武器の咆哮

 「お前、俺の言うこと聞こえてんの?」
 どれぐらい前のことだったか。ある日、訓練が終わった後でダグの兄貴が俺に聞いてきたことがある。
 俺は最初、聞かれていることの意味がわからなくて首を捻った。
 「聞こえてるぞ」
 「いや、今じゃなくて。転身してる時。お前、すっごくデカくなって高いとこ飛ぶじゃん」
 兄貴は空を指差して言う。転身……俺がシャチになっている時の話か。
 「その時も声は聞こえるぞ。どうしてだ?」
 「……お前、『声』は聞こえてても『言葉』は聞こえてないだろ」
 苦虫を嚙み潰したような顔になって、兄貴はだらりと手を降ろした。「どういうことだ?」と尋ねてみると、「お前はさ」と呆れた表情で兄貴が続ける。
 「イマイチ俺の意思が伝わってないんだよな。さっきも俺の指示と違うとこ行ったし」
 「え! すまん、じゃあもっと大きな声で言ってくれんか? 俺も下向くから」
 「お前、謝りたいの? 俺のせいにしたいの?」
 頭をがしがし掻く兄貴。
 「お前、シャチん時はしゃべれないんだっけ? 意思疎通はできねえの?」
 意思疎通……口から発する声ではなく、念を相手とやり取りする方法か。そういう魔法があるのも知っているし、実際何組かのバディには武器に転身した後も使い手と念のやり取りで会話できる奴らがいることも知っているが、今の俺にはできないことだった。俺は腕組みして答える。
 「魔法はからっきしだからなあ」
 「開き直るな」
 兄貴の、長い前髪の奥に見え隠れする眉間に皺が寄る。
 「お前、何とかして武器ん時でも意思疎通できるようになってくんない? せめて俺の言葉は聞け」
 「わかった。でも、遠くて聞こえない時はどうしたらいい?」
 兄貴は声が小っちゃいじゃないか、と言ったら、兄貴は「そういうことじゃねえんだよ」と返してきた。
 「声の話じゃなくて、言葉の話してんだよ。目の前の空とか敵とかに気を取られすぎんな、俺の言うことを聞こうとしろ。気持ちの問題」
 「気持ちの問題」
 俺は何とかわかった部分を繰り返した。兄貴は俺より頭が良いから、難しい話をたくさんする。声と言葉は、何が違うんだろう。
 「お前、魔法が苦手だから意思疎通できないっつーけどさ。まずは聞け。魔法の技術的な話はそれからだ」
 「うーん。わかった」
 「ほんとかよ……」
 俺の返事にも、兄貴は最後まで顔を晴らさなかった。俺もちゃんと兄貴の言いたいことをわかりきれなかったけど、まあ、兄貴の指示をちゃんと聞けってことなんだろう。でももし、深海みたいに兄貴の声が届かない所に俺が行くことになったら、その時ばかりはどうすればいいんだろうな。
 まあ、何とかなるか。俺は一頭でも戦えるタイプの武器だから。


