日華
――旧オーストラリア大陸の端のどこかにて。
青い空の下を湿った風が吹き抜ける。どこまでも広がる空から太陽の光が燦々と降り注ぎ、果てなく広がる大地を温める。雲の動きは少し早いくらいで、まだ雨もしばらく降らないだろう。新都心では十二月は冬の月だったが、ここ旧オーストラリア大陸では夏真っ盛りだ。
太古の人類の誰かが住んでいたかもしれない廃墟の骨組みに、海の底から何とか持ち込まれたブルーシートを被せて作られた掘っ立て小屋。その北側、ちょうど日差しを避けられる建物の陰で、簡素な服を着た幾人もの子ども達がひしめき合うようにして座っていた。建物の壁に寄りかかる一人の男を囲んで、彼らは話の続きをねだる。
「ねえ、テッちゃん! そんで、そんでどうなったの?」
「どうって?」
「へんじ! ぷろぽーず、したんでしょ! そのひとに! なんてへんじされたの?」
最前列にいた少女のおませな台詞に、赤髪の男――テッカは思わず吹き出した。日焼けした顔に刻まれた皺が、笑顔の形に深まる。
「プロポーズて。どこで覚えたとね、そげん言葉」
「こないだママがいってた! ノア? っておふねのなかでね、パパにプロポーズされたんだって。これからどうなるかわかんないから、けっこんしてほしいって、そういわれたっていってたよ。テッちゃんもそういったんでしょ?」
「まあ、そうっちゃそうばってん……」
「ママは『いいよ』っていったんだって。テッちゃんがぷろぽーずしたひとは? 『いいよ』っていってくれた?」
テッカは頬の皺をさらに持ち上げて苦笑した。この少女はつくづくヒャッカによく似ている――妙に大人びたところだとか、物言いに躊躇がないところだとかが。
「さあて、どげんやったかなあ。もう二十年も前のことやけんなあ」
「え、忘れたの?」
今度は少女の隣にいた少年が目を丸くする。テッカは「にゃはは」と声を上げた。
「内緒ばい。ほれ、休憩時間は終わりったい。お前ら、お水はちゃんと飲んだと?」
「飲んだー!」
「じゃ、また遊びに行ってよかよ。熱中症に気ぃ付けてな」
テッカが言い終わるや否や、日陰にぎゅっと密集していた子ども達が散開した。各々鬼ごっこやかくれんぼを始めたり、廃墟のあちこちをアスレチックのように登ったりする。
「ケガせんようにな! お昼ん時間には呼ぶけんねえ!」
子ども達の背中に向かって、腹から声を投げかける。そんなテッカの周りを、未だに数人の子どもが取り囲んでいた。彼らはここにいる中でも比較的年上の――かつてのリッカやキッカくらいの年齢の子どもだ。
「テッちゃん、なんか手伝う? 何か取るとか、水飲むとか」
「ん? ああ、大丈夫ばい。ありがとなあ」
テッカが笑うと、掛けていたサングラスが下にずれた。背の高い少女がすかさず手を伸ばし、元の位置に戻す。
「ほい」
「おお、あんがと。よっ、と」
テッカはあぐらを解いて、脚の力だけで立ち上がる。すると、バランスを崩して右足がよろけた。子ども達が慌てて両側から脇腹に抱き着き、テッカの身体を真っ直ぐ立て直す。
「にゃはは、悪かねえ」
「テッちゃん、ほんとに大丈夫? 最近身体の調子悪そう」
「おチビ達も心配してるよ。今はみんな遊んでるけど」
「うん……まあ、年かなあ」
「勘弁してよ、テッちゃんまだ四十辺りでしょ。うちの親とそんなに変わらないよ」
身体の左側でじっとりとテッカを見て文句を言う少年。その目付きは、少しだけ呆れた時のキッカに似ている。その隣で心配そうに眉毛を下げる少女の顔は、まるでリッカのようだ。
「テッちゃんは元機動隊さんだし、後遺症みたいなものかなあ。ふらふらする以外、本当に何ともない? 肩が痛むとかは?」
そう言って、少女は腕のないTシャツの袖を覗き込む。テッカは「こら」とおどけながら身をよじって視線を躱した。
「大丈夫やって。心配かけてすまんとねえ。悪かばってん、一回部屋に戻るばい。チビ達見とって」
少年少女の「わかった」「はあい」との返答を聞き、テッカは頷いて壁伝いに歩き出す。すると男の姿を視界に捉えた幼児達が、
「テッちゃん! あとで『きどーたい』のおはなしのつづきして~!」
