雪解け


 フィンブルタウンの外れの方に、古い温泉宿がある。元来温泉で名を馳せるフィンブルタウンでは珍しくない存在だが、その宿は、近隣に並ぶ同業のそれらよりも目立って老朽化が進んでいる。看板のペンキは剥がれかけ、吹き抜ける北風を受けてキイキイと揺れている。宿の壁を造るレンガもところどころ崩れていた。庭のいたるところでは雑草が抜かれないままに枯れて、その上に雪が積もっている。そんなお化け屋敷のようなこの宿が、ミユキの実家だ。
 澄んだ青空が地平線の向こうまで続く朝、ミユキは蝶番が半分取れた勝手口を開けて外に出た。広くない裏庭には、いつかどこかを修復する時に使われたきり、そのまま放置された
ブルーシートだとか、タイヤのとれかけた台車だとか、いろんなガラクタが無造作に置かれている。
 ミユキは、枯れた雑草が混じる雪に足を踏み入れ、目を細めて天を仰いだ。
 「やあ、今日はあったけえべなあ。もう春だ。そげに雪かきせんでもええかもなあ」
 真っ赤な頬を持ち上げてふくふくと笑うミユキ。だが、気温が上がっているからといって、積もっている雪が溶けるのを待つわけにはいかないことはわかっていた。だってこれから、ゴミを出したり薪を運び込んだり、それから買い物にも行かなければならないのだ。今日一日も、これから何度もこの道を通るのだから、今のうちにスムーズに歩けるまで路面整理しておかないと。
 「いよいしょ」
 ミユキは肩に担いだシャベルを両手で持ち直す。雪に突っ込むと、ザクリ、と水と砂利の混じった音がした。するとその音に反応するようにして、庭の隅の井戸からポケモンがひょこりと顔を出した。
 ぱう
 「あんれ、タマちゃん。おはようさん」
 ミユキがシャベルから片手を離して振る。タマちゃん、と呼ばれたあしかポケモンのパウワウは、白い身体をよじって井戸から這い出た。そのまま雪の上を進むタマちゃんに、ミユキはいつもどおりののんびりした調子で話す。
 「あったけえから、井戸も凍らんかったべか。よう来たなあ。待っててくんろ、雪かきが終わったら、おやつさ持ってくるだでな」
 ぱう~
 タマちゃんはミユキの近くまで来ると、ころりと雪の上に寝そべった。ミユキは「ふふ」と笑い、改めてシャベルを持ち上げた。


 雪かきが終わってタマちゃんにおやつを分け、ゴミを出し、薪を割って小屋に運び込みきった頃には、太陽はとっくに空のてっぺんまで昇っていた。
 ミユキは自分の背を覆うほどの大きさをしたリュックに、町で買い揃えた食料や雑貨をパンパンに詰めたまま、タマちゃんを小脇に抱えてフィンブルタウンの通りを歩いていた。タマちゃんがいない左手に、母やきょうだいに書かれた買い物リストを挟んで、何度も何度も確認する。
 「ええと、パン買った、砂糖も塩も買った、洗剤もオッケー……あっ」
 ひゅうと風が吹き、小さな瞳が追っていた文字列が手を離れて飛んでいく。ミユキは慌ててもたもたと追いかけるが、向かいから通りかかる人にぶつかりそうになったり、路面に張った水たまりの氷で滑りかけたり。
 えっちらおっちら歩いて、ようやっと地面に落ちた紙片を拾う頃には、すっかり息が上がっていた。それでもメモを拾えたことには安堵して、ぐいと額の汗を拭う。
 「ふう。なくさなくてえかったあ」
 タマちゃんを一旦下ろして帽子を被り直す。ふとその時に顔を上げると、いつの間にか目の前には大きな洋館が聳えていた。フィンブルタウンのポケモンジムだ。
 「わ。ジムまで来ちまったあ」
 その建物には入ったことがなかったが、そんなミユキでも何度か前を通ったことはある。通るたびにその大きさと、ミユキの言葉にできない荘厳さで、思わずため息をついて足を止めてしまうのだ。
 「ほわあ~。相変わらずでっけえなあ」
 建物を見上げ、口をぽかんと開けて感心するミユキ。すると、
 どんっ
 「わっ」
 「うおっ、気をつけろ!」
突然背中のリュックに押され、つんのめって正面からすっ転んだ。どうやらぼさっと突っ立っていたせいで、誰かの通行を邪魔してしまったらしい。