 瓦礫が邪魔だ。建物に入り込んできた倒木が邪魔だ。崩れた壁から吹き込む風と、何故かそれに乗って降り注ぐ針のような何かが邪魔だ。自分の四肢を庇うのは億劫だったから、傷のつくままにしている。どうせ俺は頑丈だ。
 通路を塞ぐすべてを飛び越え、壊し、ようようやっと俺はリンリンの部屋にたどり着いた。かつてこんなにこの部屋に着くのに時間を食ったことがあったろうか。
 「リンリン!」
 叫んで扉を突き破ると、リンリンはぐちゃぐちゃになった部屋の真ん中にへたり込んでいた。身体が震えている。大きな瞳が揺れている。
 「しゃっちー……?」
 「リンリン! 怪我はないか!」
 跳ぶように近づいてリンリンの前にしゃがみ込む。いつもは美しく波打っている金髪が、今は嵐の海みたいに乱れている。すんと血の匂いがして、俺の頭が熱くなった。どこだ、どこを怪我している。頭、腕、胴、脚……。
 「しゃっちー、あたし……」
 「大丈夫だ、リンリン。俺がいるからな」
 がらり、と音がして奥の方の壁が崩れた。リンリンの肩がびくりと飛び上がる。かわいそうに、顔は真っ青だ。
 幸いどこも大きく腫れているわけでも、大量に出血しているわけでもないらしい。俺はそれだけ確認できると、一応は息を吐いて立ち上がった。
 「リンリン、がんばれ。バディのところまで行こう」
 「しゃっちー、どうしよう。ここが壊れちゃう……」
 「大丈夫、兄ちゃんがついてる!」
 「『兄ちゃん』?」
 リンリンの瞳が、まだ不安そうな色を残しながら、そこに不思議に思う色を乗せる。しまった、俺の中の記憶が何だか変だ。
 「何でもない、リンリン。俺が、このオルカ・マリンスノーがついている。もう二度と沈ませんし、壊させん。俺が守ってやる」
 俺は矢継ぎ早に思い出る言葉をそのまま口にしながら、リンリンの細くて華奢な手を取った。立たせるために引っ張り上げて――頭上の音に気付いた。
 顔を上げる。ぐらり。天井が落ちてくる。
 「!」
 籠手で――いや、防ぎきれん。天井丸ごとだ、逃げ切れん!
 次の瞬間、考える前に転身した。
 ガラガラガラ!
 轟音と衝撃が背中を震わす。機関の部屋はシャチの身体には窮屈だ。それでもリンリンは潰せない。俺はできるだけ身体を丸めて、ヒレの下に彼女を隠した。
 尾びれが部屋の入口を破る。後ろに誰かいたらすまん。頭にも瓦礫が降ってきた。あちこちで皮膚の裂ける感覚がする。氷が何か所か欠けた気もする。
 「しゃっちー!」
 ヒレの下から、リンリンの声が聞こえた。今の俺の視界には、落ちてきた壁と天井の瓦礫しかない。土埃で若干目が痛む。リンリンの姿が映らなくて、声でしか彼女の状態がつかめない。
 ――リンリン、無事か。
 俺はそう言おうと口を開いた。だが、出てくるのは冷気ばかり。そうだ、今の俺に人間の言葉をしゃべることはできない!
 転身を解けば瓦礫が落ちる。だが、今のままではリンリンと話ができない。俺は困った状況になったと気づいた。
 「しゃっちー! しゃっちー、大丈夫⁉」
 リンリンの悲鳴のような声が聞こえる。鈴を転がすような可憐な声音が震えていて、聞くからに不安と心配が伝わってくる。
大丈夫だ、リンリン。そう言おうとしても声は出せない。なんてもどかしいんだ。
 ――ああ、気持ちの問題って、こういうことだったのか。
 俺は唐突にダグの兄貴との会話を思い出した。伝えたいことをそのまま声に乗せて、それで相手に伝わればいい……伝わらないならそれまでだと、俺はどこかで思っていたかもしれない。だが、それは間違いだと、今わかった。だって今、リンリンに俺の言いたいことが伝わらなくて俺は困っている。ダグの兄貴と話がしたいのに、それができなくて困っている。イルカの居場所が知りたいのに、声が聞こえなくて困っている。
 なまじシャチの耳がいいだけに、それをもってしても届かなかった言葉のことを、俺はただの音と切り捨てて諦めていなかったか。俺は本当にあの訓練の日、兄貴の言いたいことを本気で聴き取ろうとしたか。俺は、苦手だからと意思疎通ができないままでいいのか。
否!
 俺は瞼を閉じた。凪いだ海を思い浮かべて、深く息を吸い、吐く。自分の鼓動を聞いて、落ち着くように意識した。
 意思疎通の魔法の式自体は知っている。あとは俺の集中力と意識の問題だ。俺は呼吸に乗せて、言葉を意識して頭に浮かべ、心の中で音にする。リンリンにも聞かせたいが、今の武器たる俺が届けられるとしたら、まずはバディのダグの兄貴が相手だ。
 ――兄貴。ダグの兄貴。聞こえるか。
 届け、届けと俺の他の声がうるさい。何とか邪魔なそれを抑え込みながら、俺は式に合わせて言葉を紡ぐ。兄貴来てくれ、リンリンを助けてくれ。イルカにも聞こえたらいいのに……待て待て、出したい声が多すぎる。集中しろ、言いたいことを絞れ。思ったことをどんどん思うだけじゃダメだ。届くまで、はっきり送り込め。言うだけじゃダメだ。伝えろ。まずは一人に。イメージしろ、俺の伝えたいことを送る相手を。俺のバディを。
 脳裏に、暗緑色の男の影が浮かんだ。

 ――ダグの兄貴、俺の声が聞こえるか!

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