アスレチック代わりの塀の上から、手をメガホンの形にして口々に言う。
テッカはへらりと笑って、
「あの話は、あれでおしまいばい!」
そう言い残して、建物の扉を足で蹴って開けた。
EBEやその<女王>との最終戦闘及び新都心からの脱出から、二十年近くが経とうとしている。
辛くも脱出先として目的地にしていた旧オーストラリア大陸に到着した新都心の生き残り達は、枯れた本物の大地と、不安定な本物の空の狭間で生を続けることとなった。かつて階層ごとに文字通り住む世界を分かたれていた人民は全員等しく同じ地の上に立つことになり、貴族も平民も自己と社会の生存のために、自分達ができることをそれぞれ引き受けた。政治や社会の規範の再構築と管理は元第二層出身貴族が中心になり、新天地の開拓作業は元下層住民が元中間層の指示の元進めている。新都心でも同じように分担して世界を構築していたはずなのに、それが分かれた階層ごとではなく同じ空の下ですべて行われていることに、テッカは当初奇妙な感じを覚えたものだった。
テッカ本人はしぶとく最終戦闘を生き残り、潜航機動隊としての任務を完遂して任期を終えた。両腕を失くしたため肉体労働に従事できなかったので、それでも新都心のためにできることを探し、今は労働者達の代わりにその子ども達の面倒を見ている。下は赤子から上は成人直前の少年少女まで、孤児であろうと身元不明であろうと、子どもであるなら誰でも受け入れてきた。結果としてそこそこ大きな規模の施設になり、いつの間にかその長を務めている――尤も、テッカをその肩書で呼ぶ子ども達はほとんどいない。
そんな訳で、あらゆる子ども達の保護施設たるこのプレハブ小屋の中にも部屋遊びをする子ども達がいるし、昼寝している赤子もいるし、成人してからはテッカを手伝って勤めている元子ども達もいる。テッカが足で開けた扉は勝手口だ。カウンターキッチンに続いているので、そこからでも建物の中が見渡せる。ブルーシートが屋根代わりの室内は少し薄暗くて、床はほとんど地面と同化した土間だ。壊れていたのをギリギリ使えるようになるまで修復したシンクの足元で、若い男女が一組、配給された栄養機能食品の箱の開封に追われていた。どちらもこの施設で育った古株だ。テッカが扉をくぐると、青年の方が顔を上げた。
「あ、テッちゃん! さっき郵便が来てたよ。だいたい処理しといた」
「ほんなこつ? ありがとねえ。見とくと」
「テッちゃん、ちょっと休んでなよ。昼からずっと子どもの相手してるでしょ」
少女の方が、表面の削れたカウンターテーブルにパウチゼリーを積み上げながら言う。テッカはカバーが破れている丸椅子に腰掛けてサンダルを脱ぐと、器用に足でゼリーを一つつまんだ。
「よかと? じゃあ、ちょっと出ようかな」
「いいよ。誰かお供につける?」
「いや、よか。すぐ戻れるとこまでにするけん、何かあったっちゃ呼んで。外の奴らには部屋に戻るって言ったけん、こっちにワシば探しに来るかも」
「は~い」
足の指で挟んだパウチ裏の原材料と賞味期限を眺めてから、テッカはぽんとパウチを放る。
カウンターの山の一部と化したパウチを見送り、次いで成長した古株達をしげしげと眺めた。視線に気づいた青年が首を傾げる。
「どうしたの、テッちゃん」
「……ううん。お前ら、大きくなったなあって思っただけ」
「何それ? 変なテッちゃん」
しみじみとしたテッカの言葉に少女がけらけら笑う。テッカもつられて笑った。
「さっきまで機動隊ん頃の話ばしとったけん、思い出しよったと。ここができた頃、お前ら小さかったもん」
「ああ、その話してたの。みんなテッちゃんのその話好きだもんね」
「にゃはは。お前らに会うたの、機動隊辞めてからっちゃけどね。ばってん、あれからほんなこつ大きくなったと。頼りにしとおばい」
「ちょっと、ホント急に何? 恥ずかしいからやめて~」
「ホントだよ。そんな褒めても何も出ねえよ」
くすぐったそうに笑う二人。
「もういいから、ゆっくり休んできてって」
「にゃはは、照れとお。わかった、お昼は頼んだとよ」
「はいはい」