 「あいてて」と四つん這いのまま地面に打った鼻をさすっていると、今度は自分の頭に影が落ちた。
 「大丈夫ですか?」
 ミユキは顔を上げて、その影の主を見た。黒と白の着物を着た女性が、黒銀の髪を垂らしてこちらを見下ろしている。女性の隣では、彼女を支えるようにして薄水色のキュウコンが立っていた。見知った女性の顔に、ミユキは「あんら」と声を上げる。
 「レフテアさ。こんちはあ」
 「はい、こんにちは。お怪我はありませんか」
 「だいじょぶだ。ありがとうごぜえます」
 ミユキはにっこり笑って、「よいしょ」と立ち上がる。レフティア――彼女の名前はレフティアというが、ミユキは『ティ』が言えないのだ――はミユキの服についた泥を払ってくれた。彼女はフィンブルタウンの住人で、ミユキと同じく実家が旅館を経営していることから、なんとなく知り合いになった人だ。
ミユキが立ち上がれば彼の方がレフティアより大きい。少年はぺこりと頭を下げた。
 「レフテアさ、今日はあったけえですねえ。お宿の旦那さも女将さも、お元気ですか」
 「ええ、おかげさまで。ミユキさまのご家族も変わりありませんか」
 「はい。だども、ここしばらく吹雪が続いたもんで、家に食べものがなくなっつまって。久しぶりに晴れたから、ようやっと買い物に出れたです」
 ミユキが頭を掻きながら言うと、レフティアはキュウコンを支えにして、ミユキの背中のリュックを少年の肩越しに覗き込んだ。
 「まあ、いつにも増して大荷物。肩は痛めていませんか」
 「はい、まだまだ持てますだ。へへ、おら、力はあるけんど、トロくって。今もジム見てたら、誰かとぶつかっつまっただ。悪いことしつまったなあ」
 話しつつ、我ながら恥ずかしいところをレフティアに見られてしまったことを感じて、ミユキはぽっぽと顔を赤くした。しかしレフティアはそれを馬鹿にするでもなく、笑って「お怪我がなくてよかったです」と言ってくれた。
 「ミユキさまは、よくフィンブルジムをご覧になっていますね。ご挑戦されるのですか?」
 「いやいやあ、おらなんかがとんでもねえ。みんなから言われるだ、『おめはトロいからトレーナーなんかなれねえ』って。おらもそう思うだよ」
 「まあ、でも、そちらはミユキさまのパートナーでは?」
 レフティアが見下ろす先、ミユキの足元にはタマちゃんがいた。話を振られたタマちゃんは、「ぱう?」と首を傾げる。
 ミユキは笑って首を振った。
 「ううん、タマちゃんはたまにうちさ遊びに来てくれるだけですだ。おらのちっこい頃から、よく井戸の水脈を通って来てくれるんだ。今日は久しぶりに会えたから、一緒についてきてもらってるんです」
 「そうなんですか。ふふ、仲良しなんですね」
 「うん。タマザラシのタマちゃんっていうんだ。めんこいべ」
 ぱ、ぱう……っ
 ミユキがタマちゃんを紹介した途端、心なしかタマちゃんの声が固くなる。突然必死にミユキとレフティアを交互に見上げだすタマちゃんだが、二人とも「可愛いですね」「んだ、めんこいべ」と和やかに笑うばかりで、タマちゃんの真意に気づかない。
 真剣なタマちゃんを見ていたミユキだが、そこでふと我に返った。
 「あ、いけね。まだ買うもんがあっただ。レフテアさ、すまねえけんどここで失礼しますべ」
 「あら、そうでしたか。たくさんお使いされて、えらいですね」
 ではまた、とたおやかな手を振るレフティア。ミユキも手を振り返すと、タマちゃんを持ち上げて抱え直した。持ち上げられたタマちゃんは、どことなく脱力していた。
 ぱ、ぱう……。
 「? なした、タマちゃん。お腹へったんけ? 買い物終わったら、ごはんにすっぺ」
 ぱう……。
 タマちゃんとは対照的に、前を向いてのすのす歩き出すミユキ。
 ――彼は、タマちゃんがあしかポケモンのパウワウであることを知らない。


 「ただいまあ」
