哀歌

 EBEの<女王>の卵たちを殲滅してから、数日が経つ。
 今日の第四層には朝から雨が降っている。午前中の訓練を終えて歩く廊下の窓を、人工の雲から落ちる人口の雫がぽつぽつと叩いていた。
 「………。」
 テッカは歩を進めながら窓の向こうに目をやった。どんよりとした灰色の空が、同じく灰色のビル群と混ざるようにして広がっている。ビルとビルの間では、車が、人が、ちょこちょこと動き回っていた。広い道幅でも足りないくらい、スーツに身を包んだ人間たちがお互いの肩をぶつけないように身を縮めあって歩いている。もう見慣れた光景だが、思うとすればただ一つ、テッカの歩いているこの廊下のだだっ広さを分けてやれれば、といったところだった。何せこんなに広い幅を取るほど、この廊下を歩く機動隊隊員の数はもういない。
 新都心に戻った潜航機動隊隊員の数は出撃前よりぐっと減ってしまった。入隊した頃の光景を思い出すと、機関の中は信じられないほどがらんどうになった。
 対照的に、機動隊の機関の外の人間の数はまったく変わりない。テッカが初めて足を踏み入れた時に目の当たりにして驚いた、その整然としたビル群と忙しなく動き回る一般人の群衆は、海の上から帰ってきてもなおそのままだった。まるで潜航機動隊の自分たちとは、住んでいる世界が異なるようだ。でも、海の下のこの世界を変えずにいられたことにこそ、今回の機動隊の戦果がある。
 それに、前回の00戦の後――第二層の貴族隊員を多く含めた第四大隊の犠牲の結果による凱旋に比べれば、今回の生存隊員に対して、今のところそこまで世間は厳しい目を向けていない。今回の戦死者の割合に大隊や階層の差異がないことや、殉職者リストの最初に第一大隊隊長・神坂タイガの名があることで、世間の溜飲が下がったのかもしれなかった。
 海の下の世の目が冷たくない、凪のような凱旋。これが今回の潜航機動隊の――海の下に帰れなかった隊員たちの遺した成果だ。
 テッカも上手く言葉で表せないにしろ、そのことを何となく肌で感じていた。ただしその感覚を捉えても、胸に深く沈んだ鉛のようなものは取れないままだった。不思議なことに、鉛が胸を圧迫しているような気がするくせに、同時に胸に穴があいてヒュウヒュウと風が通り抜けているみたいな寒気も感じる。
 ――何でやろね。
 テッカにとって、それは初めての心地だった。第六層が壊れた時も、祖父や母が死んだことに気づいた時も、こんな気持ちにはならなかった。第四大隊が壊滅した時も、こうはならなかった。いずれも周りが怒り、悔やんでいるのを傍らで見ながら、自分もいつか『こう』なるんだろうかとうっすら思っているばかりだった。
 でも、ノヅチやミライカがいなくなった今、いざ自分も同じことになったかというとそんなことはなかった。ここにあるのは鉛と風穴だけ。それが意外で、しかも抱えたことのないものばかりで、テッカは困っていた。
 ――これは何とやろ。どげんすればよかとかな。
 誰かに尋ねたくても、誰に尋ねればいいのかがわからない。こういう時にとりあえず話しかけた隣人こそが今いない。いないからわからなくて、わからなくてもいない。テッカの中で、それはずっと堂々巡りしている。
 『――召集。全隊員、一二〇〇までに集会室に集合。繰り返す……』
 無機質な放送が廊下に反響した。一瞬だけ身構えたが、サイレンを伴っていないので出撃命令ではないらしい。
 テッカは窓から目を離して、歩く速度を少し早めた。

