シャチと白花

 たまの休暇には海に行く。妹と揃いのジャケットはなくさないように機関の自室に置いて行って、日の出も始まらないうちに部屋を出る。朝市の品を運ぶ馬車を捕まえて山を越え、まだ人の賑わいの高まらない海辺の街に着いたら御者に礼金を渡してそこからは自分の足で歩く。街を抜けたら浜辺に出る。浜辺を抜けて、そのまま自分の家のように、何の拍子も時機も待たないで、オルカは海に潜っていく。
 オルカは海が好きだ。光の届く浅いところも、陰の濃くなる深いところも。自分の肺が許す限り、オルカはずっと海の中にいる。
 それに、水の中の海流のうねりを聞くのも好きだ。遠い北から、あるいは南から、流れてきたであろう海のうねりは、まるでオルカに土産話を聞かせるかのようにずっと鼓膜に貼りつく。オルカはそのうねりにずっと耳を傾ける。地上では、空気の中では聞こえない声だ。
 ――いつか、「みんな」の声が混じって聞こえやしないだろうか。
 オルカはうねりを聴いている時にいつもそう思う。首に提げた錨の重力に従って、ゆっくりゆっくり青から紺に降りていく途中で、ふとそんな思いが浮かんでくるのだ。でも、その「いつか」を納得できるまで待つより先に、自分の肺は酸素を求めだしてしまう。「みんな」よりも先にオルカの耳に届くのは、妹の呼び声だった。
 ――アニキ。
 ――イルカが呼んでる。帰らなければ……。
 呆れたような少女の声は、しかし自分を地上の人間で、彼女の兄だと思い出させるのに十分な愛らしい声だ。オルカはそこで目をしっかり開いて、錨を腕力ひとつで引き揚げる。錨の重さに負けぬよう、肺の中の残りの酸素をすべて使って水を蹴り、ぐんと上の光を目指すのだ。
 「……ッは、」
海面を破って顔を空気にさらす。久々の空気は風になってオルカの肌を撫でた。勝手に口が大きく開いて、酸素を取り込もうと必死に動く。そこでまた、自分が水の中では生きられない生物であることを思い出すのだった。
 ――魚になれば、もっと深く潜れるんだろうな……。
 いや、海獣の方が身体も丈夫だし都合がいいか。
 呼吸を整えながら、いつも考える。でも、考えるだけだ。オルカは自分が人間だとわかっているし、魚にも獣にもなれないこともわかっている――海の中にいると、それらをすべて忘れそうになるけれど。
 「……帰るか」
 オルカは誰にともなくつぶやく。太陽は蒼穹の頂点を少し過ぎたところにあった。海辺の街はとっくにいつもの活気を見せているだろう。市場に寄って、イルカに土産を買うのもいいかもしれない。
 よし、と気合を入れて、オルカは波をかきわけだす。陸に、機関に、イルカのところに帰らなければ。その思いで海面を割き、泳いで海を去っていく。
 そうしてオルカはいつも、海に置き去りにしていくのだ。
 海の獣になりたいという、幼稚でどうしようもない心を。


