赤いめがね

 「オッケー! 僕、飲み物買ってくるからナナちゃんとろっくんは席に座って待ってて〜!」
 そう言うが早いか、アッくんは黒いコートを翻して注文口に向かってしまった。
 「ア、アッくん……!」
 反射的に呼び止めようとして、でもアッくんがその前に注文の列に並んでしまったから、私の声が萎む。彼に背中を向けられてしまうと、つい『待って』と言いそうになるのは、昔からの癖だろうか。
 本当は一緒に並びたかったし、その間もお話したかったけれど、しょうがない。せっかくアッくんが並んでくれたのだから、私はしっかり空席をキープしておかないと。
 「行こ、ろっくん」
 私は足元にいた大事なパートナーを手招きする。キュウコンは赤い瞳を私の幼馴染にじっと向けていたけれど、やがて尻尾を一振りして歩きだした。
 くるりと周りを見渡すと、ちょうどパラソルが差されたテラステーブルがひとつ空くところだった。タイミングを見て滑り込むみたいにテーブルにつく。ひとつの椅子には私のカバンを置いて、アッくんの席を確保することにした。アッくんは真っ黒なコートを羽織っていたから、日なたの席だと暑いかもしれない。パラソルの日陰が広く落ちる方にカバンを置き、私は少し日が差す方の椅子に座った。ろくたは私の足元に四つ足を畳んで寝そべる。九本もの太い黄金の尻尾が丸まって地面に置かれた。いつ見ても器用なしまい方だなあ。
 「……アッくん、大人っぽくなってたね。ろっくん」
 座ったことで肩の力が抜けた。息を吐きながら言えば、ろくたが尻尾を一本持ち上げて、私の膝の上をぽんと叩く。私が手を伸ばして金の毛並みを撫でても、尻尾は逃げない。
 「アッくんも眼鏡かけてたね、ビックリしちゃった。目、悪くなっちゃったのかな。私も人のこと言えないけど」
 ぽん。また叩かれた。たぶん、ろっくんのこれは相槌だ。
 「……眼鏡、お揃いみたいになっちゃった……」
 ……。あれ、今度は叩かれなかった。
 「どうしよう、何から話したらいいのかな……」
 さあっと風の吹き抜ける音がした。まもなく穏やかな空気の流れが、私の緑の髪を揺らして通りすぎていった。

