あるアクセサリー職人の話
ノアトゥンシティでは、朝が来たことを潮風が教えてくれる。
窓の向こうに見える水平線のふちが白く淡く染まりだす頃、海から風が吹いてカーテンを揺らす。その空気の流れが頬を撫でていって、いつもそれで自分の目が覚める。
ベッドから身を起こして伸びをするだけで、悲しいかな身体中がパキパキ音を立てた。誰にも遠慮せず大きなあくびをしながらカーテンを開けると、いつもどおり、コランダ地方いちの港町が朝焼けに照らされて真珠のように輝いているのが見える。――ただし、海から伸びるいくつもの光の柱は、いつもどおりではない。最近、突然海に現れたピンクサファイア色の光だ。
「あれ、まだあるんだなぁ」
自分は首を左右にゆっくり傾げながら呟いた。またペキッと骨が鳴る。三十路手前、どうも身体の凝りが増えてきたようだ。
あの光の柱の正体を、自分は知らない。ラジオでも新聞でも光の出現について大々的に報じられたのに、あれらが何なのかは「調査中」なんだそうだ。その「調査」をするための一団がノアトゥンシティを抜けてラーン湾沿いに集まっているらしいことを、昨日市場のおばさんから聞いた。
まあ、避難勧告もなければ海の様子におかしいところもないことだし、焦るようなものでもないんだろう。それなら調査団の人達に任せておいて、自分はいつも通りの仕事をするだけだ。
「兄貴」と、階下から妹――カルサの声が聞こえる。自分はベッド脇のサイドテーブルからモンスターボールベルトを取って、頭を掻きながら部屋を出た。
ダイニングの扉を開けると、ベーコンの焼ける匂いがふわりと鼻をくすぐった。扉が開く音を聞いたらしいカルサが、こちらに振り向かず「おはよ」と言う。
「ベーコン足すなら今のうちだよ」
「はあい。みんな出といで。ああ、おはようカレット」
リビングで寝そべるカルサのウインディに挨拶しながら、ベルトからボールを外してぽいぽい放る。サメハダーのサフィールのボールだけは、庭先の水辺に投げた。ジャローダのリュビはまだ眠いようで出てくるとすぐカレットの隣でとぐろを巻きだす。サニーゴのコライユは、同じサニーゴのシーリングに寄っていった。彼女達は仲良く隣同士の皿の前につく。
「兄貴、ディアマン何とかして」
カルサの声で見てみると、ディアマンと呼ばれたメレシーが彼女の周りをふわふわ付きまとっている。フライパンの中身に興味があるらしい。まだまな板の上に転がっていたベーコンをスライスして、フライパンに放り込んだ。
「ディアマン、おいで。カルの邪魔はいけないよ」
「兄貴、ベーコン厚すぎ!」
「ははは、ごめんって」
磁石のように今度は自分に付き始めたディアマンを連れてカウンターキッチンを抜けたところで、トースターの音が軽やかに鳴る。パンを自分と妹の分でわけて、それからポケモン達のフーズを皿に入れてやれば、その間にカルサの方も朝ご飯の準備万端だ。
「さすがカル、ばっちりの焼き加減だ」
「兄貴は焼くの下手だよね」
「ぼかあ火は普段から使わないからなあ」
「ガラスの火と料理の火は別物じゃない?」
「ははは」
カルサの理屈に答えきれなかったので笑ってごまかしながら、カルサの向かいに座る。「いただきます」と手を合わせると、「どうぞ」と返ってきた。ポケモン達もその合図で、それぞれのペースで皿の中身に口をつける。
パンにベーコンを乗せながら、向かいのカルサに声をかけた。
「カルサ、海は見たかい」
「見た。まだあるんだね、あれ。リーグが調査してるんだろ」
「らしいね。調査ついでに何か買っていってくれるかな」
「観光じゃないんだから」
ぴしゃりと言ってパンにかじりつくカルサ。はっきりと言葉を紡ぐ性格は兄の自分とは対極的で、だからこそ自分達兄妹は上手くやっているんだと思う。
シュー……
穏やかな呼吸音が聞こえてきたので振り向くと、リュビが鎌首をもたげていた。その首元の皮がうっすらとはがれかけていて、下から新しい緑の肌が鮮やかに光を反射している。
「あ、リュビ。久しぶりだね。カル、ちょっとリュビの脱皮を見てくるよ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
ベーコンパンを一気にモーモーミルクで飲み込み、席を立つ。「おいで」とジャローダに手招きすると、彼はしゅるしゅると体を波立たせてついてきた。ふよふよとくっついてくるディアマンの行く先を、カルサのウインディが通せんぼした。
初めてリュビの脱皮を見たのは、旅を始めて数か月後のことだった。
ノルンタウンのポケモン研究所で出会い、コランダ地方の各地を転々と行き来した自分とツタージャのリュビ。バトルの腕があまり立たなくて、このまま旅を続けるかどうか迷ったままふらふらとしていた。そんな日々が続いたある朝のこと、目が覚めるとリュビがゆっくりゆっくり、薄い膜を脱いでいたのだ。
神秘的な光景だった。進化とは違う形の、成長の瞬間。膜から出てきたリュビは確かに昨日まで一緒にいたのと同じリュビで、しかし昨日よりも滑らかで鮮やかで、大きくなっているように感じた。昨日までリュビの一部だった皮は、鱗一枚一枚の形が昨日までのリュビをそっくり映していて、確かにリュビの過去だとわかった。見ている自分まで、ぼんやりした霧の向こうにようやくたどり着いたような、長い長いベールのトンネルから抜け出したような、不思議な達成感と高揚感に捕らわれたのを覚えている。
この抜け殻は、ただの細胞の死骸じゃない。リュビが昨日まで生きて、成長し続けた証だ。
そう考えた自分は、どうにかしてリュビの成長の証をこの手に留めておきたかった。記念品というとカッコつけすぎているかもしれないけれど、この日体験した感動をいつでも思い出せるように、形にしておきたかったのだ。
その朝から、自分は今度こそ目的をもって旅立った。リュビの抜け殻を思いつくかぎり大事に包んでリュックの潰れないところに入れ、この膜を保存するすべを探しに歩いた。あちこち巡って、最終的に到達したのが、アクセサリーに加工するという手段だった。
その町に住んでいた「先生」に頭を下げて、半分押し入るように弟子にしてもらって。何年修業したかは忘れたけれど、一応一人でも色々と作れるようになってから、ノアトゥンシティに帰ってきた。
でも、今でも折を見てはあちこち出かけている。だって形に残したいのは、旅をして冒険をして、傷ついて立ち直って、そうして成長した美しいポケモン達の過去の証だから。出かける先にはかつての自分達のような、旅するポケモン達とそのトレーナー達がいる。もしも彼らが、昔の自分達と同じ感動を味わったのなら、きっとそれは取っておいた方がいいんじゃないかと思うのだ。
だから、自分はアクセサリーを作る。リュビがジャノビーに進化し、ジャローダに進化してすっかり脱皮のサイクルが落ち着いた今になっても続いている。きっとリュビがいつの日か脱皮しなくなるまで――いや、誰かがパートナーの成長の証を持ち込んでくるかぎり、ずっと自分の仕事は続くだろう。
リュビは脱皮する間、いつも自分以外の生きものにその場面を見られるのを嫌う。新しい皮膚が乾かない間に襲われるのを避ける、ジャローダとしての本能由来のものだろう。だから彼が皮を脱ぐ間、自分は蛇とふたりきりで、庭の片隅の木陰にひっそりと隠れる。一種の秘め事のようで、少しだけ震えてしまうのは内緒だ。
「リュビ。僕にだけ君の成長を見せてくれるの、いつもすごく嬉しいよ」
朝日が木漏れ日となって、新緑の蛇の鱗がエメラルドのように煌めく。そんな艶やかな体躯から、ばしんと容赦ない蔦の葉の平手打ちが飛んできた。
「照れないでよ、ごめんって」
笑って謝るとリュビはふんと鼻息を吐いてそっぽを向いた。尻尾の先を振り、脱ぎ捨てるように皮を放る。なんだかんだといっても、最終的には僕に昨日までの自分をくれる優しいパートナーだ。
「ありがとう、リュビ。これからもよろしくね」
いつもと同じように挨拶すると、蛇の真っ赤なルビーが二つ、返答のようにゆっくり瞬きした。鱗のエメラルドも、葉っぱのペリドットも、瞳のルビーも、太陽の光を受けていっそ厳かなほどに輝いている。自分の手元に残った抜け殻もまた、先ほどまでの彼の輝きをいまだ纏ってきらきらしていた。
さあ、今日も仕事に取り掛からなくちゃ。
コランダ地方で輝く君へ。
未来だけでなく過去の君にも確かに輝きがあることを、どうか忘れないでくれ。
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