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キャンバスはまだ白


 昼間の熱気がじんわり残る、ダグシティの夏の夜。濃紺の空は晴れていて、金銀の星が瞬いている。
 その空を渡る夜風を求めて、わたしはアパートの窓を開けた。網戸以外をすべて開けてから、元いた椅子に再び掛ける。すると目の前にはさっきまで見ていたのと同じキャンバスが、相変わらず違和感だらけでそこにいた。
「ううん……やっぱり、この黄色では暗すぎるかしら」
 ぶ?
 わたしのひとりごとに反応したのは、ブビィのキーロだった。わたしのベッドの上でちょこんと座り、ご機嫌で鼻歌を歌いながら壁に掛けたアルス先生の絵を見ていたところを、不思議そうな顔で振り向く。
「ああ、ふふ、違うわキーロ。あなたじゃなくて、絵の具の話よ」
 ぶび
 わたしが手を振ると、キーロはまた壁掛けの絵に向き直った。復活祭で買ったアルス先生の絵は、今もキーロのお気に入りだ。わたしが絵を描いたり本を読んだりしている間、キーロは機嫌良く歌いながら絵を見ていることが増えた。
 わたしも少しだけ、アルス先生の絵を眺める。透き通るような空色に、爽やかな黄色の花。春風がキャンバスから溢れてきそうな温かい絵だ。……やっぱり、アルス先生の絵は素敵。
 息をついて、もう一度自分のキャンバスと向かい合う。わたしが描いているのは、復活祭で見た光景だ。ぶつかりあう紅蓮の炎と白黄の雷――カキョウ先生達とカプ・コケコの鮮烈なバトルのスケッチに、わたしはいまだに色を置いている。復活祭から帰って以降、仕事から帰って寝るまでの合間を縫って作業を続けているけれど、完成までは程遠い。これと思う絵の具を混ぜては試しに紙に乗せてみるが、記憶に残っている赤や黄色とはどうしたって重ならず、塗りの作業がなかなか進まないのだ。
「はあ。カキョウ先生やアルス先生なら、上手に作られるのかしら」
 我ながら馬鹿なことを呟いてしまった。お二人は芸術家なのだ、そんなことはわかりきっている。こういう時、どうしようもなく、お二人はわたしの手の届かないところにいると実感する。
 それでも、それはわたしが手を止める理由にはならない。わたしが色を作らなければ、このキャンバスは白いままだし、わたしの絵の腕も上がらない。わたしが絵を描く手を下ろしてしまえば、その間も絵を描き続ける二人の先生達は、もっともっとわたしの遥か上を進んで、きっといつか見えなくなってしまう。二人は芸術家だけどわたしは学芸員だから、もしかしたらそんなにがんばらなくたっていいのかもしれないけれど、それでも、わたしも絵が描きたかった。
 ――まだまだ、がんばらなくちゃ。
 わたしは筆についた絵の具を水でとき、再びチューブを手に取った。
 その時、
 ぶび!ぶう!
 突然キーロが大きな声を上げた。わたしはびっくりして、危うく筆をバケツに沈めるところだったのを何とか取り直す。
「なあに、どうしたのキーロ?」
 ぶびぶ!ぶ!
 ベッドの方を見てもキーロはいなかった。見渡すと彼はいつの間にか網戸に引っ付いて、わたしを手招きしている。
 ベランダに鳥ポケモンでも来たかしら。わたしは網戸を開けて、外に目をやった。すると、
「――!えっ?何?」
 ダークネイビーの夜空いっぱいに、クリムゾンの光の筋が引かれては消え、また引かれていく。まるでコランダ地方じゅうのドラゴンポケモンが『りゅうせいぐん』を放ったようだ。見渡す限りの赤い流れ星に、隣のキーロは戸惑うようにわたしのズボンの裾を握った。
 ぶび……
「……大丈夫よ、キーロ。大丈夫」
 わたしはキーロの頭を撫でた。スマートフォンには特に危険を知らせる速報は入ってこないし、アパートの外にいる人々も驚いて夜空を見上げているが逃げ惑ってはいない。たぶん、今日は流星群の日なのだろう。
 ――綺麗。……怖いくらい。
 その赤色は、夜の黒紺のキャンバスを彩る絵の具というより、キャンバスを引っかいては傷つけるナイフの跡のようだった。キャンバスが裂けては傷口が閉じていく。そしてまた裂かれて、その繰り返し。確かに美しい赤色だけど、今までに見たことのない赤だからなのか、わたしの背筋がひやりとした。
 ……描こう。
 わたしはキャンバスを入れ替えて、真っ白なそれをベランダに出した。椅子を持ち込む余裕はない。立ったまま、ダークネイビーの絵の具を絞った。
 この赤色の正体が何なのか、わたしにはわからない。でも、どこかに残しておくべき色だと強く感じた。
 
 
 赤い流星群が降った夜から数日後のこと。いつものようにダグシティジムのギャラリーを点検していると、ギセルさんから召集がかかった。
 ジムのバックヤードに入れば、隅にハウンドさんが、中央の椅子には珍しくカキョウ先生までいる。
 わたしが戸を閉めると、先に部屋に入ったギセルさんがテーブルに書類を広げた。
「リーグ本部からの通達です。この度、リーグ協会主催でコランダ地方の二地点について調査を行うことになりました」
「調査ァ?」
 カキョウ先生が、テーブル上の書類をヒラヒラめくる。わたしも上からそのA4用紙を覗き込んだ。『求ム、強力なトレーナー』の文字と共に、コランダ地方チャンピオンの堂々たる姿が載っている。
 ギセルさんは書類を何枚か表に広げながら続けた。
「対象箇所はラーン湾もしくは時忘れの歪。集まったトレーナー達は調査部隊と後援部隊に分かれるそうです。調査部隊は必要に応じて、野生のポケモンとのバトルも担当します」
 書類の中から、二枚の写真が出てきた。ひとつは渦潮がいくつもとぐろを巻く青銅色の海、もうひとつは鬱蒼とした深緑の森の写真だ。
「どちらも出現するポケモンは強力なため、登録可能のトレーナーも相応のレベルを求められています。従ってリーグでは、期間中のジム運営を全休止するとのことです」
「えっ、それじゃあわたし達も調査に向かうということですか?」
 わたしはちょっと驚いてギセルさんに聞いた。ダグシティジム以外の場所で仕事をするとなると、初めての経験だ。
「一応、業務――強制のものではありません。逆に言えばジム休止につきジムトレーナーやジムリーダーも参加可能ですので、向かうかどうかは個人次第になりますね」
 ギセルさんの答えを耳に入れながら、わたしはじっと写真を見つめた。彩度の低い、北方の海と森の色。眩しい太陽の光に輝くビビッドなダグシティの風景にはない色で、遊びに行くわけではないとわかっているけれど、わたしの心は踊ってしまう。
 まだまだ、わたしの知らない、描いていない色がある。どんなに時間がかかっても、どんなに難しくても、やっぱりこの目に焼きつけて描いてみたい。
 バトルだって絵描きだって、できる限りがんばらなくちゃ。
「わかりました。わたし、参加したいです」
 わたしは大きく頷いた。さあ、これから忙しくなるわ。
 海に行くにせよ山に行くにせよ、それなりの用意をしなければ。

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