 ――話変わって、某月某日。今日は期間主催の、白い花の祭りの日だ。
オルカは機関に所属して以来、初めてこの祭りに参加する。祭りを知らなかったわけではないが、諸事情で参加してこなかったのだ。
 その事情というのが、
 「……なあ、イルカ……この服、ちょっとだけ……ほんとにちょっとだけ、息しづらくないか?」
単純明快、オルカが単に衣装嫌いということである。
 普段のオルカは妹と揃いのジャケット以外、水着と呼んで差し支えない格好をしている。布が肌の上でこすれるのが好きではなかったし、何よりいざという時に水に飛び込むと重くなって泳げない(もちろんそんな「いざという時」をいつでも想定しているのはオルカくらいのものである)。しかし、そんなオルカは今、真っ白なベストとシャツ、長い丈のズボンに白い革靴を身に着けていた。これらはすべて妹のイルカが、祭りに出たいと頼み込む兄のために、心優しくも貴重な休日のうちのひとつを使って町で選んでくれた一張羅である。
 そんな恰好をしていながら鏡の前で珍しく妹に意見する兄を、イルカはじとりとねめつけた。
 「何? アニキが嫌なら、やめてもいいけど」
 「い、いや! そういうわけじゃない! お前が見繕ってくれた服に間違いも嫌もあるわけないだろう!」
 イルカの一言に、途端に大声を出すオルカ。あまりの声量でイルカの髪がなびく。いつもは長い髪をツインテールにしているイルカだが、今回は祭りのために、ころんと丸く結っていた。いつもと違う髪型も果てしなくかわいいとオルカは思っているが、今はそれを賛辞しているほどの余裕がなかった。
 兄の大声に慣れきっているイルカは、何事もなかったかのように会話を続ける。
 「何でいつも首から錨をぶら下げてるくせに、何も提げてない今の方が息苦しいの。がんばってよ、バディ見つけるんでしょ」
 「あ、ああ……ああ! そのとおりだ! 見ていろイルカ、きっと頼れる相棒とともに線上に立ち、お前を守っ」
 「いいから座って、髪やるから」
 秒速で声量を上げる兄の台詞を秒速で叩き切るイルカ。オルカは大人しく鏡の前の椅子に座った。
 「すまんな、イルカ。わざわざ俺の部屋にまで来てもらって、髪まで結ってくれようとは……俺はなんて幸せな兄なんだ……」
 オルカは感慨深くなって、半ば涙声で言う。イルカはすっぱり無視した。それでも、どう考えても放っておけばいつもの適当な結い方で祭りに馳せ参じそうな兄を放っておかず、てきぱきとその黒髪を編む行動は、妹なりの温情かもしれない。
 なぜなら今日は白い花の祭り。戦場に並び立つ、「武器」と「使い手」の唯一無二の一組の片割れを探すための絶好の機会なのだ。すでにバディのいるイルカはともかく、まだバディのいないオルカにとっては、今年こそは何としてでも参加しなければならない祭りだった。まだ見ぬバディが仮に公の場での立ち居振舞いを気にする性格だったら、普段のオルカなど目にも留めないだろう。少しでも出会いの可能性を広げるため、オルカは慣れない着衣までして参加を決めたし、イルカもそんな兄の世話をしてくれている。
 「アニキ、今年こそはバディを見つけてよね」
 イルカが溜息をつきながら髪を紐でくくる。対してオルカは、鏡越しにニッカリ笑った。
 「ああ、任せろイルカ! このオルカ・マリンスノー、お前とワズの姐さんのコンビに並ぶにふさわしいバディを見つけてみせる!」