テッカは素直に再びサンダルに足を通して立ち上がった。
「行ってくるばい」
「うん。行ってらっしゃい、テッちゃん」
そんなやり取りを最後に、キッチンから室内を通り抜けて表の玄関に出た。玄関側はちょうど南に面していて、夏の陽気がひとしお効いている。テッカは赤い地面を踏んで道に出た。
開発中である町の中心から外れたこの近辺は、まだ建物も道路も整備が手付かずだ。大人達は皆町づくりのためほぼいないし、子どもも暑さの厳しい南側にはなるべく出ないように聞かせてあるので姿がない。先ほどまでテッカが聞いていた子ども達の喧騒は、建物を挟んで向こう側で響いている。
人間の姿がない殺風景を、テッカはのんびり歩き出す。行き先は特に決めていない。その辺りをぶらぶら散歩するつもりだ。
――そういえば、初めて機動隊で休みだった日も、暑かったっちゃなあ。
我ながらそんな大昔の何でもない一日を覚えていることに驚く。第五層の、管理の行き届かない気候の人口太陽も肌を焼いたが、現在浴びている本物の日差しも容赦がない。それどころか人間の管理が及ばない分、第五層より――下手をすると第六層より、本物の天候は厳しい。だがその厳しさにむしろ懐かしさまで感じて、テッカは今の空を結構気に入っていた。
――あん時やっけ、キッカが怒ったの。ワシが何で機動隊に入れたんかがわからんで、バリ機嫌悪かったとねえ。
一人で歩いていると、昔のことを思い出す。まだ自分に腕があった頃。潜航機動隊に入隊したばかりのこと。学力もろくな腕っぷしもないのに、あの時アトランティスに選ばれたのは、炎谷家では長男のテッカだった。当時は自分だけが入隊年齢に適合していたから召集されたのだと思っていたし、キッカにもそう説明した。
――ばってん、キッカ。ワシ、今ならわかるとよ。
テッカは家族の生活を守るため、召集に応じた。最初は弟妹さえ守れればそれで十分だった。
だが、入隊した先で出会ったのだ。より多くの守りたい人達に。
――たぶんね。たぶん、新都心とか、家族とか、友達とか……好きなひととか。
――そげん人達んために頑張れる奴ば、テッカドン達は探しとったんやなかかなあ。
弟妹のために足を踏み入れた潜航機動隊そのものが、いつしかテッカの大切なものに加わっていた。
彼らの足手まといにならないために、彼らを殉じさせないために。彼らをできるだけ失わないために、彼らの守ったものを守れるように。
どんなにしんどくて、痛くて、苦しくても。そのために戦い切ることだけは、何もなかったテッカにも遂にできたのだ。
きっとテッカドンは、テッカがそんな風に戦い切れることを知っていたから、テッカを呼んだのかもしれない。
――テッカドン、キッカ。お前らば会わせてみたかったなあ。
キッカは自分こそが機動隊に向いていると言っていた。テッカも今でもそう思っているし、キッカには「待っている」と約束した。だがEBEとの戦いなき今、潜航機動隊は解体されて久しいし、アトランティス達ももういない。テッカドンは最終決戦でケラウノスを発動させた時に大破したらしく、テッカが意識不明の間に回収されてしまった。キッカを含めた弟妹達も、独り立ちを見送ってからずっと再会せずにいる。
――ばってん、お前らもワシん弟と妹ったい。どっかで元気にやっとおとやろ。
全く心配していないと言えば噓になるが、それ以上にテッカは彼らを信じている。両腕のない自分が生き延びているのだ。同じ血を分けた彼らもきっとこの広い空の下のどこかで、上手くやっているだろう。
熱を孕んだ風が吹き、汗ばむ肌を撫でていった。あまり遠くまで行かないつもりだったが、いつの間にか子ども達の声も遠くなっている。テッカは完全に町から外れて荒野に出ていた。いつもなら発作が出る前に戻らねばと踵を返すのだが、妙なことに今の足は歩を前に進め続ける。歩き続けようと、何となく思った。
ここは広い。地も空も広い。海はしばらく見ていない。進入禁止区域もなければ殻もない。どこに行くのも、歩く者の自由だ。
日差しは強いし風も熱い。歩くには厳しい気候だが、それでも進退自由であれば、テッカは進む方を選ぶ。
