殻が壊れる

 その日の第五層には、霧雨が降っていた。
 排気ガスで汚れた空気中にじっとりとした細かな水滴が漂って、その臭いを天井のついた第五層の空間に閉じ込めてしまう。風もないので不快な湿度が立ち込めていた。
 空は濃い灰色だ。その正体がガスか煙か、はたまた人口の雲かの区別など誰にもつかない。第五層の人間にとって、そんな区別などどうでもいい。空の向こうに超大量の塩水の塊があることも、たぶん気にしている者はいなかろう。
 テッカは剥き出しになった大きな下水道の、高架下の入口にいた。泥の上を濁った水が申し訳程度にちょろちょろ流れて、ひどい臭いを運んでいる。テッカはトンネル状に開いている高架下の暗闇に、ひたりと足を踏み入れた。
 「………。」
 ここは以前、住居を追われたテッカの弟妹が隠れるように住んでいたトンネルだ。前に訪れた時は夜の闇に包まれていたが、昼の今でもその内側は薄暗いままだった。テッカの薄いサンダルが砂を踏んで、ジャリ、ジャリと音を立てる。小さなそれらを冷たい半円状の壁と天井がいちいち反響させた。あとに聞こえるのは、遠くのどこかで工場が稼働している機械音や工事音くらいだった。少なくとも、このトンネルの中で人間が出している音は他にない。ただでさえ霧雨でじめじめした空気が、トンネルの中では一層淀んでいる。その空気が動く気配も、テッカ以外の人間の気配もない。
 中ほどまで歩くと、泥だらけのブルーシートが道の脇に寄せられていた。テッカは歩く速度を落としてゆっくりと近づき、シートの前で止まった。
 そっと青いシートをめくる。人工オートミールの空き缶や空きパックがあった。どれも外側は泥やゴミがついて汚れているが、缶の内側は異様にピカピカしていたし、パックはほとんど紙同然に薄く潰れていた――まるで、最後の一ミリグラムまで惜しんで食べた者がいたかのようだ。
 テッカは拳を握りしめる。今日は手袋をしていないから、爪が手のひらに食い込んだ。
 さらにブルーシートをひっくり返した。が、そこにはもう何もなかった。コンクリートの壁と床があるばかり。テッカはシートをばさりと被せるようにして置き戻す。
 ふとシートのあった場所より先を見ると、そこでドクンと心臓が波打った。飛びつくように地べたに這いつくばる。コンクリートの床に同じくその瓦礫の欠片が落ちていて、その傍の床に欠片で引っかいたような跡がある。直線だけでできた引っかき跡は、確かに『炎谷』と読める形をしていた。
 「……!」
 目を見開いて息をのんだ。心臓は未だに早鐘を打つ。まだ第五層のアパートで暮らしていた頃、一度だけ見たキッカの字に似ていた。漢字の下には『ヌクタニ』とふりがながカタカナで引っかかれていて、隣には『テッカ』から順にきょうだいの名前があった。『ヒャッカ』はキッカのそれより下手な字でいくつも書かれていたし、『ゲッカ』『マッカ』らしき字も二つずつあった――末二人のそれは、キッカの字のもの以外ほぼ字としての形を成していなかった。それから、『テッカ』と『リッカ』は、弟妹の数だけ書かれていた。
 ――キッカ、よか兄ちゃんになったとね。
 テッカは白い文字列を指で撫でるようになぞる。自分も機動隊でしっかり名前を書けるようになってよかったと心底思った。小さな弟妹が次男の教えで自分の名前の形を書けているのに、長男の自分ができないのは情けなかろう。
 床には転々と瓦礫の欠片が落ちていて、傍らに子どものらくがきが残されていた。ひとつひとつ、四つん這いになって追っていく。
 数字と簡単な算数。ところどころ間違っている。
 丸と三角、棒が組み合わさったもの。いくつも似たものを見ているうち、どうやら人間の絵らしいことに気がついた。
 最初に見た名前以外のカタカナ。ひらがなも少しだけあったが、引っかき傷では上手く曲線が作れなかったらしく、簡単なものしかなかった。
 それらのすべてをひとつずつ、テッカはなぞっていく。一歩一歩這って進みながら、見落としがないように隅々まで見る。
 いつしか空から降る人工の光の色が赤色に変わり、光源の向きが傾いてトンネルの出口から強く差し込んでくるようになった。霧雨は上がったらしい。空気の淀みがどんどん薄れて、わずかに風も感じた。
 テッカは四つん這いのまま、トンネルの出口まで来た。相変わらず誰もいないし、トンネルの外にも人の気配はない。肥溜めに等しい下水なのだ、当たり前のことだった。それでも、白い文字は続いていた。
 最後の一歩になったところで、引っかき傷の羅列が二つあった。
 『テッチャン』
 『イッテキマス』
 「……いってきんしゃい」
 思わず掠れた声が出た。自分がどんな顔をしているかはわからなかったが、眉の辺りの力の入り方が変になっているのは感じた。それから変に口角が上がっている気もする。そういえば弟妹たちの『行ってらっしゃい』は何度も聞いたが、『行ってきます』は初めてきくかもしれない。いつだって自分が外に出て、自分が生活の支えを作ってきた。でも、今は彼らが自分たちだけで外に出ている。ここにはいないが、新都心のどこかにはいる。
 その二文をなぞってから、テッカはようやく立ち上がった。トンネルの中に長身の影が、黄昏時の光のせいでもっと長くなって伸びていく。腕を頭上に振り上げて伸びをすると、ぱきんと肩の辺りが鳴った。
 ――もう、よかね。
 妙に肩の力が抜けていた。テッカはそのまま歩き出し、高架下を出ていく。赤い空に向かうように、その方角へ進む。
 トンネルの方を振り向くことはなかった。
 
