舞踏会にひとりきり

 一度言わせた台詞を言い直させるほど、さすがにアンジュは無粋ではない。だが言われた台詞を一度で噛み砕いて飲み込めるほど、実は器用でもない。
 「……ちょっと、タイム」
 そんなわけでクルールの差し伸べた手に向かって、アンジュは右の掌を突き出した。そのまま顔をうつむかせて、左手でカフェオレを啜る。
 「今飲み切らなくてもいいのに」
 「いいから待っへろ」
 クルールの言葉にストローから唇を離さず答える。口を離すわけにはいかなかった、離してしまえば何か言わなければいけないからだ。しかし、アンジュの頭ではぐるぐるとクルールの言葉が渦巻いて、自分の台詞を考える隙がない。
 『パフォーマンスの舞台まで、もう少し僕のお姫様でいてくれるんだろ?』
 ――いや怖! カロスの男、怖っ!
 台詞は出てこないが、正直な感想ならそう思い浮かんだ。
 ――何だコイツ、七年前なんかほんとにただの気難しい奴だったのに! 芝居でもこんなこと言う奴じゃなかった……と思うんだけどなあ!
 自分の記憶とは異なる元・少年――現・青年の立ち居振舞いが、アンジュの体の内側をざわめかせる。先ほど一瞬だけ、彼からこぼれ出た「は?」とこちらを威嚇するように問い返してきた低い声で、むしろアンジュは安堵したくらいだった。アンジュの中のクルールはそんな風につっけんどんな男の子だ。アンジュにはイリーゼのふりをやめた今でもなお、彼が誰か別の人間の真似をしているように思える。いや、確かに今、彼は王子か何かのようなまねごとをしているわけだが。
 ――ああ、でも、そうか。やっとわかってきたぞ。
 「王子」という言葉が思い浮かべば、ようやくアンジュは少し心を落ち着けた。なぜなら「王子」は自分の肩書、パフォーマーのアンジュを取り戻す呼び名だからだ。アンジュは大人になって、パフォーマーになった。きっとクルールも同じなのだ。もうクルールはこっちのイタズラに仏頂面をするだけの男の子ではなくなったのだろう。大人になって、旧友でさえお姫様扱いできるような人になったのだ。ある種のパフォーマーとして。
 きっとこれは今のクルールなりの意趣返しなんだと、アンジュは思った。昔自分が彼を騎士と呼んで、ずっとその調子で話していたから、今度は彼が自分を姫と呼ぶのだ。
 ――わかった、わかったぞ。
 アンジュは努めて息を吸い、息を吐いた。ついでに最後のカフェオレを啜って、そのまたついでにカップをぐいとあおって中の氷を口腔に迎えた。冷たい氷をわざと噛み砕く。
 ――よし、カラクリがわかったからにはもう大丈夫だ。こっちは本職のパフォーマーだぜ。演じることなら負けやしないさ。
 姫と呼ばれて照れることも、手を引かれて心をざわめかせるのも、
『それはアンジュに贈るつもりで贈ったものだよ』
――そんな『科白』で胸を躍らせるのも、すべてそういうパフォーマンスだと思えばいい。
 アンジュはぬるい水と化した氷を、ごくんと飲み込んだ。
 「――ノアのところには、今は行かない」
 彼女の出した声はいくぶん元の調子を取り戻して、低く悠々としている。クルールはぱちりと瞬きした。
 アンジュはカップをぺこぺこ潰しながら、クルールにまっすぐ顔を向ける。
 「クルールもそのうちイリーゼに会うんだろ。お前の言うこと信じるよ。だから、オレも今は行かない。お互い、各自でちゃんとケリつけようぜ」
 「そう。じゃあ、どうします?」
 クルールは律儀にも、いまだに差し出した手を引っ込めていなかった。アンジュはふっと口元を緩めて、その手を取った。
 「遊ぼうぜ、クルール! せっかくの遊園地なんだ、遊ばないで何するって話だろ?」