 召集の内容は、簡単に言えば殉職隊員の部屋の整理についての話だった。
 帰還から数日が経ち、殉職者の遺族への連絡もほとんど済んだらしい。その上で、遺族への見舞金や遺品を送れる隊員もいれば、身寄りがなかったり遺書であらかじめ連絡を絶っていたりして、遺った荷物の行方が定まっていない隊員もいるのだという。とはいえ少なからず遺されたものをそのままにしておくわけにもいかないので、こうしてテッカたち残留隊員に整理の伝令が回ってきたのであった。
 召集が解散された後、指定された部屋まで向かったテッカは、
 「……あれ」
思わずそう零した。よく通る道だと思いながら辿っていたが、着いてみれば隣は自分の部屋だった。つまり、目の前のこの部屋は。
 「……ワシらが、ノヅっちゃんの……」
 「テッカさん」
 扉に刻まれた隊員番号と『嫩葉ノヅチ』の文字を目で追っていると、聞き覚えのある声が背中に掛かって振り向いた。薄い金色の髪を一つに括った青年が立っている。赤色の第一大隊服に包まれた姿は、テッカもよく知っていた。ノヅチやミライカがよく一緒にいたのを見かけていたからだ。名前は確か、響岐カナデ。
 「カナちゃん。カナちゃんも一緒とね」
 テッカはノヅチと比べればカナデと話したことはあまりなかったが、一度、諸事情で一緒に帰艦の外まで買い出しに行ったことがあった。カナデの方はそれを覚えているかわからないけれど、テッカの方はそれ以来知り合いとして認識している。誰が自分とカナデをノヅチの部屋の担当にしたのかは知らないが、とにかく知っている人とともに知っている人の部屋を訪れるのは、知らない隊員と知らない隊員の部屋に入らなければならない状況よりもよほど気が軽い。
テッカが胸をなでおろすのと同時に、カナデが軽く会釈した。
 「はい、よろしくお願いします」
 「うん、よろしゅう。……開けると」
 テッカはカードキーを取り出す。ノヅチのものではなく、機動隊本部から貸与されたマスターキーだ。センサーに当てると扉の解錠音が聞こえた。
 「……ノヅっちゃん、入るばい」
 ノヅチがいないのに、テッカはぽろっと言ってしまった。家主以外の人間の入室に反応して、自動照明が点灯する。
 ノヅチの部屋は整然としていた。テッカは何度かノヅチの部屋を覗いたことがあるが、どの時ともさほど変わりない。変化があるとしたら、入隊したばかりの頃より部屋に置いてある植木鉢の数が減った、ような気がする。以前はテッカの部屋にも置かざるを得ないほど、緑色で一杯の部屋だった。
 テッカとカナデは部屋の真ん中まで進む。
 「さてっと……どっから手ぇつけんとかな」
 テッカは壁に飾られたツタの葉を指ですくった。ノヅチが出撃前にしっかり水をやったらしく、まだ瑞々しい。
 「こん子らも、こん部屋ば出んといけんとや? ノヅっちゃんが大事にしてたとに」
 部屋を追い出された草木はどうなるのだろう。遺品として、ノヅチの知る誰かの手に渡るのだろうか。それとも処分対象として処理されてしまうのか。後者を想像したテッカは、拳を固く握りしめた。
 ――そんなん、嫌ったい。
 なぜだかわからないが、ノヅチの大切なものが大切にされなくなってしまうのはとても嫌な気持ちになった。もう大切にする本人もいないし、テッカに大切にできる力もないが、それでも。
 すると、カナデが部屋の奥の机に向かった。よくノヅチがその正面に座っていた机だった。
 机の上をなぞるように見て、その下の引き出しを軽く引く。引き出しはカナデの手に従ってするりと開いた。
 「テッカさん」
 カナデが呼んだ声に気がついて、テッカがツタの葉から手を離す。カナデの手元を覗き込むと、彼の手には白い紙が一枚乗っていた。引き出しの一画にスペースが空いているから、元はそこに置いてあった紙のようだ。
 「何、カナちゃん」
 「……遺書が、あります」
 「イショ?」
 カナデは紙を広げた。その中身を見たテッカは、その目を大きく見開いた。
 そこには、『これを読んだ人へ』という一文から始まる、ノヅチの筆跡の文字列が並んでいた。