 
 緊急召集が発令されたのは、テッカがトンネルを抜けてから数日たった頃のことだった。
 潜航機動隊として最初に召集された時より、立っている隊員の数は少ない。もういない隊員の立ち位置の隙間を詰めて並んでいるから、ずいぶんこぢんまりとした隊列だ。自分たちの前に立つ大隊長も半減していて、今は第二大隊長の統宜イズミが今回の任務について話している。隣に立っている緑の隊長服の女性は、第三大隊の鬼燈カレンだ。
 統宜隊長から下された内容は簡潔で率直だった。
 『海底よりEBEの反応アリ。潜航揚陸大海母ノアに新都心の人間を避難させ、新都心を脱出する。ついては全都民に対し避難誘導せよ』
 『また、地上への避難に際して重要な情報を調査する部隊を募る。当該部隊は第一層に降下し、内部を調査せよ』
 この二点が今回の命令の概要だ。
 ――新都心、壊れよるとね。
 テッカはアトランティスの格納庫へ足を運びながら、ぼんやりと思い浮かべた。驚きはしたが、自分でも意外なほど落ち着いている。
 七年前には第六層が壊れて。これ以上新都心を壊さないために潜航機動隊が集められてからは、第四大隊が先に壊れて、第一大隊も第二大隊も壊れて。第三大隊だって無傷ではない。
 今までいろいろなものが、たくさんのものが壊れるのを、なくなっていくのを見てきた。だから、今回はとうとう新都心そのものの番なのだと、そんな気持ちがするくらいだった。
 ――ばってん、ただ壊させたっちゃつまらん。
 もはや帰る家はない。あのトンネルだって空っぽだ。元からテッカ自身の持ちものもさほど存在しない。EBEがモノを、場所を壊したいのなら、むしろくれてやるくらいの気でいる。第六層が壊れた時だって、テッカ達は一からやり直して生きてきたのだ。モノも場所もやり直しがきくことを、テッカはわかっている。
 だが、新都心に生きている人間たちだけは。その命だけは、やり直せない。
 ――ここには、機動隊にはまだ、隊長が二人もおる。キッカしゃま達、第四の貴族しゃま達もおる。偉か人達がおるっちゃ、モノがなくっても何とかなる。
 ――カナちゃんにドモンちゃん。シオちゃん、シャルちゃん。第一の、第二の、第三の仲間もまだおる。新都心のどっかに、リッカもおる。キッカ達もおる。アイツらだけは、連れていかんと。
 テッカは格納庫を、大股で真っ直ぐ進む。前を進む隊員が途中で右へ左へ分かれて、それぞれのアトランティスに上っていく。アトランティスの数も減って、ところどころ格納スペースが空っぽになっていた。
 かつてノヅチのアトランティスがあったところを通りかかる。そういえば、ノヅチの『同居人』達を中庭に植えてそのままだ。彼と作った栞も、彼がくれた鉢植えも、部屋に置いてきたままだった。緊急招集で格納庫に直行したため当然といえば当然だが、それでもその置き土産だけはテッカの胸をチクリと刺した。
 「……ごめんなあ、ノヅっちゃん」
 もし、アトランティスから降りて、海の上の地面に立てたら。そこに植物が根を張って、芽を出すことができたら。
 「また、やり直しさせてね」
 テッカは、へらりと笑ってその空間を通り過ぎた。
 やがてテッカのアトランティス――テッカドンの足が見えてきた。視線を上げると、全長六十メートルの巨体がビルのように聳えている。下から見上げているので全容がわかりづらいが、ところどころシルエットが変わっているように見えた。前回の戦闘で武器腕が両方取れた上、結構な損傷率で帰艦したから、補修と改修が重ねられたのだろう。
 リフトでコクピットまで上昇する。直されたテッカドンを眺めていると、思っていたより様変わりしていることがわかった。太く頑丈に、その引き換えに鈍重に造られていた黒の両脚は、より引き締まって速く動かせそうな形になっている。華奢にも見える細い体躯を、上から装甲が覆っていた。腰の辺りで見えたのはブレードだろう。前回は武器腕が取れたせいで丸腰に近い状態になってしまった。恐らくその対策だ。
