迷子の慟哭

 灰色の雲が分厚く空を覆う昼下がりだった。砂利と砂が混じる道を、おれはイルカと一緒に登っていた。
 「おなかすいた」
 おれと手を繋いで、おれの少し後ろを歩きながら、小さなイルカはたどたどしくしゃべる。うん、とおれは振り向かずにうなずいた。
 「もうこれが最後の坂だ。これを登ったら、あとは町まで下るだけだから。お昼ごはんにはお家に着くよ」
 「きょうのごはん、なにかなあ」
 「何だろうね。まあ、何が出ても、おばさんたちからもらった果物とパンも一緒に出してもらおうよ」
 おれがちょっと後ろを見て、イルカと繋いでいるのとは反対の手で抱えている紙袋をがさりと振ると、イルカはこくんと首を縦に振った。
 「イルカ、お使い楽しかった?」
 「うん。つかれたけど」
 「わはは! そうだね。隣町って言っても、山ひとつ越えなきゃだもんな。お昼ごはん食べたら、ちょっと昼寝しよっか」
 「お昼寝したら遊べる?」
 「そうだね。父ちゃんと母ちゃんが仕事終わらせてたら、またみんなで海まで散歩に行きたいな。浜辺でさ、貝殻拾いしなよ、イルカ。また兄ちゃんが首飾り作ってや――」
 ズン!
 突然地面が揺れた。おれたちは危うく飛び上がりそうになって、でもおれはとっさに紙袋を放ってイルカを引っ張りこんだ。
 「きゃー!」
 「イルカ!」
 悲鳴を上げるイルカの頭を両手で抱える。おれたちは坂道のど真ん中でうずくまる。何だろう、地震? ぐらぐら山が震えて、気持ち悪くなってくる。がんばって顔を上げて周りを見ると、倒れてきたら怖いことになりそうな木や岩はない。よかった。
 どれぐらい経ったろう、揺れはだんだん収まってきた、気がする。おれの体が震えているのか、まだ地震が続いているのかわからない。遠くの木を見て、その枝が静かになってきているのがわかってから、やっとおれはイルカを離した。かわいそうにイルカは、大きな目にいっぱい涙を溜めている。
 「いまの、なに? こわい……」
 「大丈夫だ、イルカ。もう揺れてないよ。兄ちゃんがいるからな」
 震えるイルカの頭を一生懸命撫でているうち、おれははっと気がついた。海がそばにある町で生まれたおれが、ずっと父ちゃん母ちゃんから言われてきたこと。地面が揺れたら大きな波が海から来る。山まで、高いところまで逃げなきゃいけない。
 「イルカ、がんばれ! てっぺんまで行くよ」
 「やだあ、こわい」
 「大丈夫、兄ちゃんがついてる! てっぺんに行ったら父ちゃん母ちゃんも町から来てくれるはずだ。行こう」
 おれはぐずるイルカの白い手を、半分引きずるみたいに引っ張った。辺りを見てももう紙袋はどこかに転がってなくなってしまっていて、でもおれはあきらめて前を見る。イルカの好きなパンが入っていたんだけどな。
 最初はまた揺れるといけないから気を付けて歩いていたけれど、だんだん気持ちが不安になってきて、おれはどうしても足を止められなくなった。イルカの体重を右の手で引っ張り上げて、歩いて、早足になって、最後は駆ける。
 ――父ちゃん、母ちゃん、みんな!
 昨日の昼に出発したおれ達を、手を振って見送る父ちゃんと母ちゃんの顔が思い浮かぶ。父ちゃんの仕事仲間、母ちゃんの友達、おれの友達、近所のじいちゃんばあちゃん、兄ちゃん姉ちゃん……みんなみんな、あのてっぺんにいるはずだ。
 「みんな!」
 おれは叫びながら山のてっぺんに足を踏み入れた。瞬間、
 「……!」
 「ひっ」
おれの口は閉じなくなったし、イルカはおれにしがみついた。
 山のてっぺんから見えていた町が、消えている。
 町があったところ全部に、海がある。
 どうして? 登る山を間違えた? 町があるのは隣の山のふもと?
 一瞬わからなくなったけれど、海面に浮かぶものを見て、ひゅっとのどが絞まった。だってあの赤い木の破片は、向かいの漁師の家の屋根だ。あそこで波がぶつかっているのは、占い師のばあさんの家のてっぺんだ。――あの船は、ひっくり返って底が浮かんでるあの船の色は、父ちゃんのものだ。
 なんで? 地震が来てからまだそんなに経っていない。波が来るにしたっていくら何でも早すぎる。町のだれもここにいないのは変だ。どんなに見下ろしても、山を登ってくる人は見えない。なんで? どうして? 何が起こってるんだ?
 勝手に息ができなくなっていって、おれはそれをむりやり何とかしようとして、肩を動かして空気を吸って吐く。どくんどくんどくん、心臓がうるさい。ハッハッハッハッ、自分の息つぎがうるさい。汗がどばっと出て服に貼りつく。海は真っ黒で濁っている。
 だけど、濁った水の奥の奥の、もっと奥の黒いほうから、ぎらり。一瞬だけ、何かが光った。
 「……? なに――」
 おれがそれをよく見ようとした時、
 ズン!
また、大地が揺れた。