 数十分後、テッカは一人で中庭へ続く廊下を歩いていた。両手にはいっぱいの植木鉢を抱えている。テッカが一歩歩くごとに、わさ、ふさ、と鉢の中の葉が揺れて、土の匂いがほんのりと鼻腔をくすぐる。
 ――今日、雨でよかったかもしれん。お前らがちゃんと水ば飲めるけんね。
 テッカは鉢を抱える腕に力を込める。その脳裏に、しばらく前、カナデとノヅチの遺書を読んだ時のことが浮かんだ。

 『部屋の植物を全て中庭に植えるか自由にしてあげて』。

 ノヅチの遺書の最初の一文を読んだテッカは、そっと息を吐いた。
 ――さすが、ノヅっちゃんったい。ちゃんと考えとったとね、こん子ん達んこと。
 あんなに草木を大切にしていたノヅチの心が、いなくなってもなおまだこの手紙の中にいるような気がする。よかった、と思って、その続きに目を移した。

 『俺のジャージは第一大隊の響岐カナデへ』。

 「カナちゃん」と声を掛けると、「すでに受け取っています」と返ってきた。

 『左手の指輪は2つとも第一大隊の入楸ノゾムへ』。

 この隊員の名前も聞いたことがある。しかし、ノヅチの左手も、この女性も、もういない。カナデのように、ちゃんとノヅチの望むところにあるのならいいのだが。

 『第四大隊の泳キッカにはこれと一緒に入っていた紙を』。

 カナデが紙をめくると、確かにもう一枚、丁寧にたたまれているものが彼の指に挟まっていた。「あとでキッカしゃまに渡さんとね」とテッカは呟く。
 その後は、机の鍵のこと、指輪とジャージ以外のものは燃やすことなどが続けて書いてあった。『カナデもノゾムも、誰も生きていないのなら、指輪もジャージも全て土に埋めて』という一文を見た時には、もう一度溜息が出てきた。
 「よかったと。カナちゃんが生きとって」
 「……。」
 最後は、