 私が初めて眼鏡を作ったのは、十二歳の春のことだ。シャラシティのマスタータワーでメガシンカの勉強をしているうち、なんだか目がしょぼしょぼすることが多くなったのでお医者様に相談した。軽い遠視との診断で、本を読む時や近くで細かいものを見る時には眼鏡をかけるといいと教わった。
処方箋をもらった後、ミアレシティの眼鏡屋さんで三時間くらいフレームに迷ってしまったのも覚えている。小さい頃から私の身の回りのものはお父様やお母様が選んでくれたので、自分で選ぶのはほとんど初めてだったのだ。私は元々、二人の選んでくれたものが好きだった。十歳の頃に着ていた緑のスカートも、白い花の帽子とポシェットも、緑の靴もお気に入りで、だから眼鏡屋さんに足を踏み入れた時には眼鏡も緑色のフレームにしようかと思っていた。
 でも、緑のフレームの隣に置いてあったのだ。ルビーみたいに輝くような、赤色の眼鏡が。
 ――私、赤色なんて似合うかな。
 アッくんの色、私にはもったいないかな。
 お父様とお母様は、いつもと違う色を選んだ私に、何て言うだろう?
 誰かに影響されたのなんて聞かれたらどうしよう。誰に影響されたのって聞かれたらどうしよう。
 アッくんのこと、お話することになるのかな……。
 ……なんて、そんなことを眼鏡屋さんの店内でぐるぐる考え続けていたっけ。だけど結局、私は自分の気持ちを一番に優先して、赤い眼鏡を選んだ。幸い、その後の通話でお母様達に眼鏡を見てもらった時も、
 「あら、いつもと違う雰囲気の色にしたのね」
 「いいんじゃないか。ナナちゃんは赤色も似合うね」
と、変に探られるようなことはなかった。数年後にアンジュに言われて気づくことだけれど、当時の私は妙に心配性だった。
娘がたまに違う色のものを選んで、それが赤色だからって、普通の両親はそれを咎めることはしない。私の方が変に心配しているのは、二人の性格のせいではなくて、私がいつまでもアッくんとのことを二人に隠しているからだ。
 ――私、まだ、アッくんのことをお話してないな……。
 先延ばしにするのは良くないとわかっていても、いざ話そうとするとやっぱり勇気が出ない。厳密にいえばアッくんとの思い出のことも両親に話したことはあるのだけれど、彼の名前だけをぼかし続けている。
 私は何を怖がっているんだろう。クサカベ家と仲の悪いクレモリ家の息子と遊んでいたことがバレて、怒られること? ううん。確かに子どもの頃はそれが怖かったけど、今は違う。お父様もお母様も、昔のことで激しく怒るほど感情的な人じゃないってわかった。アッくんと分かれて久しくなった今、もはや彼と遊んでいたことも、子どもの無邪気な秘密として捉えてくれるだろう。隠しごとをしていたことには何か言われるかもしれないけれど。
 だけどクレモリ家のことは嫌がっているから、アッくんを悪者にするかもしれない。それは明らかに間違いだ、だっていつも私が『アッくん、待って』と後ろをついて行っていた。アッくんは何も悪くない。
 ……でも、私の好きな両親が、私の好きなアッくんのことを何か言った時、私は反論できるだろうか。アッくんを守るために、お父様とお母様を否定できるだろうか?
 ――そっか。私、好きなひとを否定するのもされるのも、その両方が怖いんだ。私の好きなひとには、誰も悪者に、嫌われ者になってほしくないんだ。
 そこまで分かった瞬間、胸につっかえていたものが、すとんと落ちたような気持ちになった。ずいぶん気持ちが落ち着いて、軽くなった気がする。怖いものの正体が分かれば、怖くないように対策すればいい。
 やっぱり、アッくんのことをちゃんと二人に話さなくちゃ。クレモリ家とクサカベ家のことは別にして。明るくて優しい『アカリ』という男の子の話を、臆病な『ナナハ』を引っ張ってくれた頼もしい男の子の話を、二人にしよう。
 ふいに、ろくたが前足だけ伸ばして上体を起こした。赤い髪を揺らして、アッくんが戻ってきた。

 「お待たせ~! はい、ナナちゃん!」
 アッくんはニコニコ笑って、飲みものが二杯並んだトレーをテーブルに置いた。子どもの頃は特に思っていなかったけど、今見ると彼の笑顔は人懐っこくて素敵だって感想が浮かぶ。夕方の残光みたいに、赤いまつ毛が弧を描いて細められる目の閉じ方。口元からは八重歯が覗いている。七年前から変わらない笑顔で、私はなぜだかほっとした。
 「ありがとう、アッくん」
 私はアッくんの席からカバンを回収してから、彼の差し出してくれたコップを受け取る。一口飲むと、ミルクティーの味がした。アッくん、私がお茶好きなことを覚えてくれているのかな。
 彼も席に着くと一口飲んで喉を潤した。あ、コートの襟にキーストーンがついてる。
 「アッくんも、メガシンカが使えるんだね」
 「ん? そうだよ~。僕もってコトは、ナナちゃんも?」
 私は頷いて、スカートに付けていたメガブローチを外してテーブルの上に置く。
 「うん! あのね、私、今はメガシンカの研究をしてるの。ホウエン地方で一人暮らししてて」
 「え~! すごい、ナナちゃん学者さんなんだ!」
 「そ、そんな、私なんてまだまだそんなえらいものじゃないよ……!」
 かあっと顔が熱くなった。慌てて左手で頬を隠して右手をぶんぶん振る。
 「あのあの、ほら、七年前の合宿でメガストーンのこと、アッくんが教えてくれたでしょ? 私、あれがきっかけで旅をすることにしたの」
 「そうだったの?」
 「そう! せっかくアッくんと一緒に行った合宿で手に入れたものだったし、せっかくアッくんがメガシンカのこと教えてくれたから。あのままお家に帰るのがもったいなくて、お父様とお母様に言って旅に出させてもらったんだ。カロス地方で勉強してね」
 やだ、私ったらいつもよりすごくお喋りしてる! どこでどう話を着地させたらいいのかわからない。余計なこと、喋ってないかな。
 対してアッくんは、相変わらず微笑んで私の方を向いてくれている。私の座っているところが日なただからか、ちょっとだけ目の細め方が眩しそうだ。
 「あ! そうだ。アッくん、これ」
 私は抱えていたカバンを開けた。中から白いジュエリーケースを一つ、そっと取り出す。指先に少し力を入れてふたを開ければ、真っ赤な石のついたループタイが顔を出した。先ほど、私がアッくんを探すのに使ったものだ。
 「……約束どおり、ずっと預かってたよ。よかった、返すことができて。……また会えて、よかった」
 たぶん頬の赤みは戻っていないけれど、もういいや。私は両手でケースをアッくんに差し出した。
 「あのね、アッくん。私、アッくんのお話も聞きたいな。アッくんは、今何をしているの?」