 アトラクションを渡り歩いているうちに、アンジュとクルールはいつしか大きなステージを向かいに構える広場に出た。隅から隅まで人やポケモンでごった返してざわついている。アンジュの知っているざわめきだった――まるでトライポカロンが始まる前の観客席のようだからだ。
「もうすぐステージ始まるみたい」
 自分たちの傍らを追い抜きざま誰かがそう言うのを耳にして、アンジュは半ば反射的にそちらを見た。一冊のパンフレットを二人の女性が共有して眺めながら話している。
 「ねぇ聞いた? あのポケドルの子が今日のステージに上がるんだって」
 「ほんと? 楽しみだなぁ!」
 彼女たちの会話は続いているが、アンジュからは離れて行ったので、その声は喧騒に紛れてしまう。アンジュはクルールに声を掛けた。
 「なあクルール、ちょっと見ていかないか」
 「いいよ。席を探してこようか」
 「いや、いいよ。後ろの方で立って観ようぜ。少し見たいだけだし、もう前の方の席は埋まってるだろ」
 「お心のままに。じゃあ、この人ごみを抜けましょうか」
 クルールが先ほどと同じ調子で手を差し出す。が、今度はアンジュも苦笑するに留まって手を取った。どうにかこうにか手を取って返すまでは慣れてきたのだ。まだ若干、全体的に動きが鈍くてぎこちないが。
 「お前、マジでオレのステージ始まるまでそれやるの?」
 「そういう約束でしょう」
 「やべー。オレのパフォーマンスより長いことやるじゃん」
 前方のクルールに手を引かれながら声を掛ければ、背中越しに声が返ってくる。視線を落とすと自分と彼の手が見えた。クルールの手は黒い手袋に包まれている。綺麗な手だなと思うと同時に、アンジュは自分の手の感覚が急におかしくなって、危うく不自然に引っ込めるところだった。暑い気がするのは手袋の素材の熱だろうか。自分の手が真っ白になっているのを見たところで、アンジュはもはやそれらを見ていられなくなった。
 「この辺りでどうでしょう、お姫様」
 「え、あ、ああ」
 クルールの声が聞こえたと同時に彼の歩みも止まって、アンジュも足を止めた。振り向けばやや人の頭で隠れはするものの、観賞には問題ない程度に視界が開けている。
 「うん、よく見える。おいでカシュー」
 アンジュはクルールから手をそっと放して、足元の相棒を抱きかかえた。リーフィアの高さでは、さすがにステージが見えないと思ったからだ。
 ふぃ
 アンジュの手が体に触れて、カシューは主人の顔を見る。さすがは相棒といったところか、彼もどうやら手の温度に違和感を覚えたようだ。アンジュは「まいったよ」とカシューだけに聞こえるように囁いた。
 「始まるかな」
 ステージの方を見ていたクルールが呟くと、果たしてステージ上のライトが一気に輝いた。腹の底に響くほど大音量の音楽がスピーカーから飛び出す。すると、さっそく一人目の出演者らしき少女がステージ袖から現れた。
 途端にワァッと広がる歓声。ステージの熱が一気に高まる。割れんばかりの拍手を、カシューを抱えていて手を叩けないアンジュは、代わりに彼の体をぽふぽふ叩きながら聞いた。
あの少女が、パンフレットを見ていた女性たちの話していたポケドルだろうか。そうだとしたら彼女たちが楽しみにしていたのも納得できるな、とアンジュは思った。ライトを浴びてきらきら輝く、太陽の光を糸にしたような金髪。人形のように可憐で可愛らしい顔の真ん中で、ルビーとエメラルドのような色違いの瞳が煌めいている。彼女の周りを、おそらくパートナーであろうエルフーンが軽快に跳ね回った。眩しい笑顔に軽やかなダンス、透き通った歌声。ポケドルとして申し分のないパフォーマンスだ。
 「失敗したな、パンフレットをもらってくればよかった。彼女の名前がわかんないや」
 「そういうのって、出演者同士には伝わらないのか?」
 「タイムテーブルには自分の順番に関係する時間が書いてあるだけさ。まあいいや、後でスタッフに聞くよ」
 周りの観客の邪魔にならないように、ひそひそと言葉を交わすアンジュとクルール。こんなに人がいるのに、この会話を聞いているのはお互いだけなんだなと、アンジュはぼんやり考えた。
 ――約束の時間まで、あとどれぐらいだろう。
 タイムテーブルは自分のスマートフォンに記録してあるし、時計もスマートフォンに当然搭載されている。が、アンジュの手はそれに伸びなかった。パフォーマーとして公演一回あたりの時間は把握しているけれど、それを測りたいとも、計算したいとも思えない。
 嫌だなと思った。「何が」と自分に問う前に、クルールを「なあ」と呼んだ。
 「もう一か所、行きたいところがあるんだ。彼女が終わったら行こうぜ」
 ポケドルの少女のパフォーマンスは純粋にとても魅力的で、そういう意味でもアンジュはアンコールを彼女に送りたかった。


