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一話 『その距離、600m』

 五五六番。それは十八年間俺についた名前だった。そして今日俺はもう一度草薙鋼太郎に戻る。道を逸れても自身の足元を信じて疑わず極めた。今日までの懲役も己の仁義を尽くした結果だと了解ずくだ。がしかし森羅万象一切は風化するのだと、諸行は無常、あの時の信念も十八年という長すぎる時間に錆びがつき、若さのとげとげしさにも丸みを帯び始めていた。吸い込まれるような青天井の秋空の元、三十八歳、男、草𦿶鋼太郎は第二の人生を踏み出した。
 晴れやかな空模様とは対照的に俺はムズついている。娑婆の空気がそうさせるのか、期待と不安か、十八年来の欲にまみれた俗世は恐怖という感覚で形容する他なかった。砂利銭を握り締め、一番にセブンスターを蒸かそうと決意し、刑務所の門の解錠を待った。
 「五五六番、お勤めご苦労だった。お前は受刑態度こそ模範的であったそうだが、ついに秘密を漏らさずに十八年間を耐えた。そういうところ嫌いじゃなかったぜ。もう帰ってくるんじゃあないぞ。」
 迎えのこない俺を気遣ってか、俺を豚箱にぶち込んだ刑事がわざわざ送りに来ていた。いらない世話だ。しかし孤独との戦いであったこの刑期でガキだった俺を取り調べとはいえ話し相手になっていたのもあの刑事だ。心中、愛憎入り混じる心持ちであることは否めない。鉄格子の門を隔てて鍵を閉めるその刹那、礼の一つでも言うべきかと振り返ると刑事は目に涙を浮かべていた。俺は前を向き直し、お天道様にお辞儀をした。

 へっくしゅん。とくしゃみを一つすると、ムズついた欲が堰を切ったように溢れ出した。自由だ。酒、女、野球、パチンコあらゆることが光り輝いている。叫び出したい。本当に今叫び散らかしたらまたムショに逆戻りだなと一人勝手にほくそ笑んだ。あらゆる欲が俺を誘惑する。その中でまず最初に、
おしっこがしたい。
そう思った。
セブンスターよりも何よりもまずおしっこしたい。出所前にトイレに行けばよかったが、緊張していたせいか全く催さなかった。おしっこしたい。おしっこがしたい切実に。この辺の地理も全く覚えてない。コンビニはないのか。漏れちゃう。俺は踵を返し、やや気恥ずかしいが門を隔てた先にいるあの刑事に声をかけた。
「あのぉすいません、刑事さん、トイレ貸してもらえませんか。」
やや照れ笑いを浮かべながらそう告げた。
「だめだ、関係者以外の立ち入りは禁止されている。」

 驚いた。一瞬尿意が引っ込むくらいに。

「いや、え?、、、だめですか?さっきまでここの受刑者だったんですが、、。」
「だめだ、お前はもう立派なカタギに戻ったんだ、胸を張ってコンビニのトイレに行っていいんだ。600m先にこの道をゆくと見えてくるぞ。」
「関係者ではあったでしょう。元犯罪者と刑事のよしみでそこをなんとか。600mは耐えられないですよ、漏れちゃいますよぉ。」
「ダメだ。規則だからな。立ち入りは許されない。」
腹が立った。こんなにも世間は冷たいのか。もうヤケクソだ。俺はベルトを外し、社会の窓を全開にし尿意の開放を図った。規則のシンボルであろう刑務所で立ちション、長い間縛られた俺にはおあつらえ向きってもんだ。
「おい!何をしている!」
「何って立ちションですよぉ。」
 ニヤリと笑った。このクソな世間に舞い戻り一発目にしょんべんを引っ掛けてやる。これは俺なりの報復なんだ。
「てめえ!また豚箱にぶちこまれてえのか!」
 俺には覚悟があった。迷惑防止条例かなんかで再度捕まろうが、俺は俺の信念を貫く。そうやって生きてきた。漢、草薙鋼太郎、再度名前を奪われようと、やらなきゃならねえときがある。
「わ、わかった、、トイレに入れてやる。が、しかし条件がある。お前が十八年間守り続けた秘密を話せ。話はそれからだ。」

 抜けのいい秋風がぴたりと止み、朝のラジオ体操の音源と受刑者たちのイチニサンシの掛け声が空にこだました。


第二話
https://note.com/abejun2020/n/n6206d97f57d6

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