 ナナが真っ赤な顔を隠して俯く。ぶんぶん右手を振っているのは、何の動きなんだろうな。
 ボクはナナの座っているすぐ隣で、変なナナと彼女を見ているアカリを見上げている。アカリはナナの方を向いて、真っ直ぐ彼女の顔を見ていた。
 ……何だろう。さっきの違和感は気のせいかな。
 ナナが最初に声を掛けた時、アカリは変に気を張っていたように思う。まるで、予想していないところで突然バトルを仕掛けられた野生ポケモンのようだった。七年前ならすぐに「ナナちゃん!」ってアカリの方から寄ってきただろうに、さっきはナナが更に声を掛けるまで動かなかった。アカリにしてはずいぶん大人しい動作だ。ナナが少しは積極的になったのと同じで、アカリの方は腕白が鳴りを潜めたのだろうか。
 ――でも、それにしたってナナ相手に緊張することは妙じゃないか?
 ボクとしては首を捻りたくなるような感覚がするけれど、ナナの方では特に思うところはないらしい。恐らく自分のことでいっぱいいっぱいだろう。彼女はカバンからケースを取り出して、アカリに差し出した。あの箱には、さっきボクが匂いを確かめさせられたループタイが入っている。ナナは七年前から、あのタイを箱に入れて大事に持っていた。あの首飾りが、アカリそのものであるみたいに。
 パラソルの下、太陽の光が薄く遮られているところでケースを開くナナ。アカリは赤い眼鏡の奥で、その瞳を開けて箱の中身に視線を落とす。ボクはその様子を見て――アカリの目が、一瞬虚ろになった、ように思えた。ピントが合わず、ぼやけたままモノを見ている感じ。
 ……何だ、今の。
 ボクが目を細めたと同時に、アカリの目は再び光を得た。ピントがしっかり合ったらしい。時間にしてほんの一瞬だ。
――アカリ、何か変だ。
「あのね、アッくん。私、アッくんのお話も聞きたいな。アッくんは、今何をしているの?」 
 ナナが小首を傾げながら笑う。彼女はまだ何も気づいていない。ここでアカリが素直に変な様子の原因を話すか、言い方は悪いけどボロを出すかすれば、ちゃんと気づくんだろうけど。
 でも、アカリがわざと何かを隠しているのだとしたら……。
 ボクは赤い瞳をアカリに向けた。アカリはナナの方を向いている。ボクの視線に気づいているだろうか。
 ねえ、アカリ。
 キミが今何をしていようと、ちょっと様子がおかしかろうと、ボクは構わないけどさ。
 ナナはキミからの預かりものを、一等大事にしていたんだよ。
 だからナナのことは、キミもそれなりに扱ってくれ。

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