飲み会

 その朝、テッカは寝ているのか起きているのか自分でもよくわからないまま目が覚めた。
 「………。」
 ごろり、と寝返りを打つ。最近はどうも調子が出ない。何だかずっと、ぼーっとする。メディカルチェックも受けたが身体に異常はなかった。
 原因は確かめたわけではないが、心当たりがないわけでもなかった。前回、五層に帰った時に、すさまじい怒りを燃え上がらせたのだ。テッカは怒るのが苦手で、ここのところの不調は怒りの反動なのだと思っている。
 ――参っとう場合やなかとになあ……。
 何せ明日は全隊員出撃の日だ。テッカは前衛小隊に配属された。前線で戦うならば、しんどい思いを抱えている暇はない。
 ――どげんかせんとなあ。うーん。
 真剣なのか否かわからない調子でぼさっと考える。するとそこで、部屋のインターホンが鳴った。ノヅチがテッカの部屋のシクラメンの世話をしに来てくれる時間だ。
 「はあい」
 ベッド脇のリモコンでロックを解除すると、扉が開いて緑色の髪をハーフアップにしたいつものノヅチが現れた。おはよお、と欠伸交じりに言うと、ノヅチは首を傾げる。
 「テッカ、最近またこの時間まで寝てるね。起こした?」
 「ううん、ちょうど起きたとこやったとよ。なんや、ここんとこ怠うてねえ」
 「え? 明日は出撃だよ、気を付けてね」
 「にゃは、はあい」
と、テッカはいつもと違うノヅチの様子に首を傾げた。ノヅチの身を包んでいるのは、赤い第一大隊の隊服でも戦闘服でもない。初めて見るその姿は、恐らくノヅチの私服だ。
 「あれえ、ノヅっちゃん、何で隊服やなかと?」
 眠気の取れない声で聞くと、ノヅチは不思議そうに眉間に皺を寄せた。
 「……? 何言ってんの。今日は全隊員休暇って通告あったでしょ」
 「しょうやったっけ……」
 欠伸混じりに言いながらも、そういえば、とテッカは数日前の通達を思い出した。明日の全隊員出撃に備えて、皆が一様に休暇を与えられたのだ。
 やっとテッカのぼんやりした頭が働き始めたところで、シクラメンに水を与え終えたノヅチが部屋の外に向かう。手を振って隣人を送り出すと、テッカはがしがし頭を掻いて、ベッドの上にあぐらをかいた。
 「……何ばしょっかな」
 今までなら、休暇には必ず五層の家に帰っていた。小さい弟妹の顔を見て、リッカから最近の様子を聞いて、安心してから家をまた出ていた。
 今は、その帰る先がない。かと言っても仕事場はここひとつ。働きに行く場所は休みだし、趣味としてどこか行く先もない。
 ――どこにも行けないなら、留まるしかなかろう。
 テッカは黙って立ち上がった。クローゼットから、すっかり着慣れた戦闘服を取り出す。
 指先までボディスーツを嵌め込む。爪先までパンツを穿く。サングラスを探して隊服のポケットに手を伸ばし、しかしそこに探しものがないのを思い出すと、手を引っ込めてクローゼットを閉じた。
 そうしてテッカは部屋を出た。通路にはちらほらと隊員たちの歩く姿が見える。彼らはノヅチのように私服だったり、テッカのように隊服あるいは戦闘服だったりして、いつもならこの時間は朝礼のために皆一方に向かっているところが、今日はバラバラの方向にすれ違って歩いていた。
 テッカがゆっくり歩きながら隊員たちとすれ違っていると、ふとこちらに向かって歩いてくる白藤色の髪の女性と目があった。
 「あ、ミイちゃん。おはよお~」
 「テッカか。あんた、今日は全員休暇だよ」
 「にゃは、さっきノヅっちゃんに言われて思い出したったい」
 テッカがそう言って頭を掻くと、女性――ミライカは呆れたような表情を見せた。
 「あたしには『根を詰めるな』とか何とか言っておいて、自分はギリギリまで訓練するんじゃないか」