 ようやく買い物を終えたミユキは、狭い勝手口に無理やり身体を押し込んで家に入った。タマちゃんはミユキの腕から下ろされ、勝手に足元についてくる。しん、と冷え切った台所についてから、ミユキはどさりとリュックを下ろした。
 「おかえり」
 「わ。た、ただいま」
 ふいに台所の出入り口から、ぬっと人影が現れる。何と言うことはない、ミユキの兄でこの家の長男が、寒そうに身を縮めながらこちらを覗いていた。
 「何ビビってんだよ」
 「う、ううん。誰もいねえと思ってたから」
 ミユキはごまかすように頬を持ち上げて笑う。いつもならミユキがどこから帰ってきたって出迎えなどないし、そもそも家族はみんな暖かい南の部屋にぎゅうぎゅう詰めに逃げ込んでいる。北の台所に出入りするのは、ミユキか、ご飯を作りにしぶしぶ訪れる母や兄嫁くらいだった。
 兄は眉間にしわを寄せて、「オレだってこんなクソ寒いとこ、来たくなかったわ」と零す。
 「でも、お前が帰ってきたら呼んで来いって言われたから。早く荷物整理して、ロビーに来い」
 「え?」
 ミユキは素っ頓狂な声を上げてしまった。ロビーというのはほとんど名ばかりで、閑古鳥の鳴くこの宿では、実質ミユキの家族がリビングとして使っている。今も、みんなはそちらに固まって寒さを凌いでいるはずだ。
 ミユキがぽかんとしているのに耐えかねて、兄が「返事は」と唸った。
 「あっ、わ、わかった」
 「早く来いよ」
 兄はそれだけ言うと、顔を引っ込めた。足早に離れて行く足音が聞こえる。残されたミユキは、タマちゃんと顔を見合わせると、少しだけ眉を下げた。
 「な、何だろう。おら、またなんか悪いことしつまったかなあ」
 ぱう
 ミユキには呼び出される心当たりがないが、鈍臭い自分のこと、気づかないうちに何か失敗してしまったのかもしれない。兄や母に怒られるのは怖かったが、呼ばれた以上は出て行かないと、後でもっと怒られてしまう。
 ミユキは慌ててリュックを開けた。買い込んだ食料を急いで棚や冷蔵庫、床下の貯蔵庫にしまい、洗剤を風呂場に置く。ところどころ手を滑らせながらようやく荷物が片付くと、どすどすと自分なりに全速力でロビーへと廊下を南下した。
 「た、ただいま……」
 息を切らせてロビー――といっても、八畳ほどの狭い空間だ――に入ると、家族がみんな揃っていた。光熱費削減のために、暖炉を使えるのはこの部屋だけとされているのだ。宿の主人である父方の祖父母に母親、二人の兄とその妻子、姉と何人もいる弟妹、そして、部屋の隅っこでちょこんと揺り椅子に座って背を丸めている母方の祖母。この家を住まいとする人々が、入ってきたミユキを見て、ミユキはどきりと緊張した。いつも口喧嘩やささいな言い争い、おもちゃの奪い合いで騒がしいロビーの中が、水を打ったように静まった。
 「来たか。ミユキ、聞け」
 口を開いたのは母ではなく祖父だった。祖父から話しかけられるのはだいたい用事を言いつけられる時くらいだから、ミユキはちょっとホッとした。
 だが、
 「単刀直入に言う。お前、旅に出ていいぞ」
 「……へ?」
次の彼の言葉の中身がわからず、変な聞き返し方をしてしまった。
 家族達はミユキが喋ったのを聞くと、あとは興味を失ったようにそれぞれの会話や遊びに戻る。ミユキが周りを見回しても、目を合わせてくれるのは暖炉の隣にいた母方の祖母だけだった。彼女はじっと、心配するようなまなざしでこちらを見つめている。でも、口を開いたのは祖父だった。
 「前から旅に出たいって言ってただろ。もうお前もいい加減デカくなったし、ちょうど春が来て雪解けが始まった。トロいお前でも、凍え死ぬこたねえだろう」
 「……え、ほ、ほんとう……?」
 ミユキは小さな目を剥いて仰天しっぱなしだった。新人トレーナーが旅を始めるはずの十歳を迎えても、それから一年が経っても、ずっと「無理だ」と却下されていたのに。だからこのところは、ミユキからも何も言っていなかったのに。
 「よ、よかんべか? 家のお手伝いとかせんで……」
 「トロいお前でもできる仕事だったんだ、誰でも代われるに決まってんだろ」