足を踏み出して、交互に動かして。頬を汗が伝う。息が上がる。消えた両腕を振って、赤い髪を揺らす。
はぁっ、と二酸化炭素を吐いた次。酸素を吸おうとしたのに、空気が喉へ入ってこなかった。
「………っ」
ふらりと身体が傾く。支える者はいない。テッカは自分の足で踏ん張って、その反動で仰向けに倒れた。どさっと派手に転がって、地面に後頭部をぶつけた。
――ああ、来よった。
テッカにとってこれは慣れた発作だった。ここ最近、喉が呼吸を受け付けないのだ。海の底で生まれたこの身体が、海上の空気の入るのを拒んでいるようでもあった。だが不思議とそこまで苦しいわけでもない。もっと苦しい思いを二十年前に経験したからかもしれないし、もしくは苦しさすら感じなくなるほど、身体にガタが来ているのだろう。
この発作については風の噂で聞いていた。元潜航機動隊隊員で、似たような症状を訴える者が何名もいたそうだ。大隊長の中で唯一最終決戦を生き残った第二大隊隊長の統宜イズミも、その二年後には発作を起こしたという。彼を含め、発作を起こした元隊員達で、快復した者はいない。
そして、直近の数年間、生存している元隊員の話も滅多に聞かない。
――にゃはは。今度こそいよいよかな。
テッカは試しに足に力を込めようとした。が、酸素が送られない筋肉は脳の指令を聞かない。口を開けても、腹を膨らませても、身体は空気を取り入れない。
どうしようもなくなったけれど、テッカの心は穏やかだった。今までに何度も起きたことだし、その度、次に目を開いた時にはまた肺が動くようになっていた。それに、もし今回に「次」がなかったとしても、小さい子ども達は年上の子らが見ている。お昼ごはんの準備も進んでいるし、郵便は……見ておくと約束してしまったが、処理はしてもらっているから反故になっても何とかなるだろう。
――ミイちゃん、あのね。
テッカは仰向けになったまま、空気のない、唇の動きだけの声を出す。
――ワシ、もうどげんしょうもなかみたいばい。
子ども達にはごまかしたが、テッカは二十年前の話の最後をちゃんと覚えている。後にも先にも一度だけの、プロポーズの返答。
彼女は確かに言ったのだ。「次に会えたら、答えを出す」と。
――もし、ほんなこつ、ワシがここで終わったっちゃ。
――約束、守ってほしかなあ。
父母の顔が目に浮かぶ。まだ弟妹のいない頃、確かに彼らの腕に抱かれていた。
祖父の顔が目に浮かぶ。最後に第六層崩壊の下で目を合わせた時も、彼は笑っていた。
第五層の暮らし。冷たい人もいれば、優しい人もいた。
リッカが、キッカが、ヒャッカが、ゲッカが、マッカが、笑っていた。
潜航機動隊の召集状。初めて訪れた第四層。
そこで出会った仲間達。
隣室のノヅチ。地上に残る僅かな植物の名も、きっと彼なら知っていただろう。
ノヅチと共にいたカナデ。彼は最終戦を生き延びただろうか。
最初に共闘したドモン。いつも頼りになる男だった。
唯一言葉を交わした貴族のキッカ。彼は新しいこの地でも皆を導いていると聞いている。
オペレーションしてくれたシャルル。彼のおかげで最終戦まで進むことができた。
勉強を見てくれたシオリ。テッカが今では何とか漢字も読めるのを知ったら、喜んでくれるだろうか。
そして、愛するミライカ。テッカの生を、生き切ったと認めて、笑ってくれるだろうか。
潜航機動隊の任を解かれて彼らと異なる道を進み始めてから、相当の年月が経った。
子ども達を拾って、集めて、小屋を整えて。援助を受けられるようにあちこち走り回って。
忙しかったが、楽しかった。
しんどくて苦しくて、しかし、間違いなく幸福だった。
足の届く範囲には何もいないが、遠くの方で子ども達の声が聞こえる。もっと遠くでは生きている人々が、いつも通り暮らしている。同じ空の下のどこかに、皆がいる。
それでテッカには十分だった。
空は広く、どこまでも青い。
太陽は厳しくも温かい。
地は堅く、頼もしい。
「よか天気ばい。にゃはは」
テッカは、にっかり笑った。
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