 天気も快晴、空も海も真っ青。絶好の釣り日和だ。だが釣り大会はとっくに終わって久しいし、アンジュも今は釣竿なんて持っていない。
 アンジュがクルールを連れて辿り着いたのは、遊園地の賑わいから遠く離れた静かな浜辺だった。かつて新人トレーナー達が合宿に集まったレイメイの丘。人やポケモンの声と施設のBGMに代わって、聞こえてくるのは潮騒だけ。
 「もう釣竿の貸し出しはやってないのかな」
 「あれは合宿のイベントだったし、やってないだろ」
 アンジュの問いにクルールが返す。そうだよなあ、と肩をすくめるアンジュに、今度はクルールが聞いた。
 「それで、イベントもアトラクションもないところに来ちゃったけど。本当によかったんですか、お姫様」
 「うん、もちろん。オレがこれからイベントを起こすからいいんだ」
 「は?」
 さすがに言っていることが素っ頓狂すぎたようで、クルールからしばらくぶりの低音が出てくる。アンジュは「あはは」と声を上げて笑った。
 「クルール、やっぱりお前そっちの方がお前らしくていいよ」
 「そっちって?」
 「その、対応がちょっとしょっからいとこ」
 「はあ…?」
 自分の表現がクルールに伝わっていないことはわかったが、アンジュはそれ以上説明しなかった。クルールの肩を軽く押して、波打ち際から距離を取るように浜辺の真ん中まで歩かせる。
 「お前はこっち。ジジもね。あ、ふたりとも座ってていいよ」
 「……? 何するんだ」
 「リハーサル」
 クルールを『観客席』に置いて、アンジュは波打ち際まで戻る。「リハーサル?」と聞き返すクルールに、距離が離れた分少しだけ声量を上げて答える。
 「なんか、あのポケドルの子のパフォーマンス観てたら演りたくなっちゃってさ! でもオレのステージの順番はまだだし、勝手に遊園地でパフォーマンスするわけにもいかないからね。ここなら人気もないし、いいかなって。いいだろ、リハーサル。付き合ってくれよ」
 クルールにウインクしてから、ボールを二つ、天高く放る。出てきたのはトゲキッスのピスタチオと、モジャンボのサラダだ。
 「みんな、リハだからって気を抜いちゃダメだぜ! そこにいる観客ふたりにスタンディングオベーションさせてやろう」
 座長の呼びかけに相棒達がそれぞれの鳴き声で答える一方、クルールは苦笑を浮かべる。
 「そこまでパフォーマンスしたら、もうステージ本番も同然だな。まだ12時には早いんだけど」
 「……いいんだ。もう、魔法を解かないと」
 ぼそり、と小声で返した。距離があるから、クルールには届かない。
 「え?」
 「それなんだけどさあ、クルール! このリハーサル終わったら、罰ゲームも終わりでいいかなあ!」
 アンジュは今度こそ大きな声で返答した。ポケットからするりと青いリボンを取り出して、前髪をかき上げる。ワックスもアクセサリーもないから、このリボンがその代わりだ。髪を留めるリボンは、普段ならパフォーマンス衣装の胸元を留めている。
 そのリボンの色を見たクルールが、少し目を見開いた、気がした。
 「――クルール! どうだい、似合うかい?」
 アンジュは笑った。