 ――ノヅっちゃんとかミイちゃんみたいに上手くブレード使えんっちゃけど、大丈夫かな。
 そう思っているうちから脇の辺りが見えて、テッカは思わず肩を揺らして驚いた。武器腕の形が変わっている。背中から歪に生えていたはずの、太く重く巨大な一対の拳の武器腕と、細く軽いアトランティス本体の腕――以前のテッカドンの腕はその二対から成っていた。それが今では、アトランティスの肩から生えている方が前よりも屈強になっている。かつての武器腕ほどの太さではないが、代わりにスピードを上げて攻撃できそうだ。その両脇の下に取り付けられているのが今のテッカドンの武器腕らしかった。こちらは上の腕よりもしなやかで、ブレードを扱うならこちらの腕だと、テッカは直感した。
 「うわあ……ばり変わりよったとねえ、テッカドン」
 肩口からは背中にランチャーが装備されているのが見えた。武器腕がなくなったから、その分遠距離武器も今までより多く搭載できるようになったらしい。顔立ちも以前のテッカドンとは印象が違う気がした。
 「……? まあ、よかか。たぶんこれで最後やけん、テッカドンも気合いば入れとおとやろ」
 にゃはは、と笑ってコクピットを開ける。――開けた瞬間、目を数回瞬かせた。
 「……増えとる?」
 テッカドンの変わりように驚き、それでも改修されたからと納得してきたテッカでも、さすがにコクピットの座席が増えていることには首を傾げた。自分がいつも座っている席の隣に、もう一つ同じものがある。今回は二人で搭乗するのだろうか。いや、まさか。
 テッカは周りを見渡した。どの隊員も、自分のアトランティスに乗っている。当たり前の風景だ。テッカドンに近づき、それに乗り込もうとしているのはテッカ自身しかいない。
 ――何やろ。
 とにかく今はもう時間がない。テッカは首を捻りながらもリフトを降りて、テッカドンに乗り込んだ。座った瞬間コクピットのハッチが閉じる。モニターが起動して搭乗者情報が映るが、どこをどう見ても『炎谷テッカ』、自分の名前しか載っていない。まもなく第三大隊のオペレーターから通信が来たが、コクピットについて尋ねても確かに搭乗者はテッカ以外にいないとのことだった。
 『アトランティスの状態に異常はありません。コクピットの状況はこちらで確認しますが、可能であれば出撃を』
 オペレーターからそう言われてしまっては、テッカも従うより他はない。テッカドンも自分もオールグリーン。新都心の人間を、一人残らずノアに運ばなければ。
 テッカは鼻の頭に掛けていたブリッジをずり上げた。微かに視界の暗さが増す。
 ヒビの入っていない真円のサングラスは、最後の帰郷で買った、最初で最後のテッカの持ちものだ。
 すうっと、息を吸った。
 「――よっしゃあ! 起きんしゃい、テッカドン! お勤めん時間ったい!」
 コクピット内の空気が震える。テッカドンの目が光ったのが感覚で伝わる。機体の固定ロックが解けて、テッカドンが動き出し、
 
 『相変わらず大声だねえ』
 
虚空のはずの隣から、聞こえないはずの声が聞こえた。
 
 「……え?」
 つい顔を丸ごと右に向ける。振り向いた勢いで、先ほどずり上げたばかりのサングラスがまた落ちた。影が消えた視界に、薄暗いコクピットの中に、誰もいなかったそこに。
 白藤色の髪の、褐色の頬の、マゼンタ色の瞳の女性が、座っている。
 
 「……ミ、イ……ちゃん?」
 
 名刀ミライカは、ふっと笑った。

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