 「だ、だども……なして急に……」
 ミユキが言い淀むと、祖父は大きな溜息をついた。
「うるせえな、理由なんかさっき言ったのでじゅうぶんだろ。口答えすんな。それともなんだ、お前、行く気ねえのか」
 それを言われた瞬間、ひゅうっと胸を風が吹き抜ける感覚がした。今迷ってしまうと、もう二度と、こんな声掛けは自分に来ないと直感する。突然旅に出る許可を得た理由はまだミユキにはぼんやりとしていたが、今はとにかく返事を返さなければ。
 ミユキは騒がしいロビーの中で、祖父に聞こえるように精一杯声を張り上げた。
 「い、行く! おら、行きてえ! 行かせてくだせえ!」


 ――翌日の朝。
 家の勝手口には、ミユキとタマちゃん、そして部屋の隅っこにいた母方の祖母がいた。この祖母は遠い昔、今は亡くなった祖父とともに遠い地方からフィンブルタウンにやってきて以来、宿に嫁いだ娘とここに住んでいる。ミユキより小さく丸い背中の彼女が、ミユキは世界で一番好きだった。
 「ミユキ。気をつけて行ってくるだよ」
 「うん。ばっちゃも体さ気をつけてな。夜のお薬、忘れちゃダメだっぺよ」
 ミユキは祖母の肩からずれかけている分厚いストールを掛け直した。祖母は相変わらず心配そうに眉を下げ、しかしそれでも微笑んでいる。
 「ばっちゃは大丈夫だ。なんも心配せんで、ミユキの行きてえとこさ行って、見てえものさ見ろ」
 「うん。なんでじっちゃが急に許してくれたんかはわかんねえけんど、せっかく許してくれたんだ。おら、がんばっぺ」
 ミユキがにこりと笑うが、祖母の表情は心なしか、あまり晴れなかった。すると「ぱう」とタマちゃんが鳴いた。
 「おんや、タマちゃん。ごめんなあ、おら旅に出んだあ。しばらくおやつはあげられんで、すまんなあ」
 ぱう! ぱうぱう
 ミユキが謝っても、タマちゃんは鳴きやまなかった。それどころか尾ひれの力で立ちあがり、ミユキの腕と体の隙間に潜りこもうとする。ミユキがいつもの癖で抱え込むと、タマちゃんは大人しくなった。
 それを見た祖母が、「あんれまあ」と少しだけ表情を和らげる。
 「タマちゃん、ミユキについてってくれるんけ」
 ぱう
 落ち着いた顔で一声返事するタマちゃん。ミユキは嬉しくなって、
 「ほんと? あんがとなあ、タマちゃん」
空いている手でタマちゃんを撫でる。すると祖母が、懐からボールを一つ取り出した。
 「ほんじゃあ、これはタマちゃんを入れるとええ」
 「ばっちゃ、それ何だ?」
 祖母が差し出したボールを、ミユキは素直に受け取る。白と青、二つの色が波打つ湖面のような模様を描いていた。
 「これは、死んだ方のじっちゃが生きてた頃に使っとったボールの余りだ。ポケモンを捕まえんのに使うべと思って、ミユキにやろうとしとったんだあ」
 「死んだじっちゃの? そげな大事なもん、よかんべか?」
 「ええんだ。ミユキは会ったことねえから知らんだろうけんど、じっちゃは昔、世界中を旅する人だったんだ。旅の途中でばっちゃと会って、ばっちゃと一緒にここさ来た」
 祖母は目を細めた。ボールを持つミユキの手を取り、すり、と撫でる。
 「そげな旅人の孫のおめが、やっと旅に出られんだ。じっちゃも応援しとるべさ。このボールは、じっちゃとばっちゃの応援の気持ちだ。気張ってな、ミユキ」
 祖母の手が離れた。彼女はようやく、にっこりと微笑んでいた。
 ミユキはホッと息をつく。「うん」と大きく頷いた。
 「ありがとう、ばっちゃ。そんじゃあ、おら、行ってきます」
 ぱう
 ミユキはタマちゃんをしっかりと抱え直すと、雑草と雪を踏みしめて勝手口を出る。
 数歩歩いて振り返ると、祖母はまだちょこんとそこにいた。
 ミユキは何度も、何度も振り返って、祖母が見えなくなるまで手を振った。


 コランダ地方で輝く君へ。
 時に転がり、時に穿たれ、その輝きが現れる日がいつか訪れますように。

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