空中散歩

 十文字マサギは悩んでいた。
 「………」
 特に眉間に皺を寄せるでもなく、口元を歪めるでもないので、一見すると隊員食堂でカレーを眺めながらボケッとしているようにしか見えない。……が、これでもマサギは悩んでいる。
 彼が無口なのはいつものことだが、今日は増して喋らないので、流石に同僚も心配した。
 「マサ、どした? なんか悩み事?」
 「うす」
 声を掛ければ即答する辺り、いつものマサギだ。少し同僚の不安が和らいだ。
 「俺でよけりゃ、相談に乗るぞ?」
 「………」
 マサギは少し考える。同僚に今の考え事を相談して、果たして解決に繋がるか……?
 だが結局は相談してみないとわからないと結論付け、彼は黙ったままジャケットの内ポケットを探った。
 何が出てくるのかと同僚が身構えているとーーカサッと乾いた紙の音を立てて、1枚の封筒がテーブルの上に置かれた。マサギがぼそりと説明する。
 「……これ、頂いたんす。誰かと一緒にどうぞって言われて。でも、誰と行くべきかわからんで」
 「? 何これ、何かのチケット?」
 シンプルな白の封筒を同僚が開ける。すると中からは、美しく精緻なデザインのチケットが2枚出てきた。
 「コンサートのチケットす。オーケストラのコンサート」
 マサギはいつもの調子で告げた。


 退勤時間になっても、十文字マサギは悩んでいた。
 同じマンションに住むオーケストラ指揮者のガーネットから、誕生日プレゼントとしてコンサートのチケットを2枚貰ったまでは良い。折角貰ったのだから、1枚は自分が行くために使おうと思った。
 問題は2枚目をどうするかだ。誰かを誘うにしても一体誰を誘うべきか、マサギには見当がつかなかった。家族は遠くに住んでいるから物理的な距離の問題で誘えない。レンジャー仲間も候補に考えたが、彼らとは休む日が合わない。
 一応同僚の一人に相談したものの、
 「そんなもん、一緒に行きたいヤツと行けよ! 誰と行くべきかじゃなくて、誰と行きたいかだよ、そういうのは!」
と叱咤されてしまった。
 ーー誰と行きたいか、か。
 そう言われても、特に行きたい人物が思い浮かばない。
 こうして、どうしたものかと首を捻りながら、マサギは通勤用のロードバイクのペダルを漕いでいるのであった。
 職場から駅前を通過し、大通りを抜けて住宅街へ。そうしてマンションに向かうのが、いつもの通勤ルートだ。
 だが、駅前を通りかかったところで、バス停の集まるロータリーに見知った姿が立っているのを見かけた。夕陽に輝く金色のロングヘア、秋風に揺れるロングスカート。マンションの管理人である少女、イオだ。足元には彼女のパートナー、ナエトルのシオンもいる。
 イオは両手にスーパーの袋を提げたまま、困ったようにバス停の時刻表とにらめっこしていた。「管理人さん」と声を掛けると、イオは振り向いて「十文字さん!」と笑った。
 「偶然ですね! 今、お仕事終わりですか?」
 「うす」
 「ふふ、お疲れ様ですっ」
 えーう
 わざわざ荷物を置いていつもの敬礼をしてくれるイオ、その後から声を上げてくれるシオン。マサギは敬礼を返しながら、少女が持って帰るにはあまりに多い荷物に目を移した。
 「管理人さんも、帰りすか」
 「ええ。ちょっと駅前の大きなスーパーまでお買い物に来たんですけど、バスを逃してしまって……次は20分後だそうです」
 タイミングが悪かったです、とイオが苦笑いした時、風が一層強く吹く。
 冷たい秋の夜風の中、彼女をこれからさらに20分間置いていくわけにはいかない。マサギはそう思ったが、生憎マサギのロードバイクでは荷物と少女を乗せきれなさそうだった。
 ーーそれならば。
 「管理人さん」
 「はい?」
 マサギはモンスターボールを広場に放る。中からはリザードンのりきちが出てきた。
 マサギはロードバイクを折り畳みながらイオに言う。
 「良ければ帰りませんか、空から」


 空を吹き抜ける風でイオが冷えないようにジャケットを貸したマサギは、シオンを抱っこしたイオをリザードンの背に乗せ、その前に跨がった。荷物はりきちが持っている。
 「ちょっと難しいかもっすけど、片方の腕でシオン君抱っこしながら、もう片方で俺にしっかり捕まってて下さい。ーー大丈夫すか」
 「は、はいっ」
 えう! 
 ふたりの返事を聞くと、マサギは頷いて「りきち」と呼び掛けた。りきちはすぐさま翼を羽ばたかせ、ゴゥッと音を立てて茜色の空に舞い上がる。
 すると背中から、少女とナエトルの歓声が聞こえた。
 「わぁっ、すごい! 空を飛ぶって不思議な感覚がしますね!」
 マサギは空を飛ぶのに慣れているが、イオの方はそうではないらしい。
 「怖くなったり気分悪くなったりしたら言って下さい。もちろん安全に飛びますが」
 「大丈夫です! りきち君、荷物も私達も乗せて飛べるなんて、力持ちですね!」
 「あざす。りきち、褒められてる」
 ガウ!
 りきちは得意気に炎を一吹きした。
 一行はいつも地上から見る町を空から見下ろしつつ、道なき帰途を進む。夕陽はいつもより低いところまで沈んでいくように見えるし、紺色に近くなっていく雲は手を伸ばせば届きそうだ。
 イオは再び背中から声を掛けてきた。
 「十文字さん、いつもの通勤は自転車ですよね」
 「うす」
 「りきち君とこうして空を飛ぶのって、あんまりないんですか?」
 「いえ、仕事の移動は大体コイツに頼んでます」
 「へえ……! じゃあ、空は慣れてるんですね! いいなあ、一緒にお空の散歩もできますねっ」
 「空の散歩……。……ええ、そっすね」
 空の散歩という表現はマサギには考えついたことがなかった。この少女は本当に可愛らしい言葉を遣う。そういえば、最近仕事以外でりきちに乗ることが減った。力自慢のりきちは、空を飛ぶのが好きなのに。
 ーーそのうち、休みの日にでも飛ぶか。
 マサギがぼんやり考えていると、イオが「あ」と声を上げた。
 「あれ、マンションですよね! 上から見るとこんな感じなんだなあ」
 見下ろせば、屋上に菜園がある建物が夕焼けに照らされている。
 「あそこ、降りていっすか」
 「はい!」
 管理人の許可を得ると、マサギはりきちに降下の指示を出した。
 あっという間の、空中散歩だった。


 屋上に降り立ってりきちをボールに戻したマサギは、イオに代わって荷物を担ぐ。
 そこでふと、昼間ずっと考えていたことを思い出した。ガーネットから貰ったコンサートのチケットだ。
 管理人さん、と呼び掛けると、屋上に降りたついでに菜園の様子を見ていたイオが顔を上げる。
 「はい?」
 マサギはジャケットからチケットを出して見せようとしてーージャケットをイオに貸していることに気がついた。
 手を引っ込めて口に出したのは、いつもの言葉足らずな言葉。
 「……あの、コンサート……行きませんか」

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