 「にゃはは。ばってん、なあんもやることのおてくさ」
 「そうかい。ま、好きにしたらいいさ。じゃ」
 ミライカはその言葉を最後にテッカの右側を通る。テッカも返事して去ろうとして、しかしそこでふと思いついた。
 「ね、ミイちゃん。ミイちゃんってお酒飲む人?」
 「……? それがどうかしたかい」
 振り返るミライカに、テッカはニッと笑う。
 「いやあ、景気づけ? に飲もうかなって。今思いついただけっちゃけど」
 「へえ、あんたも飲むんだ」
 「にゃは。ワシねえ、けっこう飲むとよ! ミイちゃん、夜、暇?」


 「じゃ、お疲れしゃん!」
 「ああ、お疲れ」
 ガチン! とぶつけるように合わせたジョッキを、次の瞬間には二人とも各自の口元に飛ばした。テッカが一気に半分ほど呷り、喉を流れる冷たさに唸りながらジョッキを置いたところで見れば、ミライカのそれはもう空っぽだった。
 「わ! ミイちゃん、飲むん速か! 強かと、お酒?」
 「あはは! あんたもなかなか行けそうじゃないかい」
 「ミイちゃんにはかなわんばい!」
 アルコールが通って熱を持ち出した喉を震わし、テッカが笑う。
 朝のやり取りの後、最終的にテッカはミライカと四層の一画にある居酒屋で飲むことにした。他の知人も誘おうとしたが、ノヅチやドモンは見当たらなかったし、カナデもシオリも確か未成年者だから諦めた。キッカやシロジ達、上層都民や貴族の隊員はとてもではないが気楽に誘える相手ではない。
 四層の居酒屋は五層のそれと同じくらい騒がしくて、しかし五層と違って身なりのこぎれいな人間たちが席の大多数を占めていた。テッカが着たことのないスーツに身を包んだ者や、泥や汚物に汚れていない靴を履いた者が、ジョッキをぶつけて大声で笑っている。テッカは何となく、腰で袖を巻いていたツナギの上半身をしっかり着込んで、首元までファスナーを締めた。
 「ひえ~。ワシ、初めて家以外で飲んだっちゃけど、皆ちゃんとしたカッコしとうねえ。隊服ん方がよかったとかな」
 「いや、よしてよかったんじゃないかい。今、あたしたちは世間の恥ってことになってるんだから」
 「……しょうやったねえ」
 テッカの脳裏に前回の帰省で出会った五層の人々の顔が浮かぶ。ジョッキのもう半分を流し込んで、どん、とテーブルに置いた。
 「ミイちゃん、もう一杯いこ!飲むもん変える?」
 「同じでいいよ。ほら、あんたも飲めるんじゃないか」
 「飲めると思っとったばってん、ミイちゃんのが強か!」
 げらげらと笑うテッカ。酒を飲むと何を言われても楽しく思えて笑ってしまうのは、自分でもよくわかっている癖だ。
 「やっぱワシ、世間のこと何も知らんとねえ。家じゃワシしか飲まんけん、てっきり飲めると思っとったと」
 「ふうん、あんた以外は飲まないんだ」
 「ワシがいっちゃん上やけんね。妹と弟はだいたいまだチビったい。じいしゃんはたまに飲んどったかな……住んどったのが六層やったけん、酒なんてよう手に入らんかったけどね」
 二杯目のジョッキが運ばれてきた。もう乾杯も済んでいるので、テッカもミライカも各々のペースで飲んでいく。テッカは皿に乗った枝豆のひとさやを手に取り、さやから出さないまま齧りついた。
 「六層壊れて五層に来て、いろんなとこで働かせてもろうて……ハタチになった時に、働いとったとこのどっかのおっさんたちに店連れてってもろうて、それが初めて飲んだ時やったかな?あれ以来は店で飲むんは高かけん、ワシでも買える酒だけ買うて家で飲んどったばい」
 「へえ」
 ミライカがジョッキを片手に相槌を打つ。テッカの口は、アルコールが潤滑剤になってますます早く回る。
 「ばってん、リッカ……いっこ下ん妹がね、いっつも『あんま飲みすぎんで』って言うとよ。嫁に行く前から母ちゃんみたいなこと言いよってね、にゃはは!で、ヒャッカがね、これは二番目の妹で、ワシん代わりに言うてくれるんよ。『まだ何杯目とよ!』って。下のゲッカとマッカは酒ん代わりに水ば持ってきて、ワシと飲んでくれるばい」
 「どんどん出てくるねえ。あんたん家、あと何人いるんだい」
 「あと一人たい! ええとね、キッカはねえ、真ん中の弟でね。あいつは頭が良かけん、酒ば飲み過ぎるとどげんなるんか、教えてくれよるんばい。ばってんワシには、よおわからんけん……」
 話しながら、テッカはぼんやりと家のことを思い出した。あの時飲んでいた酒は、今目の前にあるものよりもずっと不味かったし、肴なんてものもほとんどなかった。でも、リッカの心配と、キッカの小言と、ヒャッカの話と、ゲッカとマッカの笑い声のおかげで、賑やかさだけはこの店にも劣らなかった。
 ミライカは早くも二杯目を空けて、それでもいつも通りの様子のままでいる。彼女は本当に酒に強いらしい。
 「あんた、きょうだいの話になると口が回るねえ」
 「にゃはは、しょうかなあ!よう言わるうばってん、自分じゃわからんばい」
 「だろうねえ、その様子じゃ」
 「にゃはは!」
 ミライカの返事にテッカは笑った。べつに可笑しな返事ではないことくらいはテッカもわかっているが、どうにも笑いがこらえられない。酒が入るといつもこうだ。
 「あんた、それじゃ家じゃ何話すことになるのさ。きょうだいにきょうだいのこと話しても何にもならないだろう」
 「んーとねえ、家はチビたちのがよう喋るけん、それ聞いとうとよ! 面白かよお、毎日何かしらやらかしよるっちゃもん。こないだはね、ゲッカが……ひひひひひ」
 「いや、話すなら思い出し笑いしてないで話しとくれ」
 ミライカに言われても、笑い上戸のテッカにはもはや自己制御は不可能だった。ヒャッカの声でゲッカの起こした事件の顛末が再生されて、どうにも腹筋と喉が震えを止められない。
 「つまらん、待ってえミイちゃん! ひひひ、つまらん、アレほんなこつ面白うて……!」
 笑えば笑うほど、弟妹達の顔が浮かんでくる。
 狭いアパートでぐるりと食卓を囲んで話を聞いたこと。自分が飲んでいる途中、よく子どもたちがおもちゃを取っただの、足を踏んだだのケンカをしたこと。夜になったら薄い布団を敷いて、六人並んで雑魚寝したこと。潜航機動隊に招集される前日もそうやって過ごして、たまに帰った時も同じことをした。
 ――もしあの日、ワシらが逃げんかったっちゃ、今日も同じことばしとったとかな。
 しかしテッカの記憶にあるのは、その『もしも』がなかった今日までのできごとだ。アパートは追い出された。リッカとも、ゲッカやマッカとも会っていない。キッカは怒っていた。ヒャッカはリッカとよく似た顔をするようになっていた。五層の薄暗い路地のどこかに、彼らは今も放り出されているのだ。
 「ははは、にゃは……! つまらんなあ、笑いすぎて涙出てきよった。ははははは」
 ぼろぼろこぼれる水を、テッカはぐいっとツナギの袖で拭った。こぼれた分を補うように、ジョッキの中を喉に流し込んだ。
 やっとミライカの方を向けるようになると、テッカはへらりと笑った。
 「にゃはは、ごめんなあミイちゃん、まだ今思い出すと笑えてよう話せんばい。また飲む時に話さしてえ」
 「……何言ってんだい、今日の飲みも始まったばかりで」
 「ほんなこつねえ! ははは」
 テッカは品書きを取った。機動隊に来て勉強したおかげでずいぶんと読める字が増えたが、それでも知らない酒の名前がたくさん並んでいる。
 「飲も飲も! ミイちゃん、次は何ば飲む?」

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