 まずはステージを飾るところから始める。
 「サラダ、『エナジーボール』! ピスタチオ、『はどうだん』!」
 自分の右手にいるモジャンボから緑色の、左手にいるトゲキッスから青色の光の弾が飛ぶ。
 「カシュー、『リーフブレード』!」
 アンジュがバレーボールのレシーブの構えを取る。正面から跳んできたカシューを受けてそのまま腕を振り上げれば、リーフィアはぽーんと軽く跳んだ。
 ふぃ!
 新緑の尾が刃になって光弾を斬る。二つの光弾は割れて弾けて、光の粉となって降り注ぐ。
 イルミネーションが整ったら、次はアクションだ。
 「サラダ、『パワーウィップ』頼む! カシュー行くぜ、『つるぎのまい』!」
 もじゅ!
 サラダの腕がアンジュとカシューに勢いよく伸びる。ふたりは同時に跳んでパワーウィップを避け、着地してはターンし、また跳んではステップを踏む。長縄跳びの要領だ。「パフォーマー王子」とその剣役のパートナーの舞は、これでも結構評判のいい演目のひとつだった。
 ――なんて感想をくれるかな、と思い浮かんだ。きっとスタンディングオベーションなんてするまい、クルールはそんな奴じゃない……と考えたが、どうだろうな、とも思う。騎士としての芝居の一環でやってくるかもしれない。
 でも、どんな言葉がこの後に来ても、もう終わりだと思った。

 「似合う」と一言言わせてみたかった。それは最初、いたずら心あるいは好奇心から湧く、願いと呼ぶにはささいな願いだった。
子どもっぽいそれが、色を変えたのはいつだろう。自分でもわからないが、たぶん、自分でもわからないうちにだんだんと変わっていったんだろう。空の色が急には変わらないように、でも気がつくと変わっているように。
 それに自分では気づいていたかもしれないし、気づいていなかったような気もする。気づいていないふりをしていたかもしれない。だって王子は、パフォーマンスを観てくれる人々の、カロスじゅうのプリンセスの王子だ。演じてはいるが、それでも王子はアンジュの一部で、アンジュは王子だった。
 だから今日の罰ゲームは、本当に罰ゲームだった。気づいていないふりをしていたそれに、あるいは本当に気づいていなかったそれに気づいてしまった。あまり気づきたくないことだったが、だからこそ気づかされたのはまさしくある種の罰だろう。何に対する罰なのか――あのクイズの時、安易にエンターテインメント性に欲を出したことへの罰か。
 ――馬鹿なことをしたよ。ずっとしてるか。
 罰ゲームで変身させられた先がシンデレラでよかった。だってシンデレラなら、12時きっかりに魔法が解ける。姫はアンジュに戻って、騎士はクルールに戻ってお話は終わりだ。
 優しい言葉も、差し出された手も、先を歩く背も。
 揺れる心も、震える手も、浮き立つ足も。
 すべて、魔法さえ解ければもとどおり。あとは、ガラスの靴を両足とも忘れないようにして去ってしまえばいい。12時には早いかもしれないが、むしろ早い方が忘れものの確認ができて都合がよかろう。ガラスの靴を残す気はない。だってクルールは友達だ。ずっと友達でいたかった。

 ――でもさ、クルール。魔法にかけられて、姫の気分をちょっとでも味わえて、オレは嬉しかったよ。
 王子様に恋するお姫様って、こんな感じなんだな。

 これ以上、色が変わってしまう前に。
願わくばすべての始まりのこの海で、すべてが終わりますように。

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