それでよか」
要らぬ喧嘩は腹が減るし疲れる。それなら喧嘩などしない方がいいし、自分がやり返さなければ喧嘩にならないのならそれが一番よかった。だが、
「……なんでえ? ヒャッカはやだ!」
どうしてか、ヒャッカは火が点いたように泣き出したのだった。
暗闇の中で、ヒャッカの泣き声が聞こえる。真ん中が泣けば末っ子二人、ゲッカとマッカも泣き出してしまう。
――ここはどこやっけ。今は何時?
暗闇なら夜明け前だろうか。弟妹達はまだ寝ているはずだ。
――何で泣いとおと? あー、起きんといけんなあ。
――リッカ、リッカは起きとお?
『リッカは連れてかれたとぞ!』
キ ッカの怒鳴り声がする。そうだ。リッカは連れていかれたのだ。誰に?五層のならず者達に。テッカの代わりに弟妹達を守って。
――リッカ!
テッカが叫んでもリッカはいない。暗闇の中でテッカは一人だ。
そうだ。今ここに弟妹達はいない。みんな海の底のどこかにいる。置いてきたのだ、守るために。ここにはまだEBEがいる。
そうだ、そうだ。自分は今、海の上にいる。
『兄ちゃん、いってらっしゃい!』
どこかで泣いていたはずのヒャッカの声がする。
『ヒャッカも、ゲッカも、マッカも、ムカつくキッカも待っとうとけん! 姉ちゃんも待っとうとけん、負けちゃつまらんとよ!』
そうだ、そうだ、そうだ。
ケンカできない、なんて言っていられない。
戦うのだ。守るために。
殴るのだ。守るために。
『頼むぞ、テッカ。いっちゃんの兄ちゃんよ』
――わかった、じいしゃん。
カッと刮目した視界に、コクピットが帰ってきた。
「ぬっぐ、おおおおお!」
操縦桿をがしりと掴む。操縦対象を武器腕に切り替えた瞬間、肩口が熱された鉄を押し付けたように痛む。テッカは口を大きく開けて空気をかき入れながら、EBEをつけた武器腕で首筋のEBEを掴んだ。
「ッアアア!!」
EBEの頭と体の間に首はない。関節一つで接合されているらしい。武器腕でそれぞれを掴んで、力の限り引いた。
ブチブチブチ!
敵の頭と体が繊維を噴出させながら千切り離れていく。頭は顎が、体は棘付きの肢が刺さるように食い込んだままだ。テッカは武器掌で首筋の顎を握った。その間にも両肩のEBEの歯がテッカドンの繊維を切っていく。
「ふんッ……ぬ!!」
顎を無理矢理こじ開ける。顔の中央からミシミシとEBEの頭が割れ裂かれた。テッカドンの首を絞めていたものがようやっと取れて、テッカの気道に酸素が流れ込んでくる。
「ッカハッ! ゲホッ、ゴホゲホ!」
キーンと耳鳴りがひどい。咳き込んでも咳き込んでも酸素の吸入と二酸化炭素の排出が間に合わない。顔の感覚が戻ってきて、ようやく顔中を覆う涙と汗と鼻水の冷たさに気づいた。
『ぬ、炎谷機、意識回復……! テッカさん、聞こえますか!?』
シャルルの声が耳鳴りの向こうから聞こえる。テッカは言葉の代わりに、片手をふらりと挙げて応えた。その片手もほぼ感覚がなく、カタカタ震えている。
――次、腕の!
焼ける痛みを肩いっぱいに乗せたまま、テッカは右腕を思い切り振り上げ、左肩に向けて、
メシャリ!
一気に振り落とした。拳骨を脳天から受けたEBEの頭が潰れる音がする。
「ッあと、いっぴき……ッ!」
『気を付けて! 首に来ます!』
シャルルの指示に指が反射で動こうとして、しかし上手く動かない。すると、
『炎谷君!』
レーダー内にアトランティスの反応が出た。右肩のすぐ上の空間をブオンとブレードが切り、顎を開けたままEBEの頭が飛んでいく。
未だ痛む首を上げてブレードの柄の奥に目をやると、見覚えのあるアトランティスが滞空していた。00戦で共闘した、坤塿ドモンの戦闘機だ。
「ドモンちゃ……」
『援護に来た。状況は?』
「腕がねえ……上ん腕が、そろそろ千切るうかもしれん」
『了解した。一時帰投するなら援護する』
「にゃは、前ん時とは逆ったいねえ……」
『あの時は世話になった』
テッカは肩で息をしながら、それでもへらりと唇を持ち上げた。00戦では、ドモンの機体の腕が敵に千切られたのだったか。あの時ドモンを担いで運んだ武器腕は、今やほとんど宙ぶらりんだ。
テッカはテッカドンの体にまとわりつくEBEの残骸を剥がして捨てながら、寸の間考えた。すぐに全てを放り投げてから、再び口を開く。
「……ねえ、ドモンちゃん。帰投やなかばってん、悪かっちゃけど頼んでもよか?」
『何だ?』
「上ん腕、ちょっと背中ん側で持ち上げてくれん?」
「? こうか?」
ドモンがテッカの言うままに、背後に回って武器腕を持ち上げる。テッカは歯を食いしばって笑った。
「あんがとお。しょんまま持ってて、くれ、なァ!」
操縦腕を切り替えて武器腕との信号を切る。テッカドン本体の腕を後ろに回して肩口を持ち、勢い良く引き離した。
ブヂブヂブヂン!
『ぬ、炎谷君! 何を……!』
ドモンが驚いて武器腕を離そうとするのを、テッカは「持ってて!」と止めた。
「もうこん腕は振れん。使えんっちゃ背負っててもしょんなか、重かだけばい」
もう片方の武器腕も、テッカドンの両腕で突き放すように千切る。自分で自分にとどめを刺した感覚は何だか奇妙だった。
――だが、取れたとしてもこれはまだテッカの腕だ。
「い、よいしょお!」
テッカはドモンの持つ両腕の、肘関節の接合部に、左右の拳をそれぞれ突っ込んだ。自らのもう一対の腕だったものの繊維の中をずぶずぶ進み、真ん中にある骨組織のパーツを掴む。「離してよかよ」とドモンに言って解放してもらえば、ズシンと今まで背中にあった重みが細い両腕にぶら下がった。
『……炎谷君、これは……』
「にゃは。使えるもんは最後まで使わんとね」
まだテッカドンの腕は残っている。敵を殴れる力が――後ろにいる同僚達を、海底にいる弟妹達を守れる力があるのなら、テッカはまだ戦える。
テッカは痺れる肩口で顔じゅうの液体を拭った。もはや汗なのか涙なのかもわからないが、構っていられない。頭を振って額に貼りつく前髪を振り払い、ギラリと笑ってみせた。
「ケンカはずっとできんとよ。ばってん、やらんとは言っとらん!!」
いこ、ドモンちゃん、とテッカが飛べば、一瞬の後にドモンも飛ぶ。
赤い空に蔓延るEBEが殲滅するまで、まだまだ喧嘩は終わらない。
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