 「――で、妹にそう強く宣言したものの、現実にはまだ見つかってないと」
 「ウッ……やめてくれ音の兄貴、息がさらに詰まる……」
 宴もたけなわ、祭りも半ば。祭りの会場で一旦イルカと分かれたオルカはしばらく会場をさ迷った挙句、何の収穫もなくテーブルのひとつに流れ着いた。そこで友人2人、音と凛鈴と居合わせたので、状況報告をした次第だ。
 「不思議だねぇ。しゃっちーならすぐにお試しバディからでも見つかりそうだけど~」
 「確かに。お前、いつも『妹のバディになってくれないか』って大声で申し込んでたじゃないか。あんな感じで行けばいいだろ」
 凛鈴と音の言葉に、うーんとオルカは唸る。
 「一応……一応だな、俺も誰かれ構わずイルカのバディにと声を掛けていたわけではないんだ。イルカの得意なこととか、性格とかに合いそうな奴を探していたんだ、俺なりに」
 「だから、それをお前自身に合わせてやってみればいいだろうって」
 「……わからないんだ」
 「わからない?」
 オルカは音の問い返しに、苦々しい顔をして頬を掻く。
 「ああ。正直、俺に合うバディっていうのがどんな人間なのか、想像もつかん。俺の得意なものはまだわかる、苦手じゃないものってことだからな。だが性格となると自分じゃよくわからんし、そうすると気の合う奴ってのはもっとわからないんだ」
 「でも、わからないからこそのお試しバディなんじゃな~い?」
 凛鈴がかわいらしく小首を傾げた。確かに……とオルカは呟くように返すが、その顔は晴れない。
 「だがそうなると、いよいよ誰に声を掛けたらいいかわからん。それこそ最初は誰でもいいってことになるからな。知り合いからと言ったってダチのお前や兄貴にはもうバディがいるし……」
 「はあ、なるほど。それにしたって、いつになく弱気だな」
 音が顎に手を添えて頷きながら言う。オルカは配られたアイスにキバのような歯を立てていたが、それを聞いて氷をバキリと噛み砕いた。もしかしなくてもちょっと図星だ。
 「……弱気っていうか、焦れば焦るほどわからなくなってくるんだ。このままじゃイルカを送り出す立場になってしまう。ワズの姐さんがいるからにはもう安心しているが……何と言うか……まだ不安なんだ。いや、姐さんを信用してないんじゃない……そうじゃなくてだな……」
 オルカは空っぽな頭の引き出しをひっくり返してことばを探すが、うまいこと今の靄がかかった気持ちを表すものは見つからない。仕方がないので、話を進めることにした。
 「とにかく、俺はイルカと同じ戦場に立ちたいんだ。願わくば俺一人がイルカを守る立場にありたかったが、イルカが機関に来てしまった以上、それはもう叶わなくても仕方ない。だからせめて戦地で守れたらと思うんだが……それを考えると、どういう奴が俺と戦ってくれるのか、そこがわからなくて困っている」
 そこまで話して、砕いたアイスが溶け出したことに気づいたので、オルカは残りを口に収める。すると、話を聞いていた凛鈴が、「あっ」と声を上げた。
 「友達のあたしたちがダメなら、友達の友達にすればいいんじゃない? 知ってるよ~、まだバディがいない人」
 「えっ! ほんとか、凛鈴!」
 オルカが一気に目を輝かせて顔を上げる。凛鈴はにこっと笑って、
「ほんと! 呼んでくるねぇ」
「え? あ、ちょ、待て! 俺が契約頼むことになるんなら俺が行く!」
目にも鮮やかな橙色のドレスを翻して会場を駆け出すのを、慌ててオルカは追いかけた。


 「だぁくん! こっちこっち~!」
 「いや何ホントに何!」
 オルカが会場の人ごみをかき分けてやっと凛鈴の揺れる金髪を見つけたと思ったら、そんな声とともにその金髪がこちらに向かってきた。程なく凛鈴が誰かの手を引っ張ってオルカの前に躍り出る。凛鈴に連れて来られたのは、1人の細身の男だった。
 白い盛装に包まれた痩躯に、携えているのは白い花。オルカに劣らず長い髪をかき上げていて、小さな瞳の嵌まった両目が訝しげに凜鈴を見ている。「ウミヘビみたいな奴だな」が、オルカの第一印象だった。
 「だぁくん、しゃっちーがね、バディを探してるんだって~」
 「いやだから、誰、しゃっちー? って」
 凛鈴が呼ぶ自分のあだ名にはたと気づいたオルカは、ずいと一歩前に出た。
 「俺だ!」
 その声と凛鈴が指す指の先で視線をこちらに向けた男の表情が、心なしか若干苦くなる。せっかく凜鈴が紹介してくれようとしているバディ候補に、出会って早々悪い印象を持たれては大変だ。オルカは慌てて、だがしっかりと姿勢を正した。
 男の三白眼を、正面から真っ直ぐ見据える。自己紹介も事情の説明文も何も考えていないが、まあ、なるようになれだ。
 「俺はオルカ・マリンスノー! 今は魔物に滅ぼされた海の町に生まれた男、魔物から育った故郷と妹を守るためにここに来た! 単刀直入に申し込む、仮契約からでも構わない! 俺の……とバディになってくれないか!」
 ――「俺の妹」とうっかり言いかけたのはナイショだ。

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