せんか
――きれいやなあ。
ミライカの顔を真正面から見たテッカは、つくづくそう思った。
のんきに感想なんか思い浮かべている場合ではないのはわかっている。ミライカの相貌が美人のそれに当てはまっていることなど、出会った頃から知っている。それでもなお、今の彼女の表情を目にすると、どうしてもその言葉しか出てこなかったのだ。
いつもなら快活に開いて笑い声を溢れさせる唇が、今は弧を描きながら、はにかむような開き方をして。白銀の睫毛に縁取られたマゼンタの瞳が、目尻を少し下げつつ優しく細められて。そしてしなやかな腕の先で、戦闘服に包まれた拳が、テッカに向かって突き出されている。
この拳は、彼女の決意だ。
テッカは眩しくなって目を細めた。今までの人生で見た中で、間違いなく一番きれいなひとが、間違いなく一番きれいに笑っている。笑ってほしいと願ったひとが、これまで見てきた中で一番笑っている。――再び戦場に行くことを選んで、笑っていた。
――前も、こげんことあったなあ。
ぼんやりと思うテッカの脳裏で、第六層が壊れていく様が再度浮かんだ。あの時は祖父が、にっかり笑って自分へ手を伸ばした。あの時もテッカは口を開いて、息を吸って、しかし何も言えなかった。
そして、今も。口を開いて、息を吸って。だが、何も言葉が出てこない。なぜなら、他ならぬミライカが笑っているからだ。
――しょんなら、ワシは。
「……わかった。約束やけんね」
テッカは右手を緩く挙げた。唇の端を何とか持ち上げたが、上手く笑えているか自信はない。突き出されたミライカの拳の前までツイと挙げて、そこで彼女のそれを包むように拡げ――その直前でぴたりと止めた。寸の間逡巡してから、やがて拡げた掌をすぼめて拳に戻す。結局、音も立てずに、拳と拳を付き合わせた。指の背から、彼女の指の細さと柔らかさ、じんわりとした温かさが伝わって、ふるりと肩が震える。ふいに、自分の拳が開いてミライカの拳を掴む光景が目に浮かんだ。テッカは驚き、拳を引き離して下ろした。
「……ミイちゃん」
「何だい」
ミライカもまた拳を下げる。相変わらず微笑む彼女を見下ろして、テッカの赤い髪が揺れた。
「テッカドンに残っとるエネルギー、全部ミイちゃんが持ってって。ちょっとでも足しにしてほしか」
「……いいのかい?」
うん、とテッカが頷く。
「ワシもまだようわからんっちゃけど、ノアもアトランティスもエネルギーが足りとらんとやって。どっちみちテッカドンはもう、ロクに動けん。ただEBEにやらるうためだけに出るくらいなら、誰かんアトランティスにあげた方が、エネルギーの無駄にならんばい」
テッカはへらりと笑った。
「……待っとおけんね、ミイちゃん」
――数時間後。
テッカドンに再び乗り込み、シャルルにミライカのアトランティスへエネルギーを転送するよう頼んだテッカは、何時間と経った今もそのままコクピットに座り込んでいた。必要最小限の通信ができる程度までエネルギーを送ったテッカドンのコクピットは、薄暗く、シンと静まり返っている。薄闇の中、本来足を伸ばして座る席にテッカは片膝を抱えて座り、背中を丸めて顎を膝に乗せ、その姿勢のままずっとそこにいた。
――ノヅっちゃん、ミイちゃん。みんな、今、何ばしよっとかな。
身体を固くしてモニターの方に目を向けているテッカだが、考えていることはずっと機動隊の同僚達のことだった。戦闘中の今、自分以外の誰かの状況をいちいち確認することはできない。ましてや自分が出撃も何もできない現在、連絡を取るとしたらそれはミライカのオペレーションをしているであろうシャルルの手を借りるということで、余計に作戦の邪魔になることを意味する。テッカドンがほとんど屍と化してしまえば、テッカもまた何もできない、生ける屍同然だ。だからせめて何者の邪魔にもならないよう、じっと動かず、勝手に考えごとを続けることくらいしかできなかった。
――ドモンちゃんは、また海ん上に行ったかな。もしかしたらノアに残っとるかも。
シオちゃんもシロちゃんも、どこにおるとかな。
カナちゃんはどげんとやろ。ノヅっちゃんとよう一緒におったけん、今も一緒なんかな。
カナちゃんだけやなか、ノヅっちゃんがよう一緒におった第一の人達も。ミイちゃんも一緒におったなあ。みんな、戦っとおとかな。みんなが一緒におるとこ見るの、好きっちゃなあ。
キッカしゃまは、残ってもらわんとなあ。キッカしゃまだけやのおて、第四の人はみんな。偉か人が残ってくれんと、ワシらはどげんしてよかかわからんっちゃもんね。
「……みんな、帰ってきてほしかなあ」
ぽつり、と言葉が自然に零れた。
――みんなが帰ってきたら、みんなと新都心に帰ったら。
ノヅっちゃんに、鉢に水ばやってもろおて。