 「ッイルカ!」
 俺はイルカの手を引こうとして右手を掴み直して、でも手の肉の感触がしなくてぞっとした。見るとそれはただのシーツで、俺はぎょっと驚く。
 「イルカ? イルカ……えっ、あ……夢?」
 慌ててイルカを探して辺りを見回し、俺は山にいないことに気づく。ここは機関の俺の部屋、山であの景色を見たのはもう何年も前のこと。そうだ、俺は昨日戦闘訓練を終わらせて、いつもより遅くに帰ってきて……それからの記憶がない。見下ろすと、恰好が昨日のままだ。どうやら帰ってそのまま寝たらしい。
 じゃあ、今の揺れも昔の夢の一部だったのか? それにしては、やけに感覚が生々しかった。まだ身体中の毛が逆立ってぞわぞわしている。冷たい風に肌が撫でられて、余計に鳥肌が立つ――風?
 俺は顔を上げた。だって俺は普段あまり窓を開けない。隙間風が入ってくるほどボロでもない部屋に、窓を開けない限り風が吹くことはないはずだ。窓に目を向けた俺は、そのままそれを見開いた。
 「何だ……壁が割れてる……?」
 窓が周りの壁ごとなくなって、床に透明なガラスと石の破片が粉々になって散らばっている。本当に地震が起きて、それで崩れたのだろうか。外からの声が、音が、なんだか騒がしい。たぶん、それらを遮断する壁がなくなったから、という理由だけじゃない。
 ――どこかから、血の匂いがする。
 『機関所属者全員に告ぐ。直ちに身の安全を確保せよ! 機関全体が激しい被害を受け、一部の建物が崩壊した』
 いきなり拡声魔法が外から響き渡る。俺の身体が緊張で固くなるのを感じた。
 機関全体が? 建物がホウカイ? ほうかいって何だっけ。とにかくとんでもないことになってる、恐らくそうだ。そうでもなければ拡声魔法なんて使われないはず。
『回復や保護の能力を持つ者は怪我人の保護を! 動ける者は状況の把握と報告を! 戦闘はなるべく避け、救助と身の安全を守ることを優先せよ!』
 怪我人、という言葉で、ぶわり、血が熱くなった。血の匂い。怪我人がいるのか。救助、身の安全。誰の?
 「――イルカ! 兄貴、リンリン!」
 俺は本格的に目が覚めた。そうだ、ここにいるのはイルカだけではない。機関に来てから、大事なものは妹の他にもできた。俺と命を分かつダグの兄貴、恋い止まないリンリン。友達だってここに来てまたできた。
 行かなければ!
 俺は訓練用の籠手を外して床に投げた。枕元に置いた青い籠手をはめる。青褐籠手、俺が転身できない時の武器だ。
 俺は部屋を飛び出す。廊下を挟んで向かいに並ぶ窓もすべてガラスが割れて散っていた。その上をばたばたと人が走って行き来している。
 「西通路に怪我人! 誰か救護行けるか」
 「私、回復できます! 案内してください!」
「第一寮はハデにやられたらしいぞ!」
 「第二寮はガラスが全部割れたらしい」
 声と声の合間に聞こえたその言葉で、俺の身体は動いた。俺が今いる第一寮にはリンリンがいる。第二寮にはダグの兄貴。イルカはこの時間、たぶんもう起きている。
 俺が駆け抜ける通路中に、人の名前を呼ぶ声が飛び交う。俺は走りながら腹に空気を入れた。
 「リンリン! イルカ! どこだ‼」
 大きく叫んで見回しても、鈴を転がすような声も凪のように静かな声も返ってこない。内臓全部が凍りついたみたいにぞっとした。
 ――また、なくしたらどうしよう。
 「リンリン! 兄貴、ダグの兄貴! イルカ、どこだ!」
 さっきまで見ていた夢を思い出す。あれは俺の頭の中の作り話ではない。俺とイルカの昔の記憶だ。後からわかったことだけれど、あの地震は海の魔物が町を襲った結果起きたものだった。海の魔物は海をもってして俺達から町を奪い、親父とお袋を奪い、友達を、みんなを奪った。
 もう何もなくしたくない。そう思って、俺は機関に来たのに。今、その機関が揺れて壊れていく。
 「兄貴! イルカ! リンリン!」
 通路を曲がると瓦礫が道を塞いでいた。俺はそれを飛び越えて、また足を踏みだす。
 もうなくしたくない。もう何も沈ませない。もう誰も奪わせない。
 みんな、みんなどこにいるんだ。
 返事をしてくれ。そばにいてくれ。俺から離れないでくれ。
 「兄貴! リンリンどこだ、イルカ‼」
 俺は叫んで、吠えて、喚く。

 おれはもう何もなくしたくない。

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