 『家族は誰もいないから、俺の死を知らせる必要はない。そしてこれを読んで、全てが終わったら破り捨てて。』

その一文で締めくくられていた。
 「……。」
 テッカは眉間にしわを寄せて目を細めた。ノヅチとはかつて弟妹の話をしたはずで、彼には確か姉妹がいたはずだ。
 だが、その疑問も首を振って追い出した。テッカだって今となっては弟妹を守るために、彼らの元へ帰る道を絶っている。きっとノヅチも、何かしら事情があるのだろう。
 とにかく、テッカはようやくすべきことを理解した。
 「カナちゃん、上からやってこう。ワシ、葉っぱたちば庭に送ってくると」
 そう言ってできる限り多くの植木鉢を抱え、テッカはカナデを残してノヅチの部屋を出発したのだ。
 中庭に出ると、吹き抜けの天井から雨がしたたり落ちていた。傘を忘れた、と思ったが、どうせ持っていても両手がふさがっていることに気づき、テッカは一人で苦笑した。
 ――そういえば、前にもノヅっちゃん、ここで濡れとったっけ。
 赤髪も隊服も雨に濡らさせるままにして歩きながら、ぼんやり思い出す。いつ、どういう経緯だったかは忘れたが、以前ノヅチが雨の降りしきる中庭で土いじりをしていたところを、テッカが見つけたのだ。
 『風邪引くとよ、ノヅっちゃん!』
 テッカは頼まれてもいないのに、慌てて傘を持って行った。その時のノヅチが何と言ったか、もうほとんど覚えていない。そんなに特別な会話でもなかったし、自分たちにとっていつもと変わらない、当たり前の毎日の一部だった。だから、覚えていられなかった。
 ――ちゃんと、覚えとけばよかった。
 ばしゃばしゃと水たまりを踏むブーツが泥水で濡れていく。冷える足元にも構わず、テッカはノヅチのいたところにしゃがみ込んだ。丸めた背中を雨が打つ。そっと置いた植木鉢から伸びる柔らかい緑の上を、雫が跳ねていく。
 テッカは手袋を取った。そういえばノヅチも、いつの頃からか手袋をするようになった。手袋をし始めてからしばらくは、なんだかノヅチが出会った頃と違う人物のようにも見えたものだ。結局は、ノヅチはノヅチ、とテッカの中で結論づいたけれど。
 ――いつの間にか、あん中に指輪もしとったとね。
 素手で土を掬う。植物の植え替えは、やったことがない。すべてノヅチの見よう見まねだ。
 土を掘る。植木鉢と同じくらいの深さまででいいだろうか。これからもっと大きくなるかもしれないから、もっと深く掘った方がいいだろうか。
 植木鉢から植物を取る。茎を持って引っこ抜こうとしたら、プチと嫌な音が鳴って、慌てて手を止めた。あれこれ試して、ようやく鉢から土ごと取り出した。ちゃんとちぎらずに抜けただろうか。
 テッカにとってわからないことばかりで、でもわからないことを聞ける隣人は。
 『テッカもそろそろ覚えてよ』
 もう、いない。
 「……ぅ、ぐぅ」
 突然、テッカの目頭が発火したように熱くなった。視界がぼやける。雨が目に入ったのだろうかと、ごしごし隊服の袖でこする。しかし、どんなにこすってもすぐにぼやけて、水が頬を伝った。いやに熱い雨雫だ。
 「……? なに……? 何とや、ごれ、ぐう」
 ぼろぼろ出てくる水の出所が自分の両目だと気づく頃には、肺がぎゅっと押しつぶされたように締まって、ろくに呼吸できなかった。まるで先日EBEに首を絞められた時みたいだ。思い出した、あの時は首が締まって反射的に涙が出た。今、両目から流れているこれは、涙だ。
 「うっ……ふ、な、んで……? なんでえ……?」
 テッカにはわけがわからなくて、それでも手を止めることはできなかったので、肩口で涙を拭いながら鉢の中身を掘った場所に置いた。土をかぶせ直してやっと一つめの鉢を植え替えても、まだ涙は止まらない。
 「うう~、ううう……なんで……なんでえ」
 祖父が、母が、第四大隊が、誰がいなくなっても流れなかったのに。
 何か気持ちを抱えるとしたら、怒りか悔しさかと覚悟していたのに。

 『彼ら』を喪って、襲い来るものが、

 「……かなしか」

 『悲しみ』だとは、思っていなかった。

 「うーッ……ううううう……」
 酸素を吸うと情けない泣き声になりそうで、上手く呼吸ができない。歯を食いしばって、喉の奥をぐうっと絞る。それでも、ぼろぼろぼろぼろ、涙だけは自力で止められなかった。
 「ううううう、ううううう」
 雨が降る。雫が落ちる。テッカの赤髪を、丸めた背中を、頬を伝う。
 空からの落水と、男の目から零れる落水を、中庭の地面が吸っていく。
 悲しいことが、こんなにしんどいとは思わなかった。怒るのはしんどいと知っていたのに、だからできるだけ怒らずに、穏便に過ごせるように生きていたのに。
 悲しいことは、自分の生き方ではどうにもできない。だってどうにかしてくれる人がいないから、悲しいのだ。
 「ノヅっちゃん。ミイちゃん」
 呼んでも、ここにはもういない。
 
 テッカは生まれて初めて、声を上げて泣いた。
 植木鉢の中の草木を地に放しながら、ずっと泣いた。

 ――そして、最後の一鉢に、小さな鍵が紛れているのを見つけた。

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