シオちゃんとかシロちゃんに、また勉強ば教えてもろおて。
ドモンちゃんとは一緒に戦うことが多かけん、今度は一緒に訓練しょっかな。
――そんで、そんで。
ミイちゃんと――。
『ぬ、炎谷機……応答してください』
突然の音声通信が静寂を切り裂いて、テッカはびくりと身体を震わせた。夢から覚めたように瞬きを繰り返し、慌てて音量を調節する。テッカドンの僅かなエネルギーで全ての通信を聞くためには、音量でさえ節約しなければならない。
「シャルちゃん? どげんした?」
通信をオンにしてシャルルと繋ぐと、彼の小さな音声が、音量調節のせいでさらに小さく聞こえてきた。
『通達です。仮称<女王>の生み出した、全EBEの殲滅を確認しました』
「……! ほんなこつ!? あいて」
テッカは思わず狭いコクピットの中で立ちあがりかけ、頭をぶつけて座り直す。ささいな頭の痛みになど構っていられない。頬に血が昇り、熱を取り戻す感覚がした。
「みんな……みんな、勝ったとね!?」
興奮で震える声で何とか聞く。……だが、いくら待っても、シャルルの返答がない。
「……? シャルちゃん?」
とうとうテッカドンのエネルギーを使い果たしたのかと思ったが、ちょうどそこで、ぼそぼそとした通信音が再び入ってきた。「何?」と聞き返すと、音量が微かに上がった。
『……せ、殲滅を確認したのは、<女王>のEBEです……。その……それで……』
シャルルの声が震えているように聞こえる。エネルギー不足による音声の乱れか、それともテッカの気のせいだろうか。テッカは首を傾げた。未だに痛みが残っている。ざわざわとうなじの毛が逆立ってきた。これは果たして痛みのせいだろうか。
「……そんで……?」
頬に昇ったばかりの血が引いていく。異様に冷たい汗が、ぽたり、と顔を滑り降りて太股に落ちた。
シャルルから『通達』の全てを聞いたのは、それからしばらく後のことだった。
ガン!
テッカはコクピットを蹴って開けた。テッカドンから飛び降り、通路を降りて格納庫を駆け抜ける。今までにないほど息を肺に吸い込んで、今までにないほど足を動かした。
「――!」
格納庫から出た後の通路には、ほとんど誰もいなかった。もう誰もノアの通路を通る必要がないのだ。戦闘は終了した。機動隊員の誰もが、すでに各々の目的地に辿り着いている。
誰かは治療室に。誰かはオペレーションルームに。誰かは格納庫に。
そして、誰かはノアの砲撃の操縦桿の前に。
「……っ、……!」
辿り着けていないのは、おそらくテッカくらいだった。テッカは迷路のような通り道を、がむしゃらに走って、つまずいて、誰かにぶつかりかけて、抜けた。
自動扉の開いた先は、残留する戦闘部隊が海上の様子を確認するためのモニタールームだった。薄暗い室内で、モニターだけがやたら煌々と発光している。青い――青い光だった。
「……っ、はぁッ……」
ルームには何人かの隊員が先にいて、皆一様にモニターに目を奪われていた。テッカは足を緩めて歩を進める。隊員達に混ざってモニターを見上げると、青い光の正体が見えた。海上の様子――赤かったはずの空と、それを映してやはり赤かったはずの海が、すっかりその色を変えているさまだ。
「……青」
テッカは反射的に目を細めながら、指を眉間に置いてしまった。サングラスがないのに気がついて、眉間にしわを寄せたまま手を下げた。
――眩しか。
こげん、青かとこで、こげん眩しかとこで。
テッカの細くなった視界の端で、別のモニターが爛々と文字の羅列を映す。再出撃した隊員達の名前がびっしりと並んでいた。
――再出撃した隊員達のEBE化。彼らを殲滅するため、一部残留隊員に下された射殺命令。
それが、新都心からの『通達』の全てだった。
テッカの目に映る文字の羅列は、半分以上が読めない漢字でできていた。それでも残りの半分のカタカナは、読めるようになってしまっている。
だから、やがて、見つけてしまった。
「……、っ」
口を開けて、息を吸って。だが、何も声にならなかった。
うなだれて、目を閉じて。でも、その文字列が瞼に焼き付いた。
『射殺執行状況』
『嫩葉 ノヅチ 状況:完了』
『名刀 ミライカ 状況:完了』
「………」
音という音が聞こえない。遠くの方で耳鳴りがするばかりだ。
体温も気温も感じない。まるでテッカ自身こそが、ここにいないようだった。
鼻腔を通る呼吸だけが、やたらめったうすら寒い。
テッカは、そのまま立ち尽くしていた。
ノアが新都心に戻るまで、ずっとずっと、立ち尽くしていた。
【嚮導の咆哮:炎谷 テッカ…生存】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?