Best Wishes

 「――え?」
 その報せは、ある日突然やってきた。
青天の霹靂とはこういうことを指すのかと、一周回ってぼんやり思ったくらいだ。
 でも、心のどこかでは、なんだか納得している自分もいた。
 だって『彼』はそういう人だ。こんなことを起こしても、まったく不思議じゃない人だ。
 ……だけど。そうやって理解したふりをしたところで、その衝撃を受け止めきれるほど、私は非凡ではない。
 そもそも平凡ゆえに、『彼』の非凡に憧れたのだから。
 「ジムの……閉鎖ですか?」

 事務的な手続きを済ませてしまえば、あとの流れは速かった。
 あれよあれよという間にジムの内部が片付けられて、トラックに乗せられて、どこかへ運ばれていく。
 私が挑戦者達を連れて歩いた廊下も。
 彼らに解説しながら見せた壁も。
 彼らとバトルしたフロアの焦げ跡も。
 色彩で溢れていたアトリエも。
 みんなみんな綺麗に清掃されて、『白』に戻っていった。
 この真白に戻った此処を、いずれ新しいリーダーが、彼または彼女の色に染めるのだ。
 この場所の新たな門出を、きっとこの町のみんなは歓迎し、祝福してくれる。私も書く実にその一人だ。
 ――でも。最後に此処を出る、今この一瞬だけは。
 『寂しい』を思うことを、どうか許してほしい。

 ――その日の夜。
 私は自宅のアパートで、キャンバスに向かっていた。
 「うーん……やっぱりだめね。この色もちょっとイメージに合わないわ」
 ぶびぃ?
 私が溜息交じりにパレットをデスクに置いたところで、ブビィのキーロが振り返る。彼は遊んでいた小さなボールをてんてんと転がしたまま、ベッドによじ登った。
 ぶ?
 ベッドからパレットとキャンバスを覗き込み、次いで私の顔を見る。こてんと首を傾げたので、私は何とか笑って彼の赤い頭を撫でた。
 「ごめんなさいね、心配かけちゃって。そう、この絵、まだ完成しないのよ」
 ぶぅ
 私はキーロと一緒にキャンバスに向かい直す。伝説のポケモンと、私の憧れのポケモントレーナーが戦っている絵。鮮烈な雷の色を、頭の中では再現できるのに、手持ちの絵の具をどれだけ混ぜ合わせても目の前に現すことができない。
 ぶび
 キーロはデスクに散らばった絵の具を手に取り、嬉しそうな顔で眺める。雷の色を作るのに使っていた、数々の黄色の絵の具。
 「ふふ。そうよ、あなたの名前と同じ色。でも、本当はもっと素敵な黄色が欲しいのよ。あなたの炎みたいな、ね」
 思わず、右手に持っていた絵筆をぎゅっと握りしめてしまう。
 「……だめね。どんなに探しても、どんなにがんばっても、見つからないものは見つからないわ。それなのに、まだここで私は探してしまう」
 今まではそれでもよかった。一日のうちの何時間かは気分を切り替えて、私のもうひとつの居場所で、もうひとりの私になれたから。暗中模索の絵描きのトニではなく、ジムトレーナー兼学芸員のトニとして、ポケモン達と、トレーナーの皆さんと、関わり続けていられたから。
 ――でも、それはもうできなくなってしまった。
 「……どうしたらいいかしら」
 ぼんやりとキャンバスを見つめる。色の乗っていないキャンバスはまだ白い。だけど、もうひとつの私の居場所も、もう白くなってしまった。
 この部屋にも、あの場所にも、私の好きな色はない。
 帰ろうかな、と、一瞬そんな考えがよぎる。イッシュ地方に帰るのも、選択肢のひとつかもしれない。でも、帰ったところで、私は何をするんだろう。結局は私が子ども時代を過ごした部屋で、やっぱりキャンバスと向き合い続けているんじゃないだろうか。
 「私……どこに行ったらいいのかしら」
 じわり。目頭が熱を帯びた、その時だった。
 ぶび! ぶび、ぶーっ!
 ぼぼっ
 私の顔を見たキーロが、慌てて火を噴いた。黄色の炎が白いキャンバスを撫でる。私はびっくりして、慌てて手の甲で目元を拭った。
 「キーロ? 何してるの?」
 ぶび! ぶ! ぶ!
 黄色の火の粉がキャンバスをちらちらと照らす。そのままその色が白の画面に入りこめばいいのに、と思った。が、そんなことになるわけがない。キャンバスはじりじりと焦げて、黒くなっていく。
 「キーロ、だめよ! 火事になっちゃうわ」
 ぶ!? ぶび~!?
 私が止めるのと、ブビィが黒くなったキャンバスを見て慌てるのが同時だった。黄色の火はキャンバスを食い、その噛み痕は黒く縁取られる。キーロはばたばたと掌をキャンバスに押し付け、自分の噴いた火を揉み消した。
 ぶ、ぶぃ~……
 大変なことをしてしまったとばかりに、ぼろぼろと大粒の涙がキーロの瞳から溢れ出す。この子はちょっぴりお調子者だけど、悪いいたずらをするような子ではない。何か理由があるはず……と思ったところで、床に落ちた黄色の絵の具が私の目に入った。
 「キーロ。もしかして、黄色を塗ろうとしてくれたの? 私が『あなたの炎みたいな』黄色を塗りたいって言ったから……」
 ぶびぃ~
 泣きながら両手を伸ばしてくるブビィを、私は腕を伸ばして抱き寄せる。
 「……ありがとう、キーロ。あなたの気持ち、すごく嬉しいわ」
 びぃぃ~!
 「大丈夫よ。少し焦げただけだし、色も塗っていないから。また描き直せば……いいんだわ……」
 キーロの背中をあやすように叩きながらキャンバスに目をやって、そこで私の言葉は止まった。
 白いキャンバス。
 黒い焦げ跡。
 何色もないと思っていた私のキャンバスに、炎がもたらしたただ一色。
 「……!」
 漆黒のはずなのに、無彩色のはずなのに。
 私の目には、そこに確かに、雷の黄色が映っていた。
 「……光と、影……」
 そうか。雷なら、光なら、もっとシンプルに描けばよかったんだわ。
 有り余る色を塗るだけが、この世界の豊かな色を表す手段ではないんだ。
 「……キーロ。見て。あなたの作品、とっても素敵だわ」
 ぶび?
 キーロがしゃくり上げながら、不思議そうにキャンバスを眺める。私は彼の頭を撫でて、その温かい身体を抱き締めた。
 「ありがとう、キーロ。私、もう少し、がんばってみるわ」
 自然と笑えてそう言えた時、私は思い出したのだ。
 私はここに来る前まで、ずっと旅をしていたことを。

 数日後。
 アパートを引き払って荷物をまとめた私が最後に訪れたのは、ドキドキストアだった。
 相変わらず、眺めて歩くだけでも心躍るような、あらゆる商品の山々が犇めく空間だ。
 画材のコーナーまでは、もはや足がひとりでに動く。取り寄せてもらったアザーブルーの絵の具、何度も買い直したあらゆる黄色の絵の具。そして、いつも買っていた絵の具のセット。
 カラフルな棚を愛しく思いながら、私はそこを通り抜けた。その隣の棚の商品を手に取って、レジに向かう。
 「こんにちは、ハートさん」
 「あら、トニさ……!」
 ドキドキストアのハートさんには、ずいぶんお世話になった。巻き毛をふわりと翻して振り返った彼女は、私を見て目を丸くする。
 「トニさん、髪を切ったの?」
 驚いた顔を見せてくれたハートさんに、私は思わずはにかんでしまう。子どもの頃以来、久しぶりにうなじをくすぐる私の赤髪が揺れた。
 「はい、ご覧のとおりです。今日はこちらをお願いしたくて」
 「あ、お会計ね。ええと……あれ、これは……」
 ハートさんが、私がレジに出した商品を見て手を止める。いつも私が買っている絵の具ではないから、レジ打ちに戸惑ったんだろう。
 「はい、画材の木炭です。私、木炭画を始めようと思いまして。もちろん油彩画も続けますから、足りなくなったらまたここに買いに来ますね」
 「……トニさん」
 ハートさんが顔を上げて、私の目を見つめる。私は震えそうになる声を抑えた。
 「ハートさん。私、旅を再開しようと思います。私、元々は豊かな自然の、生き生きとしたポケモンと人々の『色』を見に、このコランダ地方にやってきました。この町であの方に会い、ハートさんに会い、ギセルさんやハウンドさんに会い、ジムチャレンジャーの皆さんにも会いました。それらすべて、ジムトレーナーのトニでなければ出会えなかったご縁ですし、とてもありがたい、大切な思い出です」
 私は木炭をするりと撫でて、そのままハートさんの方に少しだけ滑らせる。
 「ジムトレーナーでなくなった今、また旅を始めようと思います。このコランダ地方で輝く色のすべてを見たいのです。ポケモントレーナーのトニの旅を、続きから始めようと思ったのです」
 私は今、上手く笑えているだろうか。そうであってほしい。
 私たちはまた会えるのだから。
 「ハートさん、これまでお世話になりました。またダグシティにはいつか必ず戻ります。その時まで、どうかハートさんも『良い旅を』」


 コランダ地方で輝く君へ。
 光も影も、白も黒も、すべてが君